第一章:静寂と喧騒の境界線
風薫る五月。
それは、一年の中でも特に空気が軽やかで、生命の息吹が満ち溢れる季節だ。教室の窓枠いっぱいに切り取られた空は、突き抜けるように青く、木々の葉は目に痛いほどの鮮やかな緑色に染まり、まるで自ら光を発しているかのようだった。
初夏の訪れを告げる、少し強引とも言える強い日差しが、埃っぽく舞う空気の粒子をキラキラと照らし出しながら、教室の床に幾何学的な光の模様を描き出していた。
午後の最後の授業が終わるチャイムが鳴った瞬間、圧縮されていた空気が爆発するように、解放感に満ちた生徒たちの声が教室を満たした。
「やっと終わったー!」
「部活行こぜ!」
「今日、駅前のクレープ屋、新作出たらしいよ!」
――廊下を駆け抜ける複数の足音、ロッカーを開け閉めする乱暴な金属音、仲間とじゃれ合う弾けるような笑い声。そんな、若さ特有のエネルギーに満ち溢れた昼間の喧騒が、まるで潮が引くように遠ざかっていく。
そして、その喧騒が完全に嘘のように静まり返る放課後の図書室は、俺、照井淳弥にとって、一種のシェルターだった。
他者との間に見えない壁を築き、過剰なコミュニケーションから身を守りたいと願う自分を守るための、いわば聖域であり、同時に、心地よい閉塞感を与えてくれる檻のような場所。
そう、ここは俺だけの、静かで安全な避難場所なのだ。
西日が長く影を落とし始める窓際の、指定席でもないのに、まるで俺のために用意されたかのようにいつも空いている席。そこに、床板がきしまないよう、そっと音を立てずに腰を下ろす。
長年使い込まれたことで角が丸くなった木の椅子の、ひんやりとした滑らかな感触が、授業中の眠気と気だるさで火照った首筋や頬に心地よかった。
鞄から慎重に取り出したのは、読みかけの分厚い海外文学。
翻訳されたもの特有の、少し硬質で、時折持って回ったような文体で描かれているのは、見知らぬ異国の港町で、言葉の壁と文化の摩擦に翻弄されながら、逃れられない孤独と真正面から向き合い、「自分とは何か」「世界と自分はどう繋がっているのか」を問い続ける、繊細な青年の内面の旅路だ。
ページを繰る、乾いた紙の擦れる微かな音だけが、古書のインクと埃が混じり合った独特の匂いが微かに漂う、高い天井へと静かに吸い込まれていく。
天井の隅には、いつからそこにあるのか分からない、小さな蜘蛛の巣が張られていて、西日がそれに反射して銀色に光っていた。
物語は佳境に差し掛かっていた。
主人公が抱える、周囲の世界に対する根源的な疎外感や、他者との間に感じる、目には見えないけれど確かに存在する分厚い隔たり。
その感覚に、どこか自分自身の、言葉にならない輪郭のぼやけた感情を重ねてしまい、ページをめくる指が自然と、物語の結末を知りたいという欲求とは裏腹に、遅くなっていく。
栞代わりに挟んでいたのは、少し色褪せて、茶色く変色しかけたシロツメクサの押し花。古本のインクの独特な匂いに混じって、過ぎ去った季節、もう戻らない春の残り香を、ふわりと微かに放っていた。
それは去年の春、体育の授業をサボって、体育館裏の、あまり人の寄り付かない、雑草が生い茂った片隅で偶然見つけたものだ。
陽だまりの中で、白い小さな花々が一面に咲き誇る中に、たった一つだけ、幸運の象徴とされる四つ葉のクローバーを見つけたのだ。
誰かに見せるつもりで作ったわけでもなく、特別な願掛けをしたわけでもない。ただ、あの日の午後の、柔らかく降り注ぐ淡い日差しと、世界から完全に切り離されたような、鳥の声と風の音しか聞こえない静寂の中で一人で見つけた、ささやかな幸福の記憶。
それが、この薄く、触れると崩れてしまいそうに脆くなった押し花には、確かに宿っている気がして、なんとなく捨てられずに、ずっと栞として使い続けている。
