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第二章:雨音と重なる鼓動

季節は巡り、五月の爽やかな風はいつしか湿り気を帯び、空は厚く垂れ込めた、鉛色の重たい雲に覆われる日が多くなった。

梅雨。

しとしとと窓ガラスを静かに叩く優しい雨音の日もあれば、バケツをひっくり返したようにザーザーと激しく降りしきり、視界すら白く霞む日もある。

そんな日は、外の世界のあらゆる喧騒も、湿った雨音と、地面に叩きつけられる水の音にかき消され、古書のインクと埃の匂いがいつもより濃厚に充満する図書室は、いつにも増して深い静寂に包まれていた。

まるで、外界から完全に隔絶された、水深数百メートルの深海にいるかのような、独特の、少し息苦しいほどの閉塞感と、それでいて不思議な安らぎが同居する空間。

それが、梅雨時の図書室だった。


窓の外では、濡れたアスファルトの匂いと、湿った土の匂いが混じり合って立ち込め、色とりどりの傘の花が、まるで水面を漂うクラゲのように行き交っているのが見える。

そんな雨の日の放課後、俺はカウンターの中で、延滞された本に、やや事務的な手つきで督促の付箋を貼り付け、返却された本を分類し、黙々と本来あるべき棚に戻すという、単調な作業をこなしていた。

背の高い本棚の迷路のような通路を歩いていると、自分の足音だけが、妙に大きく響いた。


その時だった。

入り口の、年季の入った重厚なオーク材のドアが、ギィ、と静かに、しかしはっきりと軋む音を立てて開いた。

反射的にそちらに視線を向けると、そこに立っていたのは、俺がこの場所で最も予期していなかった人物――日向咲葵だった。

彼女は、雨に濡れた艶やかな髪を、持っていた白いタオルで少し乱暴に、しかし手際よく拭きながら、軽く肩で息を切らせていた。


「あ、あのー、すみませーん、ちょっとお聞きしたいんですけど…」


その日は体育館が、他の運動部の練習試合のために全面使用できず、彼女たち女子バレー部は、体育館前の屋根のある通路や、校舎の長い廊下を使って、筋力トレーニングやダッシュなどの基礎的な体力メニューをこなしていた帰りらしかった。

上下グレーの、飾り気のないシンプルなジャージ姿の彼女は、コート上で見せる、勝負師のような、あるいは戦場の指揮官のような凛々しさとはまた違う、少しだけあどけなさが残り、どこか無防備で、親しみやすい雰囲気を漂わせていた。

雨に濡れて冷えたせいか、それとも激しい運動の後だからか、彼女の頬はほんのりと桜色に上気していて、それが、普段の快活さとは違う、妙に艶っぽい色香のようなものを感じさせた。


「あの、すみません。スポーツ科学系の、特に体幹トレーニングとか、バレーに必要な瞬発力を高めるトレーニング方法とかについて書かれた本を探してるんですけど、どの辺りの棚にありますか?」


カウンターの中にいた俺に向かって、少し遠慮がちに、しかし芯のある、はっきりとした声で尋ねる。

いつも体育館中に響き渡っている、あの太陽のような元気いっぱいの彼女の声が、この、本のインクの匂いが支配する静謐な図書室の空間では、まるで教会のステンドグラスを通り抜けて響く、澄んだ鈴の音のように、清らかに、そして少しだけ大きく、俺の鼓膜を震わせた。

