おやすみ*02
どれほど走ったのだろう。私は考えることも儘ならないはずなのに、確実に絶望を味わっていた。景色が変わらない。どこまで行っても森を抜けられない。富士の樹海のように月明かりも真面に届かない山の中を、いつまでこのペースで逃げ続けるのだろう。身体はとうに限界を迎えていた。メロス、お前はいいな。お前には友を処刑から救う目的があるもの。私はもう何もできないどころか、何をしたいのかもわからないよ。失速していく脚力に次第に歩みもヨタヨタと覚束なくなり、そのまま地面に蹲った。止め処なく流るる汗はどんどん体の熱を奪っていく。呼吸を正すのに精一杯で、涙が溢れるのも涎が垂れるのも気に留めることができなかった。私はここで死ぬのだろうか。よくわからない出生の人間が、よくわからない理由でよくわからない格好にさせられて、よくわからない死因でこの世を去るのだろうか。それすらもよくわからない。嗚呼、考えると脳に酸素を持っていかれる。とりあえず休もう。このまま目を瞑って、次に目を覚ますことがあるのなら、もう一度走ろう。恥も外聞も捨てて近所の民家か交番に駆け込んで、施設長に連絡を入れてもらおう。電話番号は……忘れた。もう駄目だ。寝よう。
閉瞼しかけたそのとき、また鳴き声が聞こえた。しかし先程のとは全く違う。それよりももっと重厚で野太く、まるで木々の枝の一本一本が震えるほど響きが荘厳だった。先程のがチーマーに目をつけられた緊迫感だとしたら、これはヤクザに詰め寄られた無力感に近い。嗚呼、殺される。死期を悟ることはそう難しくなかった。しかも今度は咆哮だけではない。跫音が聞こえる。ズシンズシンとこちらに逼るそれは、あまりにも図体が大きいのか、小鳥たちが逃げ惑う羽音や細い枝枝が圧し折れる人音も孕んでいた。最早それは獣というより、車に近かった。私は搾り滓程度にしか残っていない腕力をさらに振り絞って、何とか上半身だけ起こした。黒い影はすぐそこまで来ていた。雲の隙間から放たれた月の光線が微かに木々に降り注ぎ、正体が現れた。それは巨大な泥の塊だった。
初めは熊か何かが泥塗れになっているのかと思ったが違う。3メートルにも及ぶ土の壁に頭と腕と脚が生え、動いている。私は知っていた。ゲームが買えない私でも見たことがあった。これは『ゴーレム』と呼ばれるモンスターだ。もう涙も零れなかった。
ゴーレムは先程と同じ歩様でこちらに距離を縮めてくる。こいつは人を捕食しそうだ。そうか、文字通り、私は取って喰われるのか。無意識に尻餅をついたまま後退りをするが、これはもう最期の悪足掻きでしかなかった。ゴーレムはゆっくり片腕らしきものをこちらに伸ばす。掌の星型の凹みだけが、何故か鮮明に焼きついた。
……嫌だ! ……死にたくない……!
右腕に強烈な痛みが走った。煉瓦にぶつけたような骨が軋む鈍痛。見ると、さっきまで目の前にあったゴーレムの手がほんの少しだけ右側にずれていた。何ということだ。私は最期の最後、もう死ぬと分かっていても、ゴーレムの手を引っ叩き、少しでも生き永らえようとしたらしい。何と、往生際の悪いことを。虫の息の捕食対象がまだ抵抗するなんて。自分には何の価値もありはしない癖に。ゴーレムも私と同じ気持ちなのだろう。目をひん剥いていた。
もういい、こうなったら自棄だ。私は逃げるところまで逃げる。死のうが生きようが知ったことではない。この遺体は後に誰が発見するもわからん。カラスでもハイエナでも、微生物でも分解者でも、ペドフィリアでもネクロフィリアでも拾ってくれればいい。私は初めから存在意義など皆無に等しいのだ。たった今死のうが10分後に死のうが、誰も悲しまなければ喜びもしないし、どうせなら気づきもしない。一旦、そう決めるともう四肢は自然と動いていた。もう何を動力にしているのかはわからない。おしっこもちびってる気がする。足の爪だって何枚か剥がれてる気がする。それでもいい。もう知らない。私は逃げる。生きる意味など、最初からないのに逃げる。殺してくれるな。そのうち勝手に死ぬから。
ゴーレムはそれより先、もう追っては来なかった。ありがとう、見逃してくれて。お前の今日の餌だった生き物が心から感謝するよ。夜明けの紫が綺麗に滲み始めていた。そうして体が動かなくなるのが先か、視界が暗くなるのか先か、私は微笑みながらそっと意識を手放した。