誰にも知られることのない、俺だけの小さな秘密であり、現実から少しだけ逃避するための、ささやかな拠り所のようなものだった。
時折、指先でそのざらついた感触を確かめるたびに、あの日の午後の、甘い草の匂いと温かい日差しが、胸の奥に甦る気がした。
「よっ、今日も定位置か、照井先生。ご苦労さん」
不意に、背後から軽薄で、しかしどこか憎めない調子の声がかかる。
弾かれたように振り返ると、隣のクラスの友人であり、数少ない、俺が比較的気を使わずに話せる相手である高瀬颯太が、くたびれたスポーツバッグを肩に引っ掛け、ニヤニヤと人を食ったような笑みを浮かべながら立っていた。
こいつは、俺が図書委員であることを知っていて、何かにつけて「先生」と呼んでからかってくる。
「…別に、定位置ってわけじゃない。たまたま、ここが空いてるだけだ。それに先生って呼ぶな」
俺は少しむっとしながら、視線を本に戻してぶっきらぼうに答えた。
「へー、そう? ま、どーでもいいけどさ。それより、またその難しそうな本読んでんの? 字がちっちぇーやつ。お前、ほんと好きだよな、そういう浮世離れした感じのやつ。俺には絶対無理だわ、一行で寝る自信ある」
「別に、好きとかじゃなくて…ただ、暇つぶしだ」
言いかけて、言葉を濁す。
颯太は人の心の機微や複雑な感情の襞には驚くほど鈍感なくせに、こういう、人が隠しておきたいと思っている部分に関しては、妙に勘が鋭いところがある。
俺が現実から逃避するように、本の世界に没頭していることを見透かされているようで、少しだけ居心地が悪かった。自分の弱さを指摘されたような気がして、頬が微かに熱くなるのを感じた。
颯太との短いやり取りの後、カウンターに歩み寄り、来訪者と貸し出し記録をつけるノートをチェックし、備え付けの年季の入った「当番中」の札を表向きに立てる。これも図書委員としての、数少ない、そして退屈な仕事の一つだ。
自分の席に戻り、持参した、少し旧型の、ずしりと重いノートパソコンを開くと、起動音が静寂を破って、ウィーン、と小さく、しかしはっきりと響いた。
壁紙も設定していない、殺風景なデスクトップには、書きかけの小説のファイルだけが、ぽつんと孤独に置かれている。
ファイル名は、自分でつけたものの、いまだにしっくりきていない、『見えない境界線』。
自分の中に渦巻いている、言葉にしようとすると形を失ってしまう、もどかしい苛立ちや、焦燥感。
人と人の間に、確かに存在する、時に残酷なほど明確で、しかし多くの場合、曖昧で捉えどころのない、まるで薄いガラスのような、見えない壁のような距離感。
それを、どうにかして、この不器用な指先から紡ぎ出される文字という形で捉え、客観的に表現してみたかった。
それができれば、少しは自分の抱える息苦しさの正体が分かるかもしれない、そんな淡い期待があった。
主人公は、俺と同じように、教室の窓から見える、活気あふれるグラウンドや体育館の光景を、眩しそうに、そしてどこか羨望の眼差しで、ただ眺めることしかできない内向的な少年だ。
彼がいつも目で追っているのは、隣の家に住み、いつも快活で、誰からも好かれ、太陽のように周囲を明るく照らす幼馴染の少女。
物語の設定は、現実とは少しだけ変えているものの、それが俺自身の投影であり、彼女が、他ならぬ日向咲葵をモデルにしていることは、書いている自分にはあまりにも明白だった。
だが、それをはっきりと認めてしまうのは、自分の心の奥底の、最も柔らかく、触れられたくない部分を、誰かに覗き込まれるようで、少しだけ、いや、かなり怖かった。
カタカタとキーボードを打つ、無機質で規則的な指先の動きとは裏腹に、俺の意識と、特に聴覚は、どうしても窓の外で繰り広げられている、生命力に満ちた活気を拾ってしまう。
それはまるで、抗うことのできない強い引力のように、俺の注意を、書きかけの物語の世界から現実へと引き戻そうとする。