俺は一瞬、彼女の突然の、そしてあまりに場違いな(と俺は勝手に思っていた)来訪と、その声の思いがけない響きに、言葉を失いかけた。

いつも、あの安全な窓ガラス越しに見ているだけの、手の届かない、眩しい存在が、今、現実の、生身の存在として、目の前にいる。

その事実だけで、俺の心臓は、まるで驚いて飛び跳ねたように、ドクンと大きく波打った。


「あ、ああ、えっと、スポーツ科学の専門書の棚なら…あっちの、一番奥の、突き当たりの棚ですね。少し場所が分かりにくいかもしれないから…案内します」


いつもなら、「あそこの棚です」と無愛想に指差すだけで済ませてしまうところだ。他の生徒相手なら、絶対にそうしていただろう。

しかし、なぜか今日は、ごく自然に、そんな言葉が口をついて出ていた。

ぎこちなく、まるで油の切れたブリキのロボットのように、カチコチと音を立てそうなほど全身に力が入った状態で立ち上がり、目的の本棚まで歩き出す。

俺の数歩後ろを、咲葵が「へえー、図書室って、こんなに広かったんだ。普段、全然来ないから知らなかったなあ。なんか、秘密基地みたいで面白いね」と、子供のように好奇心に満ちた目で周囲をキョロキョロと見回しながら、軽い足取りでついてくる。

普段、意識することなど全くない、彼女との物理的な距離が、いつもよりずっと、そして耐え難いほど近く感じられ、意識しないように努めても、背筋が勝手に、まるで定規でも当てられたかのようにピンと伸びてしまう。

彼女が使っているシャンプーなのだろうか、体育祭の日に感じたのと同じ、甘酸っぱい、もぎたての果実のような柑橘系の爽やかな香りが、湿った雨の匂いと古書の匂いが混じり合った空気の中に、ふわりと微かに漂ってきて、さらに俺の心を落ち着かなくかき乱した。


「ここら辺が、トレーニング関係の本を集めた棚ですね。体幹とか、瞬発力とか…専門的なものから、初心者向けのものまで、色々ありますけど」


目的の本棚の前で立ち止まり、彼女が探しているであろうテーマに関連する本を何冊か、指差して示していると、ふと、俺が個人的に興味があって、後でゆっくり読もうと手に取ろうとしていた、少しマニアックな風景写真専門の雑誌のバックナンバー(特集:光と風を捉える詩情)が、彼女の目に留まったようだ。

表紙には、どこまでも広がる青い空と、そこに浮かぶ巨大な白い入道雲の写真が使われていた。


「あ、その雑誌! もしかして、向葵さんの特集じゃない?」

「私、この写真家さんの撮る空の写真、すごく好きなんだよね。なんていうか…どこまでも果てしなく広がる空の青さと、真っ白な雲のコントラストが息をのむほど綺麗で、光の捉え方がすごく柔らかくて、優しくて…見てると、心がすーっと落ち着くような、なんだか優しい気持ちになれる感じがするんだ」


咲葵が、まるで長年のファンであるかのように、驚くほど自然で、そして本当に嬉しそうな、少しだけ弾んだ口調で言った。その声には、純粋な喜びと興奮が滲んでいた。


それは、プロの写真家の間では高く評価されているものの、一般的にはそれほど知名度が高くはなく、どちらかと言えば少し玄人好みの、静謐で詩的な作風の写真家だった。

そして、俺が高校に入学して、親父の古いカメラを譲り受けてから写真に興味を持ち始めて以来、特に敬愛し、その表現方法や世界観に強く影響を受けている作家の一人でもあった。

まさか、スポーツ一筋にしか見えなかった彼女が、この、どちらかと言えば地味で、通好みと言える写真家を知っているとは、夢にも、本当に夢にも思っていなかった。

予想外すぎる出来事に、俺の思考回路は一瞬、完全にショートした。


「え…! うそ、マジで!? 日向さんも、向葵さんのこと、知ってるの? 本当に? 信じられないんだけど!」


思わず素っ頓狂な、裏返った声が出てしまい、しんと静まり返った図書室には不釣り合いなほど大きな声量になってしまう。

慌てて自分の口元を両手で覆う。周りにいた数人の生徒が、怪訝そうな顔でこちらを一瞥し、すぐにまた自分の本の世界へと戻っていった。


「うん、知ってるよ、もちろんだって。実はね、私のおじいちゃんが昔、写真を撮るのが趣味だったらしくてね、よく分からないけど、ちょっと有名な人だったみたい」

「で、実家のリビングに、この人の撮った、すごく大きな白い雲の写真パネルが、ずっと昔から飾ってあるんだ。物心ついた時から、毎日それを見て育ったから、なんだかすごく親近感があって。だから、他の作品もいくつか見たことあるよ。どれも素敵だよね」


