Bright
1
同居する母親がデイサービスに通うことになり、家の近所の施設を何カ所か見学に行き、話を聞いた。石野緑はその中の一つ、ある小規模な施設の主任ヘルパーだった。結局、緑の働く施設にお世話になることとなり、その施設とのかかわりが始まった。
緑は40歳前後と思われる、太っていると言ってしまえば言い過ぎだが、どちらかと言えば豊満の部類に属する体形をしている。ふっくらというより固太りという感じが近い。背は高くはない。施設見学で初めて緑に会った時、政史は緑に対しビビッと感じるものがあった。外見というよりも緑が醸し出す雰囲気にフェロモンを感じたのであった。
女性に対する自分の好みはぽっちゃり系ではない。緑は取り立てて美人というほどではない。十人並みの器量である。施設では念入りに化粧をする必要もないのか顔のそばかすなども隠しきれていない。要するに、周りに普通にいる中年女性に過ぎない。ただ、もの言いや振舞いはハキハキ、キビキビして気持ちがいい。そんな緑に政史は惹きつけられた。
杉山政史は63歳。今の時代、60代はまだまだ若いと言っても社会的には充分老人の部類に属する。定年を過ぎ、長年勤め上げた会社の再雇用で週に二日ほど都内のオフィスに通う身である。65歳で再雇用が終わった後、別のところに再就職するか完全にリタイアするかはまだ決めていない。リタイアした場合、何か地元の地域社会に役立つようなことをするのも悪くないと考えている。自分は女性に心をかき立てられるとか恋心を燃やすと言った時期はもう十分に過ぎている、枯れている、と頭では思っていた。まして妻のいる身である。この年になっていまさらややこしい恋愛や不倫なんてことを始める元気はない。そもそももう女性との行為を満足に行えるものやらまるで自信がない。でも、初めて緑を見た時、確かに久しぶりに特定の女性への興味が芽生えたのだ。そしてその感情は今も継続している。
施設は政史の家もある千葉県市川市内にあり、利用者の自宅と施設の間の送り迎えは手の空いているスタッフが交代で行う。緑も時々車を運転して政史の母の送迎にやって来る。その時、緑を見るとやっぱり胸がときめくのだ。もっと若くて器量良しのスタッフも来るが、若すぎるからなのか彼女たちではそうはならない。そういう想いは緑だけにである。もちろん緑は政史のそうした気持ちを知る由もない。家族に気取られてもならない。
2
母親がその施設のデイサービスに通い出してから1年ほどが経過した初夏、政史は大阪池田の実家に帰省した。実家と言っても、二年前に一人暮らしだった母親を政史の家に引き取ってからは空き家となっている家である。お盆を含め年に1、2回家の様子を見に帰ることにしている。近くにいる親戚が定期的に風を入れてくれてはいるが、やはり任せきりにしてはおけない。時々自分で行かないと安心出来ない。
今回も家を見て、親戚に顔を出して挨拶するなどの用事を済ませた帰途、いつものように池田から新大阪に出て、東京行きの新幹線のぞみに乗った。新大阪を発車したのが夕方4時過ぎ。夕食は家に戻ってから取ることにしてあったので、駅弁も買わず、ビールも買わなかった。
少し、うとうとしたころ、のぞみは名古屋に到着した。名古屋では大勢が降り、入れ替わりにまた大勢が乗ってくるのが普通だが、平日のこの日、乗客は少なく、自由席のこの号車でも半分以上が空席だった。名古屋を発車した時、政史の座っている二人掛けの席でも隣はもちろん前後の列も空いていた。
また、目をつぶってうとうとしかけた時、名古屋から乗ってきた乗客らしい一人が通路側に座っている政史の横で足を止めた気配がした。
「……杉山さん?……」という声の方を仰ぎ見ると、緑が立っている。
「あれ……?」どうして緑とこんなところでバッタリ出くわすのだろうと思いつつ、ドギマギしていると、
「こんにちは、偶然ですね……隣、いいですか?」と緑。
「はい……どうぞ」と政史は言うしかない。
政史はぎこちなく足を引いて緑が窓側の席に行きやすいようにする。空席の多いガラガラの車内で声をかけ、よりによって隣に座りたいというのはどう解釈すべきか。顔見知りだから別々に席を取るというのも不自然だと思った仕方のない行動だったのか。敢えて自分から進んでなのか。政史は目をつぶっていたので、気づかないふりをして離れた席の窓側にでも席を取ってしまえば気づかれることなくひとりで居られるはずだ。