「一本集中!」
「はいっ!」
「ナイッサー!」
「ラスト一本、声出してこー! ファイトー!」
隣接する、少し古びた体育館から、床を強く踏みしめる音、キュッキュッという鋭いシューズの摩擦音、そして、弾けるような、若々しく、どこまでも伸びやかな掛け声が、それなりに厚いはずの窓ガラスを隔てていても、ここまでクリアに届いてくる。
女子バレーボール部の熱のこもった練習風景が、大きな窓ガラス越しに、まるでフレームにぴたりと収められた、音のないサイレント映画の、しかし色彩豊かな一場面のように見えていた。
まるで規則的な心臓の鼓動のように響く、ボールの打撃音。スパイクが決まった瞬間の、甲高い歓声。
その一つ一つの音が、俺の胸の奥を、静かに、しかし確実に、トン、トン、と叩く。
それは時として心地よいリズムのようでもあり、時として、自分の存在を脅かすようなノイズのようでもあった。
そして、その躍動感あふれる光景の中心には、いつも、ひまわりのように明るい笑顔で周囲を照らし、チーム全体を力強く、そして巧みに牽引する、日向咲葵がいた。
高く、そして猫のようにしなやかに跳び上がり、空中で美しいフォームを保ちながら、寸分の狂いもなくボールをアタッカーへと繋ぐ、チームの司令塔であるセッター。
その華奢に見える細い指先から放たれるボールは、まるで彼女自身の強い意志が宿っているかのように、吸い込まれるようにスパイカーの元へと、完璧な軌道を描いて届けられる。
「咲葵! ナイスキー!」
「ドンマイ、次、次! 顔上げて!」
「声、もっと出してこー!」
仲間を鼓舞する、高く、どこまでも澄んだ彼女の明るい声は、ここ図書室の、古書の匂いが染み付いた静寂を心地よく破る、生命力に満ちた、鮮やかなリズムのようにも聞こえた。
しかし同時に、俺が決して立つことのできない、眩しいスポットライトが降り注ぐ光の輪の中にいる彼女の存在は、俺自身の影の濃さを容赦なく際立たせ、胸の奥にチリチリとした、微かで、しかし無視できない焦燥感と、どうしようもない劣等感を静かに、しかし確実にざわつかせる、不快なノイズのようでもあった。
彼女の流れるような、無駄のない動きの一つ一つ、ボールの行方を鋭く見つめる真剣な眼差し、時折見せる、悔しさを滲ませた表情、そして、仲間とハイタッチを交わし、屈託なく笑い合う、太陽のような笑顔。
そのすべてが、俺の視線を強く、そして抗い難く引きつけて離さなかった。
まるで磁石に引き寄せられる砂鉄のように、俺の目は、気づけばいつも彼女を追っていた。
(日向さんは、いつも光の中にいる。たくさんの人に囲まれて、熱い声援を浴びて、スポットライトを浴びる舞台の上の、紛れもない主役だ)
(俺がいるこの、本の匂いと、重たいほどの静寂に満ちた、少し薄暗い場所とは、まるで存在する世界のレイヤーが違う。住んでいる次元が、根本的に違うんだ)
(きっと、俺みたいな、教室の隅でいつも本を読んでいるような、影の薄い人間のことなんて、彼女の明るい視界にすら入っていないだろう)
(俺たちは、決して交わることのない平行線のように、ただ隣り合って存在しているだけなんだ…)
そんな、諦めに似た、少しだけ感傷的な思いが、まるで静かに染み出すインクのように、胸の中にゆっくりと広がっていく。
それは、苦いような、でもどこか甘美なような、複雑な味わいを伴っていた。
ふと、衝動的に鞄に手を伸ばし、使い込んだ革製の、少し重たい鞄の中から、ずしりと確かな重みのある、年代物の古いフィルムカメラを取り出す。
それは、俺が生まれるよりもずっと前に、親父が若い頃に、ボーナスをはたいて買ったという愛機で、もちろんオートフォーカスなんていう便利な機能はついていないし、液晶画面で撮った写真をすぐに確認することもできない。
