巨星、墜ちる
西南の嵐が吹き荒れる明治十年。
西郷隆盛は彼を慕う私学校の弟子たちとともに未だ戦い続け、彼の親友、大久保利通は軍を九州に送り激戦を繰り広げていた。これまでに類を見ない規模で起こった明治最大の内乱は終結の兆しを未だ見えず、誰もがこの戦争の行く末を見守っている。
それは、西郷と大久保と並びに維新の三傑と呼ばれた木戸孝允も同じであった。
かねてより、征韓論に敗れた後に鹿児島に帰った西郷やその私学校のあり方を批判していた木戸は、この西南戦争においても自ら西郷討伐の任に当たりたいと主張し、そして明治天皇や大久保と共に京都に赴いていた。この時の彼の表情は異様に冷たく、そして近づきようのないものがあった。
これ以前にも、彼はこのような反乱に対して敢然とした面持ちで対処したことがある。それが、彼のお膝元で起こった萩の乱だった。
自らの故郷で起こったこの反乱は、かつての同志であり元参議でもあった前原一誠が首領格であった。にもかかわらず、彼は一切の容赦を見せず、極刑の命令を下した。
この事件以外にも、彼は彼の判断で反乱分子と見られる人物を何人も処刑してきている。その中には前原と同じようにともに戦った同志も含まれていた。
「血が通ってない、なんて言いたげだね。でもこれも、新たな世を作る男の宿命さ。源頼朝も自らの作った新しい世を壊しかねない義経を殺しただろう? それと同じさ。この新しい世の中に仇なすのなら、私はどのような者でも容赦するつもりはないよ」
かつて彼の部下と語り合った時にこぼした言葉である。その表情の冷たさに、その部下は背筋を震わせたという。
それは、かつて幕末を生きてきた男に灯る、漆黒の意思と言ってもいいだろう。
そして、それは今回の戦いでも現れている。
「大久保さん、貴方がどれだけ西郷を殺したくないかはよくわかりますよ。でも、今ここであの男を殺さねば今以上の反乱が起きますよ。だから、私情に流されないでください」
かつて勅使を派遣して西郷を説得しようとした大久保にも、彼は容赦ない言葉を向けた。この二人が親友同士であるのをわかっていながらこの言葉を向けたのも、まさに漆黒の意思とでも言ってもいいものではないだろうか。
流石の大久保もそれ以上は説得という手札を切ることはなく、木戸とともに京都で西南戦争鎮圧の指揮を取っている。
木戸の意思は、止まることはない。このままその意思を貫き通し、西郷を討滅し、そしてこの先も新しい世の基盤を作り続けていく。誰もがそう思っていたし、木戸自身そうであると思ってきた。
だが、木戸は倒れた。
明治維新以降、度々自らの体を蝕んでいた病がここに来て木戸の命を奪おうと手を伸ばして来たのだ。
さながら、これまで木戸によって殺されてきた同志が、再び木戸によって殺されようとする西郷を守るかのように。
それでもなお、木戸は指揮をとり続けようとした。だが、次第に彼の体は衰弱していき、もはや余命も幾ばくという状況にすらなっていく。助かる見込みは誰がみても無きに等しいものであった。
「まさか、こんなところで止まることになろうとは、私も思わなんだな……」
病床の中で、木戸はそんなことを呟いてみせる。傍らには自らの部下数人、そして見舞いに来ていた大久保がいた。
今まで走りに走り抜けてきたこの男は、もはや歩くことすらままならない。その病の重さに明治天皇すらお見舞いに来てくださるほどであったが快方に向かう気配はなく、むしろこのまま死んでしまう方が自然である。
だが、そうなってさえも木戸はいまだに止まることを良しとしなかった。
「……大久保さん、戦況はどうなっている」
大久保の目を確かに見て、木戸は問う。その目は、このまま朽ちてしまう男には似合わないほどに、生の灯火が燃えていた。
そんなことは気にするな、今はゆっくり休んでくれ。
と、言うべき言葉を大久保は飲み込んだ。
この男の止まらなさは、誰よりも大久保自身が知っていた。それは時に協力して廃藩置県を押し通し、征韓論を棄却したこととして。そして台湾出兵に際して己が意見をぶつけあわせたこととして。
この男が誰よりも止まらないことを身を以て味わっていた。
そして、大久保もまた木戸と同じ意思を持つ人間として、労りの言葉を捨てたのだ。この世の先を守らんがために、親友を手にかけんとする己と同じ、漆黒の意思を持つ人間として。
そして大久保は木戸に語る。今の西南戦争を。西郷が今どうあるであろうと推測されるかを。
木戸が病床に臥している頃には、戦いは政府優勢へと傾いていた。西郷軍は各地で敗北を繰り返し、挙兵当初の勢いは減退し軍は次第に押し返されていた。
大久保は、病床の木戸でもわかるように丁寧に説明をした。そして、意識は病により朦朧としているはずの木戸も、時に質問を出したり、意見を上げたりもしている。
だが、やがて木戸の体力もつき、大久保の話を聞き終わると深い眠りについた。先程までの険しい顔はいまだに残ってはいるが、今一度穏やかな寝息を男は立てる。
しかし、着実に死は彼に迫ってきている。
大久保も、それは痛いほどに感じ取っていた。確かに先程の木戸は自らの話に意見を上げ、また反論することもあった。が、その言葉には以前のような覇気も、キレも失われつつあった。
維新の三傑と謳われた男も、病には勝てないらしい。