緑と二人きりになることに政史の心臓は年甲斐もなくドキドキしている。異性に対するこのような気持ちは何年、いや何十年ぶりだろうか。この出会い、緑に対する自分の気持を知っている神様が自分を試しているのか。「来たー」と思う一方、この場から逃げ出してしまいたい気持ちがあるのも確かだ。
緑が棚に荷物をあげるのを手伝って二人とも腰を下ろす。
3
「……杉山さんは…ご旅行だったんですか」と緑が聞いてくる。
「旅行というか実家でやることがあって行ってきたんですよ」と政史。
「あ、そういえばお母さま、大阪の出身だとおっしゃってましたね」
「池田です」
「そうそう」
「二年前に母を引き取ってから空き家になったままなので、たまに様子を見に行くんですよ」
「そうだったんですね」と緑が頷く。
車内販売が回ってきた。のどが渇いていた政史は、緑に、
「石野さん、いける口ですか?」と政史は盃を口に持って行く仕草をする。
「はい、大好きです」と恥ずかしそうに緑がほほ笑む。
政史は500mlの缶ビール2本とつまみを求め、缶ビール一本を緑に手渡す。お金を払うという緑を押しとどめ、缶を開けて二人で乾杯する。
二人は話に戻る。
「石野さんはどこからの帰り?」と今度は政史がたずねる。
「私も帰省です。故郷が一宮なんです。愛知県の」
「そうだったの。実家へ?」
「そうです。久しぶりに両親の顔を見に行ってきた帰りです」
「親孝行だね。ご両親はお元気?」
「はい、今のところは。二人とも70半ばですけど」
「結構なことだ。ご両親、娘の顔を見て喜んだでしょう?」
「ええ、まあ…」と緑は言葉を濁す。
いつもハキハキしている緑にしては歯切れの悪い言い方に、そこには何かがあるらしいと察した政史は、緑のプライベートについて聞くのは切り上げ、母がお世話になっているデイサービス施設に話題を移す。
緑は生き生きと利用者やスタッフにまつわる逸話を話して聞かせた。みんなで大笑いしたスタッフのポカを紹介した時にはおかしさを思い出したのか、笑い転げながら隣の政史のひざを叩いたものだ。無意識に出てしまった行為で緑本人は何とも思っていないのかもしれないが、政史にとってはうれしくもビックリ、緑が自分の体に触れてくれたという事実は甘美な体験として残った。
4
のぞみは沼津を通過し、そろそろ神奈川県に入る。終着の東京駅まで残り1時間ほどだ。施設のことを一通りしゃべり終わり、沈黙勝ちになっていた緑が突然言い出したものだ。
「あたし……、今のところを辞めて他に移るんです。今月いっぱいで」
「……そうですか、それはそれは」と政史は紋切り型に返事を返したが、内心のショックは大きかった。
「皆さん残念がっているんじゃないですか?」と言いながら、政史は緑がいなくなるのを一番残念に思うのは自分ではないかと思った。口にはもちろん、態度にも絶対に出してはならないが。
失望を隠して、「辞めた後はどうするの?」と訊ねる。
「前から、もっと大きな介護施設から誘われていたんですけど、今の勤め先に悪いと思ってずっと踏み切れないままでいました。今の勤め先、働きやすくって私、気に入ってたんです。先月、思い切って施設の責任者に打ち明けて相談したところ、初めは引き止められましたが、最終的には円満に送り出してくれることになりました。幸い、私の後任もすぐに見つかったようなので」
「やっぱり、大きい施設のほうが働き甲斐があるのかな?」
「確かに大きいところは設備も体制も整って働きやすいことは確かなんですけど、大きいが故の問題もいろいろあるようです。今のような小さなところでは一人が何でもかんでもやらなければなりませんが、それはそれでアットホームな良さがあるのも確かです」
「なるほどね」
「実は私、今度の勤め先では看護師として働くんです」
「……看護師?……、それじゃあ」
「はい、実は私、今のところへ来る前は、千葉市の中規模の民間病院で看護師として働いていたんです」
「そうだったんだ。石野さん、看護師さんだったの」
「はい、看護師ってご承知のように、人の命にかかわる仕事ですから、気が休まることがないんです。それに月に何回か夜勤もあってとっても大変で。大変なのは私だけじゃなくてみんな一緒なんですが。そしてとうとう私、体を壊してしまいました」