彼女はそう言って、少し照れたように、はにかむように、悪戯っぽく笑った。

その笑顔は、体育館で見る、勝負師のような厳しい顔や、クラスの中心でリーダーシップを発揮する時の快活な笑顔とは全く違う、柔らかく、人懐っこく、そしてどこか無防備な、素顔に近いもののように見えた。

俺はそのギャップに、またしても心を強く、そして深く掴まれたような気がした。雷に打たれたような衝撃、とでも言うのだろうか。


思わぬ共通の話題が見つかったことで、俺たちの間に張り詰めていた、目には見えないけれど確かに存在していた分厚い、まるで防音壁のような空気が、まるで長い冬が終わり、硬く凍っていた地面から春の雪解け水が染み出すように、ふっと和らいだ気がした。

緊張で強張っていた肩の力が、少しだけ抜けるのを感じた。


「そうなんだ…それは、すごい偶然だね。本当にびっくりした」

「俺も、この人の撮る、光と影の、時にドラマチックなコントラストとか、写真一枚一枚から伝わってくる、独特の空気感とか、静謐な雰囲気とか、そういう表現がすごく好きで…」

「まさか日向さんも好きだったなんて、本当に、夢にも思ってなかったから…」


俺は興奮のあまり、自分でも分かるほど早口になりながらも、それでも何とか、それだけを返した。

心の中では、予想外の嬉しい発見に対する純粋な驚きと、彼女との間に、細く、しかし想像以上に確かな一本の共感の糸が、すっと繋がったような、温かく、そして少しだけくすぐったいような、未体験の喜びが混じり合っていた。

まるで、ずっとモノクロームだった俺の世界に、突然、鮮やかで、優しい色彩が灯ったような、そんな不思議で、心臓が浮き立つような感覚だった。

この瞬間を、この雨の日の図書室での出来事を、俺はきっと生涯忘れないだろう。そう、強く思った。


その雨の日の、ささやかな、しかし俺にとっては運命的とも言える出来事を境にして、日向咲葵は、バレー部の厳しい練習の合間や、勉強に集中できずに疲れた時の気分転換をしたい時に、以前よりもずっと頻繁に、そしてずっと気軽に、この静かな図書室へ立ち寄るようになった。

最初はカウンター越しに、例の写真家の新しい情報や、新しく入荷したスポーツ科学系の雑誌の話題などが中心だった。


「照井くん、この前教えてくれた体幹トレーニングの本、すごく分かりやすくて参考になったよ! ありがとう! 早速、練習メニューに取り入れてるんだ」

「ねえ、あの写真家さんの新しい写真集、そろそろ出ないかなあ。すごく待ち遠しいよね。出たら絶対に教えてね!」


俺は、そんな彼女の期待に応えるように、彼女が好きそうな本や、興味を持ちそうな特集が組まれた雑誌を、さりげなく、しかし意図的にカウンターの近くの見やすい場所に置いておくようになった。

そんな俺の、誰にも気づかれない、ささやかな努力が実を結んだのか、次第に、俺たちの会話の内容は、学校生活での他愛ない出来事や、部活動での悩み(もちろん、深刻すぎない範囲で)、好きな音楽のアーティストの話や、昨日見たくだらないテレビ番組の感想など、より個人的で、気楽な雑談へと自然に変化していった。


「あー、今日の練習、マジできつかったー! もう足がパンパンだよ。階段登るのも辛い…」

「ねえ、照井くん、昨日やってた音楽番組見た? あの新しいバンド、めっちゃかっこよくなかった? ギターの音が最高!」


俺は相変わらず極端な口下手で、自分から積極的に話題を振ることは滅多になかったが、彼女の、太陽のように明るく、くるくると豊かに表情を変えながら話す様子を、ただ隣で聞いているのは、不思議と飽きることがなく、むしろ心地よい、穏やかな時間だった。

