紫紺の章 一 玲凛と湖詠と奇妙な拾い物
この小説はダブル主人公です。
この章から2人目の主人公にバトンタッチします。
無口な耿晨サイドに比べて、こっちのキャラたちはよく喋るしテンポも決断も早い。
とっても書きやすい人たちです。
江州清陽県の固河から南へ三里ほど下った場所に登葆山はある。
深い緑に覆われた、なだらかな稜線を描く裾から、突如切り立つような岩峰が姿を現す。
峨々《がが》たる絶壁の孤峰には、所々置き忘れたように緑が乗っている他は、黒い岩肌以外の山景はない。
頂は火山口の如き大きな窪みを有し、その底は深く、覗き見ることは叶わない。
例え叶ったにせよ、翼を持つ獣のみに与えられた眺望である。
月光も差さない山の中、玲凛は手元の小さな灯を頼りに、登葆山を登っていた。
足を運ぶ度、露を垂らした下生えが裾を濡らす。
足元には山猫に似た、犬程の大きさの獣が寄り添うように進む。
緋色毛に黒で描かれた縞模様。
―――天狗である。
不意に、樹木の重なりが切れ、眼前に壁のような岩肌が現れた。
壁沿いに進むこと四半刻、大きな切れ目が口を開けているのが見えた。
さほど大きくない。
人一人通るには十分だが、二人の場合は身をずらし合う必要がある、という程度の穴だった。
玲凛は躊躇うことなく穴へ入った。
暗闇に提燈を翳すと、光源を得た光苔が淡い金緑色の光を灯し始めた。
敷き詰めるように群生する光苔が、洞内の形状を浮かび上がらせる。
入口から想像するよりも、遥かな広さを持つ洞穴は、不規則に曲がりながら、奥へと続いている。
濡れた裾を軽く叩き、露を落とすと、隣で天狗が大きく身震いをして飛沫を飛ばした。
慌てて飛沫を避け、
「こら、阿雪」
と天狗の名を呼び軽く睨む。
天狗はそ知らぬ貌で、玲凛を先導して歩き出した。
坑道のような空間を二十歩程進むと、左前方からより強い光が漏れてきた。
灯の差す脇道を曲がると、突如、岩屋と化した空間が現れた。
広さは二十畳程だろうか。
煌々と照らされた岩屋の中心に置かれた火鉢から、炭の爆ぜる音が不規則に響いていた。
壁に向かって置かれた書卓を囲むように、何千もの書物が塔を成している。
至る所に山積する書物を縫うように、机や長椅子が置かれ、反対側の壁には寝台まで備わっている。
寝台の膨らみを見て、玲凛はわざとらしく肩を落とした。
「湖詠。いつまで寝てるつもり」
長椅子に乱雑に置かれた服を畳みつつ、返事のない寝台へ視線を投げると、先程より少し大きめの声を出した。
「もう月は高いわよ」
尚の無反応に、玲凛は腰に手を当て、声を張った。
「起きて湖詠。
いくら閑居の身だからって、自堕落な生活を送ってたら、尸仙の資格も無くなっちゃうわよ」
「資格とは何だ」
「ひっ」
突然の声に、身を竦ませ、短い喚声を上げる。
阿雪も驚いたように玲凛の足に隠れた。
振り向くと白髪痩身の男が直ぐ後ろに立っていた。
「湖詠、起きてたの」
湖詠と呼ばれた男は、腰の下まである絹糸のような長髪を鬱陶しげに掃うと、玲凛の問いを無視して再度訊いた。
「資格とは何だ」
表情の読み難い、薄い藤色の瞳に問われ、玲凛はぐっと返事に詰まる。
「私が知るわけないわ。尸仙じゃないもの。
でも天に選ばれたからには、何かしらの資格があるんじゃないの」
「さて、聞いたこともないが。
こちらから尸にと請うたわけでもない。
勝手に尸にしておきながら、資格を問うとは天とは身勝手なものだ。そもそも尸とは」
「あー、もう煩い。言葉の綾です。すみませんでした」
淡々と言い募る湖詠に不承不承頭を下げ、睨め付ける。
「煩いのは君のほうだ。
岩屋は音が響く。
至る所から君の奇声が聞こえて神経に障る」
「あら、すみません。年寄りには聞こえ辛いかと思いまして」
二十代半ばに見える湖詠に向かって意趣返しをする。
天に選ばれし尸仙である眼前の男が、見た目通りの年齢でないと玲凛は知っていた。
正確な年齢は不明だが、少なくとも乖王登極を、実体験として語れる程の時を過ごしている筈だ。
つまり三百歳は超えているだろう。
暴言を受けた湖詠は半眼を閉じて顔色一つ変えずに玲凛を見下ろした。
玲凛と湖詠の背丈は頭一つ分以上の差がある。
上目遣いに見返していると、湖詠は無表情のまま、ふいと話題を変えた。
「それより何故ここにいる。
今日は来ない日かと思っていたが」
玲凛の横をすり抜けると、悠然と長椅子に腰を下ろす。
「本当なら明日は瑞月の新月でしょ。
旦那様が今日と明日お休みを下さったの」
乖王が登極した月を瑞月と呼び、嘗ては月初めは慶賀の日とされていた。
お茶を淹れながら、だから今日は泊まるから、と告げる。
「構わないが床にでも寝るんだな」
「なんでよ」
「先客がいる」
不満を口にした玲凛に、顎で寝台の膨らみを示した。
歩み寄ると、年若い男が一人規則的な寝息を立てていた。
目の覚めるような蜜柑色の髪が蒲団の下から覗いている。
玲凛より少し上、十八、九歳くらいだろうか。
「誰よこれ」
この洞穴で湖詠以外の人間を見たのは初めてだった。
「拾った」
「拾ったって、物じゃないんだから」
「三日前、龍の壷に落ちていた。
穢れになるのも面倒なので一先ず拾って持ち帰ったんだが、一向に目覚めん」
「三日も眠り続けるなんて。
それにしては顔色は悪くないわね」
静かな寝息を立てる少年を覗き込む。
「病気や怪我もなさそうなので、寝かしているが、流石に起きて貰いたいものだ」
「龍の壷なんて、簡単に迷い込む場所じゃないのに」
玲凛は小首を傾げたが、湖詠は気にした風もなく茶を啜った。
「前例がないわけじゃない」
前例、とは玲凛を指す。
「そんな十年も前のことなんて覚えてないわ」
そのとき、少年の寝息が乱れた。
低く声を漏らし眉間に皺を寄せる。
どうやら覚醒が近いようだった。
「ふむ。煩いのも偶には役に立つ」
「明朗と言って頂戴」
身を乗り出すように覗き込むと、少年の瞼が気だるげに持ち上げられた。
瞼の下から現れたのは、紅玉のような透き通った赤。
始めてみる鮮やかな紅緋の瞳に思わず息を呑む。
「見事な色だな」
滅多に人の美醜を口にしない湖詠すら、感嘆の声を漏らした。