「それはいけないね」
「ストレスによる胃潰瘍だと言われました。精神的に参ってたんですね」
「………」
「私は子供のころからメンタル面は強いと思っていたんですけど、そうでもなかった」
「それでそこの病院を辞めたの?」
「そう。そこから3か月、自宅で休養してました」
緑はどんな暮らしをしているのか、夫はいるのか子供はいるのか、政史は気になったが訊ねることは出来ない。そこはぐっと飲みこんだ。
「そして今のところに?」
「そうです。体も回復したのにいつまでもボーっと家にいるのも退屈で。でも今度はあまり、精神的ストレスのなさそうな職場を選びました。今度働くなら小規模のところがいいと思っていたので、あそこに応募したんです。住んでいるところの隣の駅だったし、ヘルパーの資格も取っていたので。4年前です。」
「採用面接の時、待遇は考えるから看護師としても働いてくれないかって言われたんですが、あたしはあくまで一ヘルパーとして働かせてください、と言って勤め始めました」
「看護師の仕事からは距離を置きたい?ということ」
「そうですね。厳しい命の現場から逃げていたんですね」
「でも昨年あたりから、せっかく苦労して使命感を持って獲得した看護師資格なのに逃げたままでいいのか、と思うようになったんです。これ以上齢を取ってしまうと復帰が難しくなる。今が復帰のラストチャンスではないのかって思うようになったんです」
「そうですか。ありきたりな感想しか言えなくて申し訳ないが、石野さんのその決断は正しいと思う。仕事はまた厳しくなるだろうけど」
そいうことなら、緑のためでもあり、姿を見ることが出来なくなるのは寂しいが、仕方がない。政史の片思いの灯は人知れずひっそりと消えるのだ。
5
のぞみは先ほど新横浜に停車、ここでも多くの乗客を降ろして発車した。間もなく、品川を経て、終点東京に到着する。緑と一緒に過ごす幸せな時間も残り少なくなってきた。品川を過ぎ、そろそろ棚から荷物を下ろして降車の支度を始めようかと思った時、ポツリと緑がつぶやいた。
「あたし………今回の帰省の目的は、両親に離婚の報告することだったんです」
転職に続いて離婚。またまた爆弾告白だ。
「……そう…」政史としてもうかつな返事は出来ない。
緑がなぜ、終着駅到着間際にこんな重大なことを、顔見知りとは言っても施設の一利用者の家族に過ぎない政史に、時間切れのこのタイミングで言い出したのか。政史は頭が混乱し、気の利いた返答を探しているうちにのぞみは東京駅のホームへと滑り込んだ。あとは総武線に乗り換え、市川に帰るだけである。緑は隣駅から通っていると聞いていたので、同じ電車に乗るにしても、夕方の混んでいる総武線の中では話も出来まい。でも緑の話はいかにもしり切れだ。いくらなんでもこれでさよなら、というわけにはいかない。目まぐるしく頭を回転させながら無言のまま新幹線の改札を出たところで政史の腹は決まった。時計を見ると7時半を回っている。
「……石野さん……このあと、時間ある?」
「……はい……大丈夫です」
「知っている小料理屋がこの近くにあるから、と言っても日本橋だけど。そこでもう少し話そうか?」と政史は会社の人間とバッタリ出くわす心配のない店を思い浮かべる。
「はい、お願いします。ぜひ」
おそらく緑は政史とのこういう展開を期待していたのであろう。
こういう時にきちんと相手の意図を汲み取って行動出来るのが、年輪を重ねた男の価値だ、と政史は思う。
政史は携帯電話を取り出し、食事の支度をして待っているであろう妻に電話をする。今東京駅に着いたが、東京駅でバッタリと会社時代の仲間に会ったので、少し飲んでから帰る、と伝えた。政史はすぐそばにいる緑に聞かせるように電話したので、賢い緑は瞬時に状況を把握し、偶然とはいえ、今日自分と政史が会ったということ、特に今から共有するであろう時間のことは二人だけの秘密にしておくべきことなのだと即座に理解した。
6
日本橋の路地奥にあるカウンター席、テーブル席合わせて20席ばかりの「ふぢ山」という小料理屋のテーブル席に落ち着くと、二人はビールで乾杯した。なかなか話を切り出しにくそうにしている緑を見て、政史のほうから、
