涙とぬいぐるみ
君は、よく泣いていた。誰にも知られないように声を押し殺して。もし叫ぶように泣いていたら、その体の傷がまた増えることを知っていたから。君は痛いのは嫌いだから。ただ涙を流しては、汚れた服の袖でそれを拭うだけ。その行為に果たして意味はあったんだろうか? 何にしろ、僕には時々その雫を受け止めることくらいしかできなかった。時に体の内側まで沁み込む温かみのある液体を、僕は数えきれないほど見ていた。
君は別に、僕に何を期待していたわけでもない。僕自身、自分が多少奇妙な存在であることは自覚していた。単なる綿と布の塊でなくなってしまったのは、いつから? 僕は答えを持たない。ただ気づけば、この少女の傍に僕はあった。時々壁に投げつけられ、床に叩きつけられ、また抱きしめられ。苦しさや痛さを僕は知らないから、ただされるがままでいた。それがあるべき姿と知っていた。
くしゃくしゃに伸び散らかした髪を時に掻き毟りながら、君は泣いていた。『どうして』も、『どうしたら』も、持たないままに。太陽に当たりたいと望むことも知らないで、君は泣いていた。湿った暗い部屋の片隅が、唯一ともいえる君の場所だった。それは多分、幸福ではない。僕に何が分かる、なんて言われたら、動く口も持たない僕は言い返せないけれど。
自分の手で首を絞めながら、君は泣いていた。誰より弱い君自身さえ殺せないほど、非力な指先で。それでも君が止めなかったのは、嗚咽を漏らす理由が欲しかったからか。いくら絞められても少しも苦しくない僕に爪を立てればいいものを、君は自分を窒息させようと必死だった。当然かもしれない。苦しみもしないモノなんて痛めつける意味もないのだから。
手首から血を流して、君は泣いていた。もう枯れかけていた涙を必死に流す為、カッターナイフの刃を無駄遣いしていた。誰かに殴られる痛みよりずっと、ずっと心地よく君を傷つけてくれるから。時たまぽきりと折っては、また伸ばす。紅く染まった金属の無機質さは、暗闇によく映えた。
君は、ある日を境に泣かなくなった。ただ座って息をしているだけ。それが良いのかどうか、涙を流す機能のない僕には分からない。渇いた瞳は何も映さないようで、全てを見つめていた。いつもいつも泣いてばかりだった君が、遂に僕を必要としなくなったのかと思うと寂しくて、僕は自分でも訳が分からないままに話していた。
『もう、泣かないの?』
当たり前だけど、僕には舌も無ければ動く口もなく、言葉を知っているはずもなかった。だけど確かに伝わったらしい僕の寂しさは君の瞳を揺らした。顔が歪み、瞼を見開き君は喉の奥から掠れた音を漏らした。残り短いカッターナイフの刃が、僕の胴体に突き立てられて中身を撒き散らす。もちろん、僕は痛くなどない。
刺し、抉り、音にならない悲鳴が、僕には分かった。切り裂かれた四肢が形を失っていくのが、君が昔の様に泣いているのが、その眼に僕しか映っていないことが、分かった。汚れた頬を伝った涙は傷ついた僕の体に少しずつ吸収される。感じていた僕の寂しさは埋められて、嘗て何度も傷つけられた少女の左手よりも何倍も酷く僕は痛めつけられた。彼女の口元は震えて、何かを言っているようで何も言っていない。僕よりも言葉を知らないかのように、ただ不規則に揺れるだけの唇は歪み続けていく。
それからしばらくして、よく泣いていたあの子はいなくなった。僕はカッターナイフと一緒に取り残されて、それより後のことは何も知らない。
時々僕は思う。また、僕の隣で泣いてくれる日はあるだろうかと。




