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幽翠の章 三 真如様とやらが死んで、蚩尤が動揺しています。

語り部が耿晨に変わります。

 清流のさざめきが染み渡る、沢から程近い荒野の一角。

 生い茂る木々に埋もれるように、一つの民家が忍ぶように佇んでいた。


 うまや母屋おもやを、小さいながらも手入れの行き届いた田畑が囲んでいる。


 カキンッ


 幽翠の静けさを切り裂くような硬い音を立てて、短身の刀が民家の外壁に突き刺さった。

 刀の柄には紅の飄彩が揺れる。


 片方の刀を失った耿晨の眼前に、切っ先が突き付けられる。


「……参った」


 耿晨は、自分の首元に大刀を突き付ける男を上目使いに睨んだ。


 黒夜よりも黒い髪に、冬の海のような深い緑の瞳をした、三十前後の体躯の良い男。

 引き締まった長躯に広い肩。

 どこか武人然として、鋼のような印象を与える。


 男は目元を緩めると、大刀を引いた。


「悔しいな。久々に蚩尤しゆうから一本取ったと思ったのに」


 蚩尤、と呼ばれた漆黒の偉丈夫は、耿晨の頭を軽く撫でた後、壁に突き刺さった刀に向かった。


「ほら、もう一本行くんだろ」


 蚩尤は引き抜いた刀を、抜き身のまま宙に放った。

 刀は光を反射しながら、音を立てて回転した。

 放物線を描き飛んできた白刃を、耿晨は顔色を一つ変えずに片手で掴む。


「勿論」


 挑戦的な微笑みを合図に、再び響きだした金属音は、今度はゆるかやなものだった。


 型をなぞる基本の仕合しあい

 並外れた身体能力と集中力が必要な稽古だが、二人にすれば整理運動のようなものだった。


「今日は機嫌が良いな」


 打ち合いながら蚩尤が語りかけてきた。


「今日、人と話したんだ」

「人と? 何処で?」


 蚩尤が眉根を僅かに寄せた。

 心配性の蚩尤に苦笑しつつも、耿晨は森での一件を掻い摘んで説明した。


「とりあえず、手元にあった文茎ぶんけいの実を渡したんだが、焼け石に水だろうな」

「……気になるか」

「まあね」


 最後に上段で刀を合わせると、そのまま静かに腰に納め、互いに抱拳礼だっきょれいをとる。


「……なあ蚩尤。畑の食料を分けてあげれないだろうか。

 私たち二人なら、食べるに困るわけじゃないんだし」


「随分と肩入れするんだな」

「そうじゃないが……」


 耿晨は言い淀んだ後、小さな声で付け足した。


「人と話したのは久しぶりだし……」

「……分かったよ」


 顔を上げると、目の前には蚩尤の娘をあやすような、優しい瞳があった。


「定期的に届けてやれば、その娘も無理に森に入ろうとはせんだろう」


 蚩尤が口元を上げて同意を示したとき、


 ―――鳥の羽ばたきが聞こえた。


 野生とは明らかに異なる、手入れされた美しいとびだった。

 肢に手紙が結わえてある。


 蚩尤の元には時偶にとびが届く。


 人を避けるように暮らす蚩尤が、誰と連絡を取り遭っているのかは分からない。

 長年寝食をともにしていても、蚩尤には触れてはいけない領域がある。


(邪魔しちゃ悪いな)


耿晨はわざとらしく一つ伸びをすると、心得たように一人家へ向かう。


 何故かふと、後ろ髪を引かれて振り返った。

 蚩尤が手翰に目を落としている姿が見えた。


 その姿が、瞬間ぐらりと均衡を崩した。


「蚩尤?」


 蚩尤が後ろに傾き、倒れるように座り込んだ。


「どうした。大丈夫か?」


 慌てて駆け寄るも、返事はない。


 きつく閉じられた瞳。

 蒼白な顔を、片手で抱えるように覆っている。


 常に冷静沈着な蚩尤の、めったに見せない激しい動揺だった。


 カサカサ……。


 左手に握り締められた手紙が、手の震えにあわせて乾いた音を立てていた。


 薄い手紙から流麗な墨蹟ぼくせきが透けて見えた。


   『真如じんじょ様逝去』


 長い前髪の隙間から、深い海のような蚩尤の瞳が見える。

 引きずり込まれそうになる深い嘆きを湛えた瞳。


「……何でもない」


 蚩尤の震える唇から、掠れた声が絞り出された。


 追求を拒む、断固とした壁がそこにあった。


 普段は気にならない、闇に閉ざされた蚩尤の過去は、たまにこうして顔を覗かせる。

 その度に耿晨の疑念は真実味を帯びてしまう。


 ―――おそらく、蚩尤は死を求めている。


 耿晨の存在は、蚩尤をこの世に繋ぎ止める、一本の藁なのでないか。


(真如とは誰だ?)


 もしかしたらたった今、蚩尤の藁が一本、切れたのかもしれない。

手紙が届きました。

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