「………確か………今回の帰省は……親御さんへの離婚報告とか……言ってたけど………」と水を向ける。
「……はい、離婚することにしたんです。私」
そうか、緑は結婚していたんだ。もっとも結婚していても何の不思議もない、と政史はあらためて緑を見る。
「それで……離婚の原因は何だったの?」興味本位と思われない程度に事情を聞く。
「夫は小さな雑貨の卸売り会社をやっているんですけど、以前から……女の人がいたんです。同じ会社の人です」
「結婚したのは私が28歳、夫が32歳の時でした。私は小規模な耳鼻科のクリニックで働いていたんですけど、夫が患者さんとして来院して知り合い、結婚しました」
「夫はまじめな人のように思えたんですけど、それでも私が病院の夜勤の時なんかは外泊をして知らん顔をしていたこともありました。本人は出張だとか言ってましたが、私には女性のところだとわかっていました」
「でも子供が出来れば夫も家庭に目を向けてくれるかな、と思いましたが、残念ながら子供は授かりませんでした。今に至るまで」
「4年前に私が体を壊して病院を辞めた時、夫はいい顔をしませんでした。私が夜勤の時、女性のマンションに泊まって羽を伸ばすチャンスが無くなるのが嫌だったみたいです。そうでない日も好き勝手やってましたけど」
「そうか、そういう旦那さんだったの……苦労したね」
「でも、私が仕事を辞めて一番困るのは、私の収入を当てにしていたからだったと思います。自分の収入はほとんど自分の小遣いにしてましたから。マンションの家賃こそ夫が出していましたが、生活費は私の給料でまかなっていたんです」
「4年前、私が今のところで働き始めて夫はほっとしたようでしたが、以前と比べて給料が大幅に減ったので、面白くなかったようです」
「2年前からは家に帰ってこなくなりました。夫は一緒に住んでいる女性から結婚を迫られたのか、そのころから私に離婚してくれと言ってくるようになりました」
「私はもう夫への愛情はすっかりなくなっていましたが、相手の女性への対抗心だけで離婚は拒否してきました。いやがらせですね。我ながらいやな女」
「……そういうことだったのか」
「でも、今回の転職を機にもういいかなって思ったんです。どうせ私たちは元には戻らないし、夫が再婚して幸せになれるのならそうすればいい。相手の人にくれてやる。私も心機一転、身辺を整理して新しい生活に飛び込もうって決めたんです」
「それで離婚のことをご両親に報告しに行ったのか………」
「ええ、電話で済ませられるほど軽い内容でもないですから、直接言いに行きました」
「それでご両親の反応は?」
「両親は別居のことはうすうす知っていて、離婚を告げた時も、やっぱり、という感じでした。親不孝な娘で申し訳ない、と頭を下げて帰ってきました。両親は何も言わず、ただ頷いていました」
「………そう………」
「これまでで一番気の重い帰省でした」
7
時計を見るともう店に入って一時間半近くが経過している。緑もかなり飲んだはずだが乱れは見られない。自分より酒が強いのではないか。もう長い時間二人でひそひそと話し込んでいるこの二人の関係は他人から見たらどのように見えるだろう。父と娘、叔父と姪、兄と妹、上司と部下、不倫カップル。ひょっとして年の離れた夫婦。自分自身はどう見られたいのだ、と政史は自分に問うてみる。
「………石野さんはずいぶん人生の荒波を潜り抜けてきたんだね。そんな苦労をしているようには見えなかったが」
「苦労だなんて………たいしたことではありません」
「それで………石野さんの極めてプライベートなことを、単に一利用者の家族にしか過ぎない自分にどうして打ち明けようと思ったの?」
「それは………私にもわかりません。ただ………」
「ただ、なに?」
「両親を苦しめた自己嫌悪いっぱいの、後味の悪い思いで実家を後にして、暗い気持ちで乗り込んだ新幹線で杉山さんを見かけた時、ひらめいたんです。あ、この人だ、この人に何もかも聞いてもらおうって。誰かに聞いてもらわなければどうにかなってしまいそうな、そんな心境だったんです、あの時の私」
「そういう時に乗った新幹線の車内にたまたま、自分がいたってことかな」