彼女の声を聞いていると、自分を取り巻く、あの息苦しい閉塞感が、少しだけ和らぐような気がした。


時折、そんな俺たちの、カウンターを挟んだ和やかな(ように見える)様子を遠巻きに見ていた颯太が、「お、照井、お前、ついにリア充への階段を登り始めたか? 『リア充なんて爆発しろ』とか普段、教室で毒吐いてるくせに、ちゃっかりしてんなぁ、おい。抜け駆けはずるいぞ」と、ニヤニヤしながら、わざと聞こえるようにからかってくるが、俺はただ「うるさい、お前には関係ないだろ。黙ってろ」とだけ、以前よりも少しだけ穏やかな口調で、ぶっきらぼうに返して首を横に振る。

でも、以前のように本気で嫌悪感を抱いたり、顔を真っ赤にして腹を立てたりすることは、いつの間にかなくなっていた。

むしろ、心のどこかで、少しだけ、そのからかいが照れくさくも、悪い気はしないと感じている自分自身に気づき、内心で激しく動揺し、慌てふためいた。

俺の中で、何かが、確実に、そして静かに変わり始めていた。その変化は、心地よくもあり、同時に少しだけ怖くもあった。


「ねえ、照井くんってさ、いつもこの図書室で静かに難しい本読んでるか、眉間にしわ寄せてパソコンに向かってるけど、一体全体、どんな難しいこと考えてるの?」

「そのノートパソコンの中身、すっごく気になるんだけどなあ。こっそり見せてよ。もしかして、誰にも見せられないような、秘密のポエムとか、熱烈なラブレターとか書いてたりして? ね、どうなの?」


ある日の放課後、いつものようにカウンターに両肘をつき、身を乗り出しながら、好奇心いっぱいの、キラキラとした大きな目で、俺の手元のノートパソコンの画面を、上から覗き込んできた。

不意に距離が近くなって、ドキリとする。また、あの甘酸っぱいシャンプーの香りが、ふわりと鼻腔をくすぐる。心臓が、また大きく跳ねた。


「ポエムって…そんな、少女漫画みたいなメルヘンチックなものじゃないよ。ただの暇つぶしの、誰に見せるでもない、取るに足らない落書きみたいなものだから。見せるほどのものじゃない」


本当は違う。あの小説は、俺にとって落書きなんかじゃない。自分の内面の、ある意味、剥き出しのすべてだ。

でも、まだそれを彼女に、ましてや他の誰かに見せるだけの勇気は、俺には到底なかった。

話題を逸らそうと、少し慌てて口を開く。


「日向さんこそさ、普段はあんなに底抜けに元気で明るくて、太陽みたいに笑ってるのにさ、バレーのことになると、急にカチッとスイッチが入って、別人みたいに真剣な、厳しい顔するよね」

「その切り替わる瞬間、俺、図書室の窓から見てて、いつもはっきりと分かるよ。そのギャップがすごいなって、いつも感心してるんだ。別人みたいだって」


「え、そんなとこまで見られてたの? ちょっと恥ずかしいな」

「でも、当たり前じゃん! 今年こそ、絶対に澪と一緒に全国大会の舞台に立ちたいんだから。私たちにとっては、これが最後のチャンスなんだしね。中途半端な気持ちじゃ、絶対に目標は達成できないもん。絶対に、後悔したくないから」


彼女はぐっと両手の拳を強く握りしめ、力強く言った。その大きな瞳には、一点の曇りもない、燃えるような強い決意の光が宿っていた。

その真剣な眼差しに、俺はまた心を奪われ、言葉を失う。彼女のそのひたむきさが、眩しくて、少しだけ胸が痛んだ。


「…照井くんは、そういう、何か本気で目指してる目標とかはないの?」

「その撮ってる写真とか、書きかけの小説とかでさ。例えば、コンクールに出品してみるとか、誰かに読んでもらって感想を聞いてみるとか、そういう具体的なこと」


「目標、か…」


改めて真正面から、そのどこまでも澄んだ瞳で見つめられて問われると、俺は言葉に詰まってしまう。

俺は、ただ撮りたいと感じた瞬間があるから無心でカメラを向け、書きたい言葉や感情が内側から溢れてくるからキーボードを叩く、基本的にはそれだけだった。

誰かに評価されたいとか、何かを成し遂げたいとか、そういう明確な目標や野心のようなものを、これまで真剣に考えたことがなかった。ただ、自分の内なる衝動に従っていただけだ。