一枚一枚シャッターを切るごとに、指先の感触を確かめながら、手動でフィルムをカリカリと巻き上げなければならない、ひどく手間のかかる代物だ。
デジタルカメラ全盛のこの時代に、わざわざこんな古臭いカメラを使っているのは、変わり者だと笑われるかもしれない。
それでも、シャッターを切る時の「カシャン」という、重く、確かな金属の感触を伴う、腹に響くような音と、フィルムを巻き上げる時の、指先に伝わるアナログな感触が、俺は妙に好きだった。
デジタルカメラの手軽さや効率性とは全く違う、一枚一枚の写真に、特別な意味と、その瞬間だけの、二度とは戻らない時間が、確かに込められるような気がするからだ。
それに、現像するまでどんな写真が撮れているか分からないという、そのもどかしさや不確かさも、どこか自分の性に合っている気がした。
そっとファインダーを覗く。
すると、あれほど騒がしく、躍動感に満ちていた体育館の光景が、黒い枠でくっきりと縁取られた、小さな四角い静かなフレームの中に、まるで遠い世界の出来事のように、音もなく切り取られて映し出される。
練習に没頭する咲葵の、汗に濡れた真剣な横顔。流れ落ちる汗で額に張り付いた、陽の光を受けて茶色く透ける前髪。ボールの行方を鋭く見つめる、強い意志を宿した、長いまつ毛に縁取られた瞳。
その一瞬の、二度とは訪れない輝きを、この黒いフレームの中に、永遠に焼き付けてしまいたいという、強い、抑えきれないほどの衝動に駆られる。
だが、シャッターボタンにそっと置いた俺の右手の指は、わずかに震えたまま、どうしても最後まで押し込むことができない。
これは、単なる風景写真や、部活動の記録写真じゃない。
このカメラに、この限られた枚数のフィルムに収めるには、あまりに個人的で、切実で、そして、まだ自分の中ではっきりと名前をつけるには早すぎるような、淡く、不確かで、掴みどころのない、まるで水面に映る月のような光――そんな感情が、そこには確かに存在しているからだ。
彼女の姿を、この冷たいレンズ越しに見つめているだけで、俺の心臓は落ち着きなく、まるで誰かに見つかったかのように、少しだけ速く、そして大きく脈打つのを感じる。
結局、俺は深いため息とともに、そっとカメラを鞄の中に戻した。
現像されないままの、撮りたいのに撮れない、そんな被写体の幻影ばかりが、俺のカメラの中には、そして俺の心の中には、静かに増えていく気がした。
俺が、教室や図書室の窓から、あるいは廊下の隅から、ひっそりと、誰にも気づかれないように、彼女のことを目で追っていることに気づく人間は、この千人近い生徒が通う広い学校の中でも、おそらくほとんどいないだろう。
クラスの中でも特に目立たず、必要最低限のことしか発言せず、休み時間にはいつも文庫本を読んでいるか、窓の外をぼんやりと眺めている、影の薄い図書委員。
写真部に一応、名前だけは籍を置いているものの、文化祭の展示やコンテストへの出品はおろか、週に一度の、和気あいあいとした雰囲気の部会に顔を出すことすら稀な、完全なる幽霊部員だ。
そんな俺の、誰にも知られたくない、ささやかで、そして少しだけ切ない秘密を、もしかしたら正確に見抜いているかもしれない唯一の人間がいるとすれば、それはおそらく、隣の席の、あの軽薄な友人、颯太くらいだろうか。
「おい照井、また見てるだろ、日向さんのこと。お前、ほんっと分かりやすすぎんだよな。視線が完全にロックオンされてるぜ、体育館の方に」
休み時間になるたびに、あるいは授業中でも、教師の目を盗んでは、ニヤニヤといやらしい、全てお見通しだと言わんばかりの笑みを浮かべながら、肘で俺の脇腹を遠慮なく、グリグリと突いてくる。その度に、俺は心臓が飛び跳ねるような思いをする。
「別に…見てない。構図の練習だって、前も言っただろ。動く被写体を、ファインダーの中で正確にフレームに収める練習だ。写真部なんだから、当然だろ」