「はい、そうなんですけど……でもそれだけではありません。杉山さんを見つけて、私、神様がベストな人を選んで引き合わせてくれたって思いました」
「ベストな人?」
「ごめんなさい。あたし、お酒が回ったのかしら、なんてお酒のせいにして本音を言っちゃいます」
緑の本音とは何だろう。
「杉山さん、あたしたちの施設に最初に見学に見えた時の事覚えていますか?奥様とお二人で見えましたよね。あたしが中を案内したんですけど」
覚えているも何もあの時から、自分は緑に惹かれるようになったのだ、と心の中で政史は叫ぶ。
「あの時、杉山さんを一目見た時から、あ、この人は信頼できる人だ、って確信したんです。茫洋とした包容力のようなものを感じました。父親とも違う、兄とも違う、肉親とは違う尊敬できる男の人。言ってみれば先生、上司に対するような暖かさと安心感………それと異性に対するときめきを感じたんです」
「だから、お母さまの送迎を私がするときには、また杉山さんにお目に掛かれるかもしれないって思うと、わくわくしてました。ごめんなさい、いい年をして小娘のようなはしたないことを言っているのは承知してます。でもこれが正直な気持ちなんです」
なんということだ、初対面の時から緑も自分に対して特別な好意を抱いてくれていたのだ。この還暦過ぎの爺様に。緑と自分は「相思相愛」だったとは。
「ごめんなさい。突然こんなことを聞かされてもご迷惑だってことは十分承知しています。でも、転職にしても離婚にしても杉山さんにだけは全部打ち明けたい、聞いてもらいたいって思ったんです」
「それで、神様は自分という話を聞いてもらうにベストな人を選んでくれたと?」
「はい、完璧な人選でした。さすが神様」
「そうか……でも、ベストかどうか自信はないけどね。買い被り過ぎじゃなければいいけど」
「本当に聞いてもらいたいのは離婚の話だったんですけど、最初、切り出す勇気がなくて。つい、まず、話しやすい転職の話を始めてしまいました。でもその転職の話にしてもなかなか口に出来なくて、やっと話し始めることが出来たのは神奈川県に入るあたりだったんです。」
「転職の話をしているうちに、離婚の話はあまりにもプライベート過ぎてドロドロしていて、聞いてもらうのはやめようって思ったんです。時間も無くなったから仕方がない、転職の件だけでも聞いてもらって良かったって自分に言い聞かせて。これ以上杉山さんに悪い印象を持たれたくないとも思いましたから」
「自分は今日全部石野さんに話してもらってよかったと思っているよ。言いたいことを残したままさよならしなくて良かったと思う。石野さんの印象はますます良くなったよ」
「東京駅が近づいた時、やっぱり今日杉山さんに聞いてもらわなければならないことはこっちのことなんだ思い直して、離婚のことを口にしちゃったんです」
「そのあとすぐに東京駅に着いて時間切れになってしまいましたけど、杉山さんならこのあときっと話の続きを聞く時間を作ってくださると思ったんです」
「果たして杉山さんは私の期待通り、ここに私を誘って話を聞いてくれました。さすがです」
「うーん。そうか、自分は石野さんの筋書き通りに動いたわけだな」
緑は「すみません。気を悪くなさらないでください」と謝る。
「いや、謝ることはないよ。石野さん、あなたの期待を裏切らないで良かった」と政史は首を振る。
8
「実は自分の方からもあなたに白状しなければならないことがある」
「白状、ですか?」
「そう、男らしく白状する。とっても恥ずかしいんだけど、あなただけに言わせて自分の事は口をつぐんでいる、というのは男として卑怯だ」
「どんなことでしょうか?」
「あなたは………自分に対し、初対面の時から、特別な親しみを感じていた、と言ったね?」
「……はい……その通りです。ごめんなさい。恥ずかしいですけど」緑はやや顔を伏せ気味にして答える。
「謝ることはない。それは自分も同じなんだよ」
「えっ?」
「実は自分もあの初対面の瞬間からあなたに何か惹きつけられるものを感じて、母の送迎の時あなたの姿を見るのがひそかな楽しみになっていたんだよ。顔には出せなかったけどね」
緑は目をまんまるにし、「えー、本当ですか?じゃあ、私の片想いではなくて私たち両想いだったんですね?」
「そういうことになるか。この齢で気恥ずかしいけどね」
「そうなんだー。うれしい」