「…まだ、よく分からないかな。明確な目標っていうのは、ないかもしれない」

「でも…撮りたいって、強く思う景色とか、どうしてもレンズを向けたくなる、人は…確かに、いるよ。すごく、撮りたいって思う人が」


そう言いかけて、はっと我に返り、慌てて口をつぐむ。

「人」という言葉が、具体的に誰を指しているのか、彼女に勘繰られたくなかったからだ。それは、俺だけの秘密にしておきたかった。


咲葵は「ふーん? なんだか意味深だねえ? その『撮りたい人』って、一体誰のことかなー? 気になるなー」と、少し意地悪そうに、そしてどこか楽しそうに、ニヤリと笑ったが、それ以上は深く追求してこなかった。

彼女のそういう、人の心の中に土足でズカズカと踏み込んでこない、絶妙な距離感の取り方が、人付き合いが極端に苦手な俺にとっては、とてもありがたく、そして心地よかった。


夏休みを目前に控えた、じっとりと汗ばむような蒸し暑い七月の期末試験期間。

図書室は、普段の静謐な雰囲気が嘘のように、参考書や問題集、びっしりと細かい文字で書き込まれたノートを広げる生徒たちで、ほぼ全ての席が埋まっていた。

皆、一様に真剣な、あるいは試験範囲の広さに絶望して切羽詰まったような表情でペンを走らせており、ページをめくる乾いた音と、シャーペンのカリカリという硬質な音、そして時折漏れる、誰のものとも知れない深いため息だけが聞こえる、独特の重苦しい、ピリピリとした緊張感が空間全体に漂っている。

まるで戦場の塹壕のようだ、と俺は思った。


俺も自分のいつもの窓際の席で、提出期限がすぐそこに迫ったレポートの作成に、半ばうんざりしながらも黙々と取り組んでいると、隣の、奇跡的に空いていた席に、どさりと重そうな教科書とノートの束が、やや乱暴に、しかし切実さを伴って置かれた。

驚いて顔を上げると、そこには少し困り果てたような、そして藁にもすがるような助けを求めるような切実な表情を浮かべた、日向咲葵が立っていた。ジャージではなく、制服姿だ。


「ねえ、照井くん、ここ、空いてる?」

「ちょっと、どうしても分からないところがあって…もしよかったら、教えてほしいんだけど、今、いいかな?」


俺が無言で、しかしおそらく少しだけ頬を緩ませて、こくりと頷くと、彼女は「よかったー! ありがとう! 神様、仏様、照井様!」と、大げさなほどほっとしたように息をつき、俺の隣の椅子を勢いよく引き、どっかりと座った。


