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幽翠の章 一 湖の妖の背中には蓮の入墨がありました。

 王のいない陶国とうこくに昼はない。

 夜と黒夜こくやがあるだけだ。


 人々は月が空にある間に行動し、沈むと共に身を隠す。黒夜は妖獣の領域だからだ。

 太陽の恵みを失った土地はやせ衰え、人々は月光で育つ黒夜の植物を栽培することで、どうにか僅かな生を繋いでいた。


 陶国の最北に位置する予州よしゅう


 南北に走る番条ばんじょう群峰と乾昧かんまい群峰の二つの山脈に挟まれた、北東を海に覆われた自然の厳しい土地である。

 山間部の多い予州は、厳しい自然と妖獣の蹂躙する、陶国で最も天から見放された土地であった。


 玉春ぎょくしゅんは垢染みた粗末な上着の前を掻き合せながら、森の中を彷徨っていた。

 まるで緑の胃壁を持つ妖獣の体内に呑まれたような、視界を埋め尽くす黒々しい緑。

 そこ此処で様々な獣の鳴き声が、有機的な森に木霊する。


「一体ここは何処なの」


 夢中になって食料を探す内、気がつけば森の奥深くに迷い込んでしまっていた。

 鬱蒼と茂る樹々の隙間から天を仰ぐ。

 月も中天を過ぎ、傾き始めていた。


(早く帰らなきゃ)


 このまま月が沈み、黒夜になっても森を抜け出せなかったら……。

 自分の考えに背筋が震え上がった。


 妖獣は森に住む。

 今ですら、いつ出くわしてもおかしくないのだ。

 

 ぴしゃん。


 不安に固く目を瞑った玉春の耳に、遠くで水音が聞こえた。

(川があるのかしら。沢沿いに歩けばどこかに出れるかもしれない)


 僅かな期待を胸に、玉春は水音を求めて歩き出した。

 背の高い羊歯を掻き分けて進むと、急に森を円形にくり貫いたように、緑のない広場に出た。中央には水の煌きがあった。


 それは求めた川ではなく、湖だった。

 光水草ひかりみずくさが自生しているのだろう。月の光を受け、水中から淡い光が立ち上り、ひどく幻想的な雰囲気をかもし出していた。


 ぴしゃん。


 水の跳ねる音が響き、玉春は目を凝らした。

 湖の中央に水紋が同心円を描いていた。

 円の中心を認めて、玉春は思わず叫声を上げそうになり、口元を押さえた。


 水の中に、一人の人間がいた。


 生まれたままの姿。しなやかな裸体を月光に洗わせて、悠然と水と戯れている。

 遠くで顔ははっきりしないが、ささやかながらも胸の膨らみが確認できた。


 水中の女は月を仰いで、光を受け止めるかのように宙に両手を伸ばした。

 蒼光が女を包み込む。

 玉春は恐怖も忘れ、絵画のような光景に心を奪われた。


 美しい女だった。


 もし玉春が男だったら、その危うい美しさに引きずられ、女の元へと足を動かしただろう。

 だが本能が警報を鳴らす。


 森に()()がいるはずはないと。


 不意に雲が切れ、月が強さを増した。

 一条の月光が女を差した。白い肌が月光を弾く。

 その瞬間、玉春は目を見開いた。


 女の背に、淡紅の大輪の花が咲いていた。


 大きな三つの花冠に薄緑色のつるが曲線を描きながら絡まっている。

 真っ白な肌の上で、それは鮮やかに咲いていた。


いれずみ……?)


 身を乗り出した玉春の足が枯れ木を踏み、乾いた音を響かせた。

 水中の女が振り向く。


 玉春は慌てて踵を返した。


あやかしなんだわ)


 上位の妖獣は人間に化けるという。

 恐怖が踏み出す足元から這い上がってくる。

 枯れ枝が肌を傷付けるのも構わず、転げるように斜面を下る。


 無我夢中に駆けていた為、地中から木の根が顔を出しているのに気が付かなかった。


 根に足を獲られたと気付いたときには、景色が大きく回転していた。


 喚声を上げる間もなく倒れこむ。

 半身を強く地面に打ちつける。折角かき集めた食料が、全て籠から零れ落ち、地面に散乱した。

 急いで拾おうと身体を起こしたとき、


 ―――背後から低い呻きが聞こえた。


 反射的に振り向き、先程通ってきた闇の奥へと目を凝らす。


(何か、いる)


 荒い息遣い、小枝を踏む音に続いて、大きな獣が姿を現した。

 巨大な豹の身体に人面を持つ、醜悪な異形の姿。


馬腹ばふく……」


 恐怖より先に絶望が玉春を支配した。

 闇に完全に姿を現した妖獣は、狩を楽しむように緩慢に近づいてくる。

 大きな口からは鋭い牙。腐ったような匂いが鼻を突く。


 立ち上がらなければ、そう思っても目を反らすことができない。


 馬腹の身体が一瞬沈んだ。前肢が地面を踏み締める。

 飛び掛ってくる。そう思ったとき、


 ―――馬腹の身体が崩れ落ちた。


 闇を染める血飛沫の向こうに、刀を構えた碧髪へきはつの少年の姿があった。


 孔雀石のような青竹色の瞳が、森の暗闇を射抜き、玉春の心に突き刺さった。


 少年は細い腕を振り、刀の露を払った。

 刀柄に付けられた飾り布、飄彩ひょうさいの深紅が夜目に鮮やかに舞う。


 助かったのだ、と気付くのにしばらく時間がかかった。

 少年の刀から払い落ちる赤い雫を見て、彼が馬腹を斃したのだと、ようやく思い至る。


 こんな年若い少年が、たった一閃で斃したのか。

 それよりも何故森に人がいるのだろう。

 様々な思考が頭の中を無方向に駆け巡っているとき、頭上から穏やかな声が降ってきた。


「怪我はないか」


 高く澄んだ、少年の声だった。

 玉春は小刻みに頷く。


 少年は少し微笑むと「そうか」と刀を納めながら馬腹の背から飛び降りた。


「立てるか」


 差し出された手を躊躇いがちにとると、その手は意外な程ひんやりしていた。

 少年はもう一度笑むと、強い力で玉春の手を引いた。


 放心状態の玉春の前で、少年は散在している食物にさっと目を走らせた後、心底申し訳なさそうに促した。


「拾ってあげたいが、急いで此処を離れたほうがいい。他の妖獣が寄って来るかもしれない。歩けるか」


 玉春は少年の冷たい手に引かれて、森を歩き出した。

不思議な少年に出会いました。

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