自分でもあまりに苦しいと分かる、バレバレの嘘をついて、顔がカッと赤くなるのを感じながら、曖昧に首を振って誤魔化すのが精一杯だった。
「へーへー、そーですか。構図ねぇ。立派な心がけで結構なこった。その熱心な『練習』の成果、いつか俺にも見せてくれよな、幽霊写真部員クン? ま、せいぜい頑張れよ。応援はしてるぜ、一応、友達としてな」
颯太は全く俺の言い訳を信じていない様子で、大げさに肩をすくめ、からかうような、それでいてどこか心配するような複雑な視線を向けてくるが、それ以上は深く追及してこない。
それが彼の不器用なりの優しさなのか、あるいは単に、俺の反応を見て楽しんでいるだけなのかもしれないが、いずれにせよ、俺にとってはありがたかった。
本当のことを認めてしまえば、この微妙な均衡が崩れて、何か自分の中で大切にしているものが壊れて、取り返しのつかないことが起こってしまいそうで、ただただ怖かったのだ。
あっという間に五月が終わり、六月に入ると、うっとうしい梅雨入り前の、束の間の貴重な晴れ間とともに、学校全体がどこか浮き足立つ一大イベント、体育祭の準備が本格的に始まった。
クラスごとに競い合う応援合戦の練習や、クラスTシャツのデザインなどを巡って、放課後の教室は、普段の静かで退屈な授業中とは比べ物にならないほどの熱気と、一種独特の、文化祭とも違う、むき出しの闘争心のような喧騒に満ちていた。
「ねえ、このひまわりのロゴ、すっごく可愛いと思うんだけど、やっぱり男子はちょっと着づらいかな? どう思う?」
「こっちの龍のデザインはシンプルでかっこいいけど、もう少し、うちのクラスらしさが欲しい気もするよね! みんな、何かいいアイデアない?」
俺たちのクラスでは、日向咲葵が女子側の実行委員として、その熱い議論の中心に立っていた。
大きなホワイトボードにマジックで描かれたいくつものカラフルなデザイン案を指しながら、クラスメイトたちの様々な、時にはまとまりのない意見を巧みに引き出し、一つの方向へとまとめようと奮闘している。
彼女の周りには、まるで強力な磁石に引き寄せられる砂鉄のように、自然と人が集まり、活発な意見や提案が次々と飛び交っている。そこには、普段の教室では見られないような一体感が生まれていた。
「日向、この炎のデザインとかどう? 燃える感じで、強そうじゃん!」
「えー、なんかちょっと暑苦しくない? もっと爽やかなのがいいなー」
「いっそさ、担任の似顔絵とかプリントしちゃう?」
「それ、絶対却下! 先生に怒られるって!」
普段はあまり積極的に発言しないような、物静かなタイプの生徒まで、彼女に優しく促されると、少し照れながらも、楽しそうに自分の意見を口にしている。
男子も女子も関係なく、クラスの誰もが、彼女の言葉には素直に耳を傾け、彼女のリーダーシップに協力しようとしているのが、遠くから見ていてもはっきりと見て取れた。
俺は、教室の少し離れた後方の席で、ノートパソコンの画面を開いたまま(もちろん何も書けてはいない)、その眩しい光景を、まるで別の世界の出来事のように、ただ黙って眺めている。
あの活気ある輪の中に入っていけないんじゃない。自ら入らないことを選択しているのだ。
それが、人付き合いが極端に苦手で、集団の中にいると息が詰まりそうになる俺にとって、一番楽で、傷つかずに済む、安全な距離の取り方だった。
でも、時折、意見がまとまらずに議論が白熱して、困ったように眉を寄せながらも、それでもどこか楽しそうに笑う咲葵の笑顔が、窓から差し込む強い西日に照らされて、やけに眩しく、そしてほんの少しだけ、ちくりと胸を刺すように、羨ましく見えた。
あの明るい輪の中にいる自分を、想像することすら、俺にはできなかった。
そして、体育祭当日。