「でもこっちには女房はいるし、歳は63の爺さんだし、久しぶりに味わうそんなときめきの思いをどうしたらいいのか持て余し気味だった。若いあんたとは立ち位置が違う。年寄りが色ボケすると始末に負えないって言うしね」
「いいえ、私だってもう42です。若くはないですよ」
「いやいや、充分若い。女性の40代はまだまだ女盛りだよ。これから結婚もして、まだ子供も持てるかも知れない。あ、これは余計なお世話かな」
「杉山さんは父とはちょうど一回り違う63歳。私とは21歳違いなんですね。でも男女の仲に年の差なんてそんなに大きな問題じゃないと思いませんか?それに20歳違いのカップルって結構いると思うんですけど」
「うれしいことを言ってくれるね」
余裕をもって年配者の貫録を見せたつもりであったが、政史の心臓はドキドキしていた。
9
時計の針は9時半を回っている。
「さて石野さん」
「緑って呼んで下さい」
「では緑さん」
「はい」
「そろそろ今日の出会いを締めくくろう」
「そうですね。名残惜しいけど」
「緑さんと自分は2年前の初対面の時にお互いに何か惹かれ合うものを感じ合ったが、お互い相手の気持ちは知らず、双方とも一方的な気持ちだと思っていた。そうだね?」
「はい、その通りです」
「母の送迎の時、相手の姿を見るのを二人とも密かな楽しみとしていた」
「ええ」
「しかし、今日偶然に新幹線の中で遭遇し、ここに来て気持ちを正直に打ち明け合った結果、お互いに好意を持ち合っているということを知った」
「はい」
「ここからは自分の意見だ。緑さんの気に入らないかも知れない」
「かまいません、どうぞ」
「二人の思いを突き詰めた場合、これが独身同士なら年の差はあっても、恋愛関係という形になるかもしれないが、今の状況では不倫関係ということになってしまう。しかしお互いそこまで踏み込むつもりはない」
「はい、そうですね」
「二人とも自分の心の中でのことなら相手に対する気持ち、好意を抑える必要はない。しかし今後何か具体的な行動、例えば、二人きりで逢うデート、密会とかへ発展していくことになるとお互い無事では済まない。だからそこまでは踏み込まない。あくまで感情の上での関係だ。お付き合いとしては表面上はこれまでと何ら変わらない。母親がお世話になっている利用者の家族と受け入れ施設のスタッフという関係だ。会えるのもその時だけ。残り少ない期間ではあるが」
緑が頷く。
「しかしこれまでと決定的に違うことがある。それは、お互いに相手に好意を抱いている、ということをお互いが知っているということだ。違うかな?」
「全く同感です。あたしも、杉山さんの家庭を壊したり、杉山さんとの……深い関係……を望んだりしてはいません。あくまでプラトニックな関係のままでいいんです」
「そうだね、自分から見た緑さんは……看護師さんという立場を拝借すると…入院中お世話になった素敵な女性の看護婦さん、尊敬に値し、ファンになった……そう、ファンという表現がぴったりだ。あなたに対する気持ちは」
「あ、そうです。私も杉山さんのファンなんです。尊敬出来る学校の恩師、頼りになり信頼できる年配の上司、ただし、異性としての魅力も感じている。ファン、その通りです」
「うん、今夜はお互いがファンであるということを告白し合って、相手に気持ちを伝えることが出来た。自分はこの齢になって久しぶりに女性に対してときめきを感じることが出来て若返った気がしている。家内には申し訳ないが」
「実はあたし、昔から年の離れた男の人が好きだったんです」
「ほう」
「高校の時は40代の英語の先生に夢中になりました。友達にはあんなおっさん、どこがいいのって言われましたけど」
「どんなおっさんだったんだろうね、その先生」
「年の近い人はどこか頼りなくて。でも、結局、結婚した相手は4つしか違いませんでした。私から見ると青いというか幼いというかそんな風にも見えて、知らず知らずのうちに夫を見下すようなところがあったのかも知れません。夫婦仲がうまくいかなかったのは私に責任があったんじゃないかって。最近そう思うんです」
「なるほど」
「今度の勤め先は千葉市内なんです。今住んでいるところから通えないことはないんですけど、今住んでいるのは夫と暮らしてきたマンションですし、一人暮らしには広すぎるので、千葉市内にマンションを新しく借りることにしました。環境を一新して、心機一転です」
