衝動
夜空は綺麗だった。いくら都会の喧騒、光芒が邪魔をしたとしても、どれほど人が抵抗したとしても、宵闇は世界を覆っていく。暗さは、決して動きはしない。冷たい空気の満ちた深夜2時、僕は人を殺していた。一瞬だった。考える間もなく、体に従った結果がこれだ。深い意味があったわけではない、ただ自分が死にたくないと、それだけだった。
ビルの4階、僕のデスクがある、ありふれた部屋の窓から一人の男が墜ちて行った。幸い――と言っていいのかは微妙だが――その直下に人はいなかった。生々しい音が奇妙なまでに耳のすぐそばで聞こえたことを除けば、異常など何もなかった。何も。
下は冷たく硬いコンクリートの大地。恐らく死んでいるだろう。何秒、何分見ていたかは定かではないが、もう動くことはないはず。彼は死んだ。この世界から離れ、ただの血肉の塊と化した。徐々にそのことが現実味を帯びて、僕は乾いた笑いを微かに漏らしていた。もう、僕は苦しむことなく生きていける。僕を虐げていた暴君は電車に轢かれた小鳥のように砕け散ってしまった。
長らく感じたことのなかった開放感が心に染み渡る。喜び、と素直に表現するのはまだ難しかったが、僕は静かに笑い続けていた。自分がこれからどうなるかなど、微塵も考えてはいなかった。ただ、自らを蝕み続けた悪夢が消滅したという現実に、ただ笑っていた。願い続けた、恨み続けた結果が、静かに訪れていた。
僕は彼の墜ちて行った窓を閉め、空調の適度に効いた室内に身を埋めた。つい数時間前まで悪夢の牢獄であったその場所は、綺麗で快適な空間に様変わりしていた。たった一人の人間の死、70億の薄汚れた生命の、一つが消えただけで世界がこれほど綺麗になるとは思ってもいなかった。瞳に映る紙の一枚、灯りの一つが、美しく煌き、新たな世界の誕生を祝うように輝いている。
乾いた笑いは、いつの間にか穏やかな笑顔へと変わっていた。自分で自分の笑顔を感じ取れることを、何時から忘れていたのだろう。笑うこと、泣くこと、全て失くしていた。薄汚れた作り笑いを顔面に貼りつけることはできても、自分はいつだってそこにはいなかった。
自分が殺したことは、すぐに分かるだろう。自首をしてもいいが、別に罪に問われたくないわけではない。僕は後悔も、懺悔も、この先するつもりはない。どれほど彼が他者から慕われていても、信頼されていても、僕にはあの衝動を否定できないからだ。