天気予報は完璧に当たり、雲一つない、突き抜けるような青空が広がっていた。朝からじりじりと容赦なく照りつける真夏の太陽が、広大なグラウンドを白く染め上げ、地面からは陽炎がゆらゆらと立ち上っている。
舞い上がる砂埃と、生徒たちの汗と抑えきれない興奮が混じり合った、むせ返るような独特の熱気が、会場全体を包み込んでいた。
「うわー、今日、暑すぎだろ…マジで溶ける…死ぬ…」
隣で、配られたクラスのうちわを力なくパタパタさせながら、颯太がぐったりとした声でぼやく。
「お前、日陰にいるだけまだマシだろ。トラック走ってる選手はもっと大変だぞ。水分補給しろよ」
俺は、図書委員会の数少ない野外活動の一つである、救護用の備品管理係という名目で、本部テントの比較的涼しい日陰に避難していた。
特にやることもなく、ただぼんやりと目の前で繰り広げられる様々な競技――玉入れ、綱引き、障害物競走――を眺めていると、午後のメインイベントであるクラス対抗リレーのアンカーを務める咲葵の姿が、鮮やかな黄色いクラスTシャツと共に、目に飛び込んできた。
クラスカラーである鮮やかな黄色いハチマキを、きりりと額に締め、少し緊張した面持ちで、しかし強い決意を秘めた表情でスタートラインに立つ彼女。その姿は、他のどの選手よりも輝いて見えた。
「うおー! マジか! 日向さん、アンカーかよ! これは燃える展開だな! 一気にまくるぞ!」
颯太が興奮気味に身を乗り出し、拳を握りしめる。
第三走者からバトンが渡された時、俺たちのクラスは、トップを走るクラスと少し差のある、三位だった。
咲葵は、バトンを受け取ると同時に、まるで檻から解き放たれた野生の豹のように、低い姿勢から弾かれたように猛然と駆け出した。タータンのトラックを力強く蹴り上げ、砂を巻き上げながら、必死の形相で前方の走者を追う。
ぐんぐんと、目に見えてその差を詰め、一人、そしてまた一人と、風のように軽やかに追い抜いていく。その小さな体躯からは想像もできないような、凄まじい気迫と、見る者を圧倒するほどのスピードが、彼女の走りには満ち溢れていた。
「いけー! 日向ー! そのまま抜けー! ラストー!」
クラスメイトたちの、喉が張り裂けんばかりの絶叫にも似た声援が、グラウンド中に響き渡る。
最後の直線、ゴール直前で二人目の走者を抜き去り、トップを走る陸上部の短距離エースに猛然と並びかける。会場全体のボルテージが最高潮に達する中、二人はほとんど同時に、白いゴールテープに、文字通り飛び込んだ。
審判による写真判定の結果、わずか数センチ、本当に胸の厚さほどの差で、俺たちのクラスは惜しくも二位だった。
ゴール直後、咲葵は両膝に手をつき、肩で激しく息をしながら、悔しさに顔を強く歪め、止めどなく溢れ出してくる涙を、黄色い体操服のユニフォームの袖で何度も何度も乱暴に拭った。
その隣には、同じくリレーメンバーとして走り、彼女の驚異的な力走を称えるように、いつもはクールな表情を崩さない、チームメイトであり親友でもある結城澪がそっと寄り添い、「よくやった、咲葵。本当に、ナイスランだった。お前の走り、最高に痺れたよ。感動した」と、労わるように、その震える肩を優しく、しかし強く叩いていた。
「…ごめん、澪…あと少しだったのに…勝てなかった…」嗚咽混じりの声が聞こえる。
「謝るなよ。胸張れって。最高のレースだった。私たちは、お前のこと誇りに思うよ」
本部テントの中から、望遠レンズをつけたカメラのファインダー越しに見たその光景は、あまりにも鮮烈で、剥き出しで、生々しくて、俺の心の奥深くにある、まだ何も写っていないフィルムに、まるで熱い焼きごてを押し付けられたかのように、強く、深く、消えない像として焼き付いた。
けれど、やはりこの瞬間も、俺の指はシャッターボタンを押すことができなかった。
