幽翠の章 二 赤い月の光を浴びて、聖印が出た人が次王です
耿晨は女の子。
「美味しい!」
果実は甘酸っぱい味がした。
こんなに瑞々しいものを食べるのは、何年ぶりだろう。
「どうしよう、やみつきになりそうだわ」
「これを食べるために、また山に入るなんて言わないでくれよ」
「いくら私でも、そんな命知らずじゃないわよ」
「いや、十分無謀だろう……」
耿晨が呆れたように、からかうように笑う。
「無謀で結構。なんとても墨節を生き抜いて、踊り子になるんだから。その為なら、山にだって入るわよ」
「踊り子?」
「そうよ。まだまだ半人前だけど。凌州の博凌県に舞踊を教えてくれる施設があるの。才のある踊り手だけを集めた学舎。私ね、そこに入るのが夢なの」
踊り子を目指したのは確か五歳だった。遠くない夢だと信じていた。墨節が来るまでは……。
気持ちが沈みそうになって、慌てて頭をふる。
「当面の目標は、墨節が明けるまで生き抜くこと。夢を叶えるのはその後よ」
耿晨が眩しそうに目を細める。
「踊っているところを見てみたいな」
「後で見せてあげるわ。でも王様には早く登極して貰わなくっちゃ。せっかく生き抜いても、お婆ちゃんになってたら意味がないもの」
果実に齧りつきながら顔を見合わせて笑いあう。
一頻り笑った後、玉春は声を落とした。
「実際、切迫してるのよ。……胡馬では毎年誰かが餓えて死んでいくわ。去年は私の両親だった」
目を見開く耿晨に、玉春は苦く笑って返した。
「だからずっと祈ってた。早く王様が見つかってくれるように」
人々はその夢のような瞬間を、ただ祈り、待っている。
「四年も経つのに、どうして王は登祚しないのかしら」
と玉春は鼻息を荒くし、本当だな、と耿晨も沈痛な声を零す。
「赤の月の光を浴びていないのかしら」
「それは、考え難いな……」
この世界では王は血統ではなく、最も強い霊力を持つ者が選ばれる。
王が身罷ると天に赤い月が昇る。
その光を浴びると、次王の身体に天通紋と呼ばれる聖紋が現れるという。
聖紋を持った者が玉座を埋めて、初めて空に太陽が昇る。
新王の誕生である。
沈黙が続き、ふと耿晨の顔を見やる。
玉春のよりも、少しだけ高い位置にある端正な横顔は、心持ち顎を上に向け、遠い目をしていた。
「私は父を、乖王に殺された」
耿晨はやっと口を開いた。
「謀反の嫌疑をかけられ、その日の内に刑に処された。
弁明の機会も、捌きを受ける間すらなかった。
父の首は、白鄭の城門に晒された」
淡々と語る耿晨に、そうなんだ、と洩らす。
黄王朝末期は、そんな話は履いて捨てる程耳にした。
こんな辺鄙な予州でさえ多くの者が斬首された。
王の膝元、国都白鄭ともなれば、尚更だろう。
「王は民を殺す。だから私は、王は不要だと思っていた」
「でも、それは……」
「ああ。間違ってた。今の陶を見て短慮だったと考え直した」
「どんなに酷い王様でも、やっぱり必要よ。
そりゃ、欲を言えば賢王だったらいいな、とは思うけど」
「そういうことだな。悔しいけれど。それで、さっきの話に戻るんだが」
「どの話?」
「赤い月」
ああ、と頷き、先を促す。
「月に一度は赤の月が昇るのに、まだ聖紋が出てないなど考え難い。
――最近思うんだ。もしかしたら次王は、私のように王は不要だと思っている人間じゃないか、と」
「嫌よそんなの。だったら当分、墨節が続くじゃない。私本当にお婆ちゃんになっちゃう」
ぷうっと、頬を膨らませると、耿晨が綺麗な歯を見せて笑った。
「どちらにせよ、次王の心情を私たちが考えても仕方ないわ。民はただ、―――祈るだけよ」
確かにな、と苦笑した耿晨が、静かな声で尋ねた。
「食料だが、何とかなりそうなのか」
「厳しいけど、まあどうにかって感じかな」
そうか、と耿晨は穏やかに微笑み、腰に括り付けていた巾着を外した。中を見ると、蚕豆程の大きさの棗に似た実が沢山入っていた。
「芋のような味がする。とても栄養があるんだ。可能なら、食べずに畑に蒔くんだな。あとこれも」
耿晨は握りこぶし大の、緑がかった石を差し出した。
さっきの幼獣が落とした霊石だった。
「一緒に畑に埋めるといい。作物の成長を助けてくれるから」
「貰っていいの」
とんでもなく高級なものだ。
「ああ。その代わり、もう森に入ってはいけないよ」
「ありがとう。本当に」
良いんだ、と言った翠眸は、この上なく優しかった。
埃を落としながら、太い幹から身体を起こす。
「もう帰ったほうが良い。月が沈む」
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