「うわー、古典、全然わかんないよぉ…特にこの助動詞の活用とか、もう本当に異世界の呪文にしか見えないんだけど!」

「このままだとマジで赤点取っちゃうかも…追試だけは絶対に避けたいのに! お願い、助けて!」


大きなため息をつき、机に突っ伏して「うー」と唸りながら頭を抱えている。

そして、しばらく唸った後、意を決したようにガバッと顔を上げ、俺の方を向き、開いていた古典の教科書の、問題が載っている箇所を指差した。


「ねえ、照井くん、本当に本当に申し訳ないんだけど…ここの助動詞の意味と活用って、一体全体どういうのだったっけ?」

「昨日、徹夜で覚えたはずなのに、綺麗さっぱり頭から抜け落ちちゃってて…お願い、ヒントだけでもいいから、助けて! 図書委員なら、古典とか得意でしょ? お願い!」


差し出されたノートと教科書を覗き込む。すぐ隣にある、咲葵の顔。

こんなに至近距離で、真正面から彼女の顔を見るのは初めてかもしれない。

夏の日差しを浴びて健康的に焼けた滑らかな肌、長く、上向きにカールしたまつ毛、真剣な眼差しで問題文を追う、少しだけ潤んだ大きな瞳。

練習後のまだ引かない汗の匂いと、朝につけたであろう、あの微かに甘いフルーツ系のシャンプーの香りが混ざり合って、ふわりと俺の鼻腔をくすぐる。

意識しないように努めても、努めれば努めるほど、俺の心臓は、まるで消防車のサイレンのように、けたたましく早鐘を打ち始めるのが自分でもはっきりと分かった。

教科書を指す彼女の指に、自分の指先が触れてしまわないように、細心の注意を払う。わずかに、自分の指が震えているのを感じた。


「あ、ああ、これは…過去の出来事を推量する助動詞の『けむ』だね。意味は『~ただろう』とか『~たとかいう』って感じかな。連体形だと『~たような』って訳すこともある」

「活用は四段活用と同じ変化をするから、けま、まる、けむ、けむ、けめ、まる…って、リズムで覚えると、比較的、覚えやすいと思うよ」


できるだけ声が震えないように、努めて冷静を装って、普段よりも少し低い声で、ゆっくりと、丁寧に説明する。まるで先生にでもなったような気分だった。


咲葵は「へえー!なるほど! そういうことか! けま、まる、けむ、けむ、けめ、まる…うん、確かに覚えやすいかも! ありがとう、照井くん! めっちゃくちゃ分かりやすい! さすが図書委員! やっぱり頭いいんだね!」と、ぱあっと顔を輝かせ、目をキラキラさせながら、俺の説明に真剣に聞き入り、手元のノートに勢いよく、しかし丁寧な字でメモを取っていた。

「よし、これでなんとか赤点は回避できるかも! ほんっと助かった! 借りができちゃったな!」


その一点の曇りもない真剣な眼差しと、思いがけず近い距離に、俺はますます彼女から目が離せなくなっていた。

難解な古典の助動詞の活用なんかよりも、今、隣にいる彼女の存在そのものの方が、よっぽど俺の心をかき乱し、集中力を根こそぎ奪っていくのだった。

レポートの締め切りは、もうすぐそこまで迫っているというのに。


あっという間に、悪夢のような期末試験期間が終わり、生徒たちが待ちに待った、解放感に満ちた長い夏休みが始まった。

女子バレー部は、毎年恒例となっている、県外のインターハイ常連校である強豪チームとの厳しい合同合宿へと、早朝に大型バスで慌ただしく旅立っていった。


咲葵は時折、スマートフォンのSNSの、鍵付きのアカウントに、厳しい練習風景の写真や、汗と泥にまみれたチームメイトとの、それでも楽しそうな集合写真をアップしていた。

「#地獄の千本レシーブ」

「#足が棒どころかコンクリート状態」

「#でも最高に充実してる時間」

「#この最高の仲間と目指す場所へ」

「#澪と安定のツーショット多め」

といったハッシュタグと共に投稿される写真や短い動画クリップには、彼女たちの充実した日々が色濃くうかがえる反面、その弾けるような笑顔の裏には、隠しきれないほどの濃い疲労の色も、確かに見て取れた。

俺はそれを、自室の少し古くなったデスクトップパソコンの画面越しに、わずかな心配と、自分には決して手の届かない、遠い場所で輝いている彼女への、ほんの少しの、しかし確かな寂しさを感じながら、ただ眺めることしかできなかった。

彼女が遠い場所で、信頼する仲間たちと共に汗を流し、大きな目標に向かって必死に頑張っている間、冷房の効いた図書室の窓際で、ただ本を読んでいるだけの俺にできることは、本当に、何一つとしてなかった。その無力感が、じわりと胸に広がった。


一方、俺自身の夏休みは、相変わらず大きな変化もなく、代わり映えのしない、単調で退屈な日々が、ただただ静かに過ぎていった。

大学の推薦入試に向けて、山のように課されたレポート課題をこなし(試験前に咲葵に教えた古典の知識が意外と役に立った)、行き詰まりながらも、書きかけの小説『見えない境界線』のプロットを練り直し、キャラクター設定に深みを持たせようと試行錯誤し、少しずつではあるが、着実に書き進め、そして、夏休みに始めた近所のコンビニでの深夜バイト代を貯めて中古で手に入れた、念願の、少しだけ性能の良い明るい単焦点レンズをつけた愛用のフィルムカメラを首からぶら下げて、誰もいない早朝や、人影まばらな夕暮れの時間帯を選んでは、近所の見慣れた風景の中を、あてもなく歩き回る。