彼女の、あんなにも純粋で、ひたむきで、剥き出しの感情――特にあの美しい悔し涙を、この冷たい機械のレンズ越しに覗き見る行為が、まるで何か神聖なものを汚してしまうかのような、あるいは鍵穴から覗き見しているかのような、後ろめたい罪悪感を伴ったからだ。
彼女のあの美しい涙は、俺が気軽に写真という記録媒体に閉じ込めていいものではない、そんな気がした。それは、俺だけの心の中に、大切にしまっておくべき光景なのだと、強く思った。
全ての競技が終わり、熱狂的な喧騒が嘘のように去ったグラウンドの後片付けも一段落した、夕暮れ時。
図書室に置き忘れてきた読みかけの小説を取りに、一人で校舎へと立ち寄ると、人気のない、夕焼けの鮮やかなオレンジ色に染まった長い廊下で、思いがけず、咲葵とばったりと顔を合わせた。彼女は一人だった。
「あ、照井くん」
少し驚いたような、でもどこか親しみのこもった、柔らかい表情をした彼女の手には、俺が体育祭の混乱の中で、どこかに落としてしまったらしい、黒いプラスチックケースに入った、使いかけのモノクロフィルムが、まるで大切な落とし物のように、大切そうに握られていた。
「これ、照井くんのでしょ? さっき、体育館の近くの通路に落ちてたの見つけたんだ。大事なものかなって思って」
「もしかして、照井くんって、写真部だったりするの? いつも図書室の窓際でカメラ持ってるの見かけるから、気になってたんだ」
そう言って、彼女は拾ったフィルムを、悪戯っぽい笑顔と共に俺に差し出した。
それを受け取る瞬間、彼女の細く、しなやかで、少しだけ日に焼けた指先が、俺の指に、ほんの微かに、しかし確かに触れた。
思いがけない、柔らかな、そして少しひんやりとした、でも確かな温もりを感じる体温。その瞬間に、俺の心臓は大きく、ドクン、と鈍い音を立てて、まるで驚いた小動物のように跳ねた。
「あ…う、うん、そう、俺のだ。ありがとう。すごく助かった。これ、結構大事なやつで…なくしたらどうしようかと思ってたんだ。その…写真部、一応、入ってる…」
自分でも驚くほど声が上ずり、裏返ってしまい、みっともないほど動揺しているのが、きっと彼女にもバレバレだっただろう。顔が燃えるように熱い。
「え、やっぱり写真部なんだ! すごい! なんかかっこいいね! どんな写真撮るの? 今度見せてよ!」
咲葵は興味津々といった様子で目をキラキラと輝かせたが、俺のしどろもどろで、明らかに挙動不審な様子を見て何かを察したのか、
「あ、ごめん、今は体育祭で疲れてるよね。無理に聞いたりして。そっか、見つかってよかった! 本当に! 気にしないで!」
「じゃあね、また明日、教室で!」
と、気を遣うように、でも悪戯っぽく片目を瞑ってウインクし、小さく手を振ると、廊下の向こうで待っていたらしい友達のもとへ、軽い足取りで駆け足で去っていった。
パタパタという彼女のスニーカーの足音が、夕暮れの静かな廊下に心地よく、そして少しだけ名残惜しくこだまする。
残された俺は、彼女が触れた、まだ微かにその温もりが残っているような気がする黒いフィルムケースを、まるで失くしてはいけない宝物のように両手で強く、ぎゅっと握りしめたまま、その場にしばらくの間、呆然と立ち尽くしていた。
茜色から深い藍色へと刻一刻と移り変わる空の色を映す、冷たい廊下の窓ガラスに、俺の、いつもよりずっと速くなった鼓動の音だけが、やけに大きく響いているように感じられた。
フィルムには決して写ることのない、彼女の指先の、あの柔らかさと温もりの感触が、いつまでも、いつまでも俺の指先に、そして心の中に、鮮明に残っているような気がした。
この小さな、偶然の出来事が、決して交わらない平行線だと思っていた俺と彼女の間に架けられた、細く、頼りなく、しかし確かな最初の橋になったのかもしれない、と、その時はまだ気づいていなかったけれど、後になって、そう思うようになった。