「そのほうがいいだろうね。がんばりなさい」
「ありがとうございます」
「さて、時間もだいぶ遅くなった。今日の結論だ」
「はい」
「繰り返しになるが、今日は自分と緑さんの偶然の最初にして最後のデートだ」
「ええ。そうなりました」
「いや、緑さんの言うように、神様がおぜん立てしてくれた必然的な出会いかも知れないね」
「私はそう信じています」と緑。
「新幹線で出くわしてから今に至るまで、二人だけで長い時間を過ごした今日のことも、話の内容も二人だけの秘密であり、秘密は堅く守られなければならない。いいかな」
「はい、誓います」
「明日以降、緑さんが退職するまでの間で、送り迎えで我々が顔を合わせることがあってもこれまでと何ら変わらず振舞う」
「大丈夫です」
「緑さんが施設を辞めた後も我々は連絡を取り合うことはしない。新しい引っ越し先も聞かない。お互い、携帯電話の番号も知らないまま。いいかな?」
「はい、残念だけどそれが一番いいと思います。杉山さんのことは今の施設で働いていた時の甘美な思い出としておきます。杉山さんも時々はあたしのことを思い出してくださいね」
「もちろんだよ。この老境に最後のときめきと輝きを与えてくれた緑さんのことは忘れないよ」
「はい。うれしい」
「緑さんに会えるのも今月限りだね」
「寂しいけどそれでいいのだと思います、私は。この先も長く今のところで働いていて、ずーっと杉山さんにお目にかかって、今のようなファンであるという気持ちがもしも揺らいで来たら、私にはそっちの方がイヤです。思いがピークの時の今の方がお別れする時期としては……私はいいです」
「そう。逆に今後、だんだん思いが募ってきて今の立場を忘れ、一線を越えるようなことになっても困るしね」
「今日は楽しかったです。話を聞いていただいてよかった。穏やかな気持ちで帰れます。ありがとうございました」と緑は頭を下げる。
政史はうなずいて右手を差し出す。緑はその手を両手でしっかりと握り返す。
店を出た時、路地に人影はなかった。駅に向かって歩き出そうとした時、緑はいきなり政史の胸に顔をうずめる。
「………!?」
「………一度だけ。思い出に………最初で最後ですから」
政史はうなずき、緑を強く抱きしめる。
帰途、総武線に乗車した二人は隣同士に立っていたが言葉を交わすこともなく、近くにいたほかの乗客から見ても二人が連れであるようには見えなかった。市川駅で政史が先に電車を降りる時、ちょっと緑の方を見て目を合わせると、緑は軽く頷いただけである。
二人はそれぞれ、今日神様が与えてくれた喜びを大事に抱えながら帰路を急いだ。
10
帰省後、緑が母の迎えに来たのは新幹線での出会いの翌々日の朝であった。緑は初めて見る若い女性のスタッフを同道していて、見送りに出た政史と妻に今度新しく入ったスタッフだと紹介した。
(緑の後任だな)と政史は直感したものの、もちろん口には出さない。
そのうえで緑は「実は私、今月いっぱいで辞めることになりました。彼女が後任なのでよろしくお願いします」と自らの進退を口にした。利用者への発表が解禁され、新しいスタッフの紹介も兼ねてあいさつ回りをしているらしい。
妻は「えっ、本当ですか石野さん、これまで大変良くしていただいたのに、名残惜しいわ。ねっ?」と政史に同意を求めてくる。
政史も「本当に辞められるんですか?残念だなあ」と調子を合わせる。
緑は一瞬、政史と視線を合わせ、(その節は……)とメッセージを送る。政史も(どういたしまして)と視線で応える。
「来月からどうなさるんですか?」と妻が訊ねると
「はい、別の施設で働くことになってるんですよ」と緑はあっさりと答える。
母を送り出してからも妻は「石野さん、辞めちゃうなんて残念ね」を繰り返した。
政史は、(もっと残念なのは自分だ)と心の中でつぶやく。
その月の残り2週間のうち、緑が母の迎えまたは送りを担当したのは4回。送り迎えのたびに政史は緑であることを期待して妻と一緒に玄関先まで出た。
還暦を過ぎた自分に忘れていたときめきをよみがえらせてくれた緑。月が替わり緑は去ったが、母のデイサービス通いは続いている。
(了)