大久保は、もはや木戸が助かることはないだろうということを、ひしと感じる。自らと共に並び立ち、相対する男がいなくなるだろうこの先に、一抹の寂しさを感じ得ぬことはできなかった。
死は、着実に木戸に歩み寄る。
木戸は尚も大久保から戦いの戦況を聞いては何かと意見を出していたが、次第にそれすらできなくなっていた。
意識が朦朧とする時間が多くなり、これが死ぬということか、と実感することも多くなった。
何より死を実感するのは、夢枕にかつて自らが極刑を下した者共が並び立つ時だ。決まって彼らは、血眼を木戸に向け、構えた刃には怨みが込められている。そして、彼らが木戸の命を奪わんとする時、はっ、と目が醒めるのだ。
このまま殺されていれば夢枕の自分だけでなく、この世の自分も死んでいたのでは、などと思うたびに木戸は一笑を持って忘れ去る。
「奴らは、私を手にかけたところで何も変わらんということを知らんのさ」
などと言ってみせるが、もはやその余裕も風前の灯であった。
そして、その日は容赦なくやってきた。
大久保が木戸のいる邸にたどり着いた頃には、もはや木戸の命は尽きようとしていた。その目に映るのは、木が朽ちるようにある木戸の姿。
「おれのさいごを、みまって……きたか」
力無く笑う木戸に対して、大久保は心が貫かれる思いを感じる。もはや、同じ病床にあっても戦況を求めてきた木戸ではなくなっていた。
そして容赦なく浮かぶこの先を振り切って、大久保は木戸の傍に駆け寄った。しかしながら、その表情はえらく痛切に満ちたものであった。
「……どうした、おおくぼさん。おまえらしくも、ない……。それよりも……いくさは、さいごうは……どうなっている」
はっ、として大久保は木戸を見る。
確かにこの男は風前の灯火である。しかし、その灯火は未だに爛と輝いている。
冷たく、燃ゆるのだ。あの、漆黒の意思が。
「……もうじきわたしは、しぬ……それはわかって……いる。それでも、わたしは……しねない。まだ、さいごうが、のこっている……。あいつをどうにかしなければ、いくに……いけんのだ」
にわかに木戸の手が大久保の拳を握り締める。病床の人間とは思えないほどの力は、大久保の拳をほんのりと血で滲ませる。
「戦は優勢だ。このままいけば、我々の勝利だ……だから、もう木戸さぁは、もう……」
これまで飲み込み続けてきた労りが、口の中まで込み上げる。もはや、ここで吐き出さねばしかたなかった。
が、
「それいじょうは、いわないで……くれ」
木戸の、握り締める力が一層強くなる。先ほどの穏やかさはとうに消え、代わりに浮かび上がる冷徹なまでの表情に、大久保も口を紡がざるを得なかった。
「……おれは、このくにのさきを……まもらん、がために……どうしを、多く……殺し、たた。……西郷も、同様……だ」
何かに取り憑かれたように、木戸の声に熱が帯びる。生気が帯びる。
あたりは水を打ったようにしんと静まりかえる。しかし、その空気は木戸の熱にあてられて、揺れていた。
「……俺が……やらねば、ならぬのだ……。この国の行く先が、良きものであるために……俺は……まだ……死ねん」
木戸の気に圧倒され、周りは口を紡がざるを得なかった。
だが、同じ傑物のこの男だけは、違った。
「おんしは、背負いすぎです」
それは、木戸にその手を握られている大久保、その人であった。
「おんしは、一人で背負っているわけではない。確かに、おんしと私は、よく対立もした。しかし、それは同じこの先をよくせんがため、そうでしょう? おいどんや伊藤さぁ、他にも多くの貴方を慕う人がいるのです。貴方一人で、この世を背負っているわけではないんです。だから……もう、あとはおいどんに、まかせてつかあさい」
そして、自らの手を握っている木戸の手を強く握り返した。
強く、強く、握り返した。
その時、木戸はようやくその険しい表情を解いた。代わりに浮かぶのは、ひどく安らかな笑みだった。
「俺は、一人で背負いすぎた、か……。しかし、それは貴方にも、言えませんかね……」
「ふっ、それを言われたら痛いところでもあります……」
「だが、それはきっと、西郷も……同じなのだろうな」
西郷もまた、たった一人皆を背負って西南の嵐の中で戦っている。この男も、大久保や木戸と同じく、一人で背負いがちな男だ。
昔からの付き合いがある大久保はなおのこと、木戸もその性質は早くから、見抜いていた。
しかし、人のことは言えまい。大久保も木戸も、結局は自分でなんとかしようと一人で背負いがちな男だった。そして、その意思が多くの同志を殺した。
全ては、この先を良くせんがために。
「もう、自分でというのは、しまいかな……」
「この先は、皆で足並みを揃え、意見をぶつけ合いながらも、その中で糸口を探すのが大事でしょうな。あの、征韓論の時みたいに、決められたものを後から、覆すのではなく、な」
「ああ……そうだな……。そのとおりさ。ふふ、自分もいうのは……なんだが……西郷も、いい加減に、せんか……な」
そして、握り締めていた手は、力なく落ちた。
それは、目の前の遠い所へと男が逝ってしまったことを示していた。
大久保は、その手をもう一度握り返す。もはやこの世にいない男を偲ぶがために。
維新の三傑が一人、木戸孝允の命はここに尽きた。
その欠けることのない意思は、最後まで己が道を突き進んでいた。
この後、西南