まだ誰もいない、しんと静まり返った早朝の通学路に差し込む、葉を通して柔らかくなった木漏れ日。朝露に濡れて、宝石のようにキラキラと輝く、道端に咲く色鮮やかな紫陽花。蝉時雨が、まるで滝のように降りしきる、静かな神社の鬱蒼とした境内。ゲリラ豪雨のような激しい夕立の後に、ドラマチックに空に架かった、息をのむほど大きく鮮やかな七色の虹。

ファインダー越しに、一枚、また一枚と切り取った夏の断片的な風景は、どれも静謐で、光に満ちていて、それなりに美しかったけれど、なぜか心のどこかで、決定的な何かが足りないような、埋められない物足りなさを、常に感じていた。

そして、そんな夏の光景の中に、いつの間にか、遠い合宿地で厳しい練習に耐えているはずの咲葵の、あの体育館で見た、汗に濡れた真剣な横顔や、太陽のような眩しい笑顔を、無意識のうちに重ねている自分自身に気づき、小さく、そして熱いため息をつく。

彼女のいない、がらんとした、主役を失った舞台のような図書室は、いつもよりずっと広く、そして少しだけ冷たく、寂しく感じられた。

早く、夏休みが終わらないだろうか。そんなことを思うなんて、今までの俺では考えられないことだった。


長いようで、でも振り返ってみればあっという間だった夏休みが終わり、朝晩の空気の中に、ほんの少しだけ秋の気配が漂い始めた二学期が始まった。

久しぶりにクラスメイトたちと顔を合わせる教室は、夏休み中の旅行の土産話や、部活動の大会での成果、そして、やはりというか、終わらなかった大量の宿題の話などで、朝から大変な賑わいを見せていた。


「なあ照井、お前、数学の課題終わったか? 俺、マジでやべえわ、全然手つけてない…見せてくれとは言わねえから、ヒントだけでも…」

「…まあ、なんとか、徹夜でな」


そんな教室の喧騒の中、少し遅れて教室へ向かう廊下を歩いていると、夏の強い日差しをたっぷりと浴びて、こんがりと小麦色に健康的に日焼けした咲葵と、ばったりとすれ違った。一回り、逞しくなったようにも見える。

彼女は仲の良い女子数人と、夏休みの合宿中の面白かった出来事などで盛り上がっていたようだが、俺の姿に気づくと、一瞬、楽しげな会話をぴたりと止め、その場に立ち止まった。

そして、視線が、カチリと合った。


「あ」


と小さく、驚いたような、でもどこか嬉しそうな、短い声を漏らした彼女が、次の瞬間、少し照れたように、はにかみながら、でも以前よりもずっとはっきりと、小さく右手をひらひらと振ってくれたのだ。

それは、クラスメイトに対する気軽な挨拶、以上の何か特別な意味を含んでいるような気が、勝手にした。


俺は、あまりの不意打ちの出来事に驚いて、その場でカチンと石のように固まってしまい、ただぎこちなく、ロボットのように会釈を返すのが精一杯だったけれど、胸の中に、夏の終わりに、汗をかきながら自動販売機で買って飲んだ、キンキンに冷えた瓶のサイダーの炭酸の泡が、しゅわしゅわとしぶきを上げて、パチパチと弾けるような、甘酸っぱくて、少しだけ切なくて、でも間違いなく心地よい、そんな感覚が、いっぱいに広がった。

まだ残暑は厳しい蒸し暑い日が続いていたけれど、季節だけでなく、俺と彼女を取り巻く、目には見えない空気も、確実に、そして静かに、良い方向へと変わろうとしている。

そんな確かな、そして希望に満ちた予感が、俺の心臓を、期待で大きく高鳴らせたのだった。

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