紫紺の章 二 記憶のない少年の名前は緋雲にしよう
不思議な少年を拾いました。
「大丈夫? 気分は悪くない」
その音に、少年の目が二人へ向けられた。
鈍い動きで身体を起こそうとするも、途中で均衡を失い布団に手を突く。
「駄目よ。三日も寝通しだったんだから」
枕を背にあてがってやると、素直に背を預けた。
「お茶とか、飲めそうかしら」
玲凛の言葉に小さく頷くのを認め、湯釜の掛かる火鉢へと踵を返した。
茶より白湯のほうがいいかもしれない、と湯冷ましに湯を注ぐ後ろで、湖詠が抑揚の無い声で詰問し始めた。
「名は何と言う。
どこから来た。
あそこで何をしていた」
「そんなに矢継ぎ早に訊いたら、答えれるものも答えれないわよ」
呆れ口調で湖詠を窘めつつ、寝台の傍に戻る。
柔らかい湯気が立ち上る湯呑みを手渡すと、少年は存外素直に受け取り、ちょこんと頭を下げた。
暖をとるように湯飲みを両手で包み込む姿が愛らしい。
警戒心も見せず、従順に口に運ぶ姿に満足し、玲凛は椅子を引き寄せた。
目線を合わせ、出来るだけ人好きのする柔らかい笑顔をつくる。
「私は清麗、字は玲凛。
こっちは湖詠。空尸なの。あなたの名前は」
少年は、顔の前に湯呑みを持ち上げたまま、心持ち顎を上げると、何かを探すように斜め上に視線を彷徨わせた。
やがて視線と一緒に、手を膝の上に下ろすと、考え込む顔を作り、最後にぺこんと頭を下げた。
「ごめんなさい。
分からないみたいです」
思いの他、幼い声をしている。
口が利けたことに安堵しつつも、玲凛は首を傾げた。
「分からないって、自分の名前が?」
「はい」
玲凛は思わず立ち上がると、少年の額に掌を当てた。
「熱は、ないみたいね。
空腹で意識が混濁しているのかしら」
気遣わしげな玲凛の言葉に、少年は自分の腹部に手を当て
「お腹は別に、空いてないみたいです」と小首を傾げた。
困惑して湖詠に視線を送る。
湖詠はいつになく真剣な眼差しをしていた。
組んでいた腕を解くと、肘をつき顔の前で指を組んだ。
「住んでいた所はどうだ。
覚えているか」
少年はもう一度、宙に視線を這わせ
「分かりません」と答えた。
湖詠は、年齢や家族等いくつかの質問を重ねる。
少年の答えは全て同じだった。
「ふむ。では訊き方を変えよう。
何なら覚えている」
「えっと……」
「断片的で構わないから、記憶に残っているものを説明してくれ」
少年はちょっと身構えてから、口を開いた。
「目が覚めたらお二人がいました。
僕の記憶、それで全てみたいです」
玲凛と湖詠は、瞠目して目を見合わせた。
「湖詠。こんな症状の病ってあるの」
「私の知る限り、ないな」
空尸にも道を説く者、武芸を極めた者など様々な種類がいる。
湖詠は植物、薬草、医学に秀でた尸として名高い。
その湖詠ですら知らない病がある等、玲凛には俄かに信じがたい話だった。
「じゃあ、呪かしら」
「忘却の呪か。有り得そうではあるな。聞いたことはないが」
湖詠の藤色の目が、妖しげに光った、ように玲凛にはうつった。
湖詠の口角が僅かに上がった。
「どちらにしても、興味深い」
言葉の中に愉悦の色が混ざっていた。
難解な問題に出会ったときの、この男の狂人振りは、嫌と言う程見てきた玲凛だった。
頭を抱えつつ、心の中で少年に同情した。
―――――――――――――――――
湖詠は一日中少年の身体を調べ、呪を払い、尋問を繰り返した。
流石に食事の時間だけは、玲凛の鶴の一声で大人しく食べる行為に専念したものの、食べ終わると直ぐにまた少年にかかりきりになった。
既朔が沈み、黒夜も更け、そろそろ三日月が顔を出そうかという刻になって、ようやく臥榻に潜り込んだ。
朝餉の時間にも目を覚まそうとしない二人を見て、終に玲凛の堪忍袋の緒が音を立てて切れた。
「いい加減にしなさい」
蒲団を剥ぎ取る。
「安全な寝床に温かい食事がありながら、興味を貪って寝ようともしない。その上自堕落にも朝寝して、朝餉を無駄にする気? この食材をどれほどの人が求めているか考えなさい。恵まれているからと言って、感謝の気持ちを忘れたら、それはもう人間じゃないわ。猿よ。猿にも失礼ね。ダニよっ。分かったらとっとと起きて顔を洗ってきなさい。二人ともよっ」
朝餉を食べながら、すっかり萎縮した男二人をチラリと睨めつける。
二人とも黙々と箸を口に運んでいる。
「で?」
玲凛の問いに、少年がびくびくしながら、
「でって何がですか」と控えめに返した。
「一日かけて何か分かったの」
芥子菜の漬物を口に運びながら訊いた。
「結果から言うと、何も分からなかった」
少年が寂しげに同意した。
「そう。残念ね。
食べ終わったのならお茶を淹れるけど?」
頷く二人を見て、玲凛も箸を置いた。
「身体には何の異常も見当たらなかった。
病気とは考え難い。
呪も懸かっていないようだ。今は」
「今はってどういうこと」
「嘗ては分からないという意味だ。
病に罹り記憶を失い、完癒したが記憶は戻らなかった、という可能性は残る。
呪もまた然りだ。
どちらの痕跡も見当たらなかったが」
「でも、じゃあ。理由は分からないけど、悪化はしないってことね」
まあそうだな、と湖詠が茶を啜った。
「良かったじゃない。
悪化しないのなら、ゆっくり記憶を取り戻していけば良いんだから」
「そんなこと、できるのでしょうか」
「できるわよ。
人間の回復力は果てがないって、いつも湖詠が言っているもの。
湖詠は変人だけど、私の知る限り間違ったことは一度もないわ」
湖詠が涼しい顔で首肯した。ただ、と付け足す
「呪にも果てがない。当然、私が感知不能な呪も存在するだろう。
今も呪がかかっていないと断言することは誰にもできない」
緋雲が不安げに生唾を飲み込んだ。
袋小路に入り込みそうな雰囲気を、何とか打開しようと、玲凛は、そうだ、と指を鳴らした。
「名前がないと呼びづらいわ。
勝手に名前をつけてもいいかしら」
少年の顔に喜色が広がった。
「そうね。龍の壷から来た紅緋の人だから、緋雲なんてどう」
緋雲が幸せそうに頷いて、蜜柑色の髪を揺らした。
少年は記憶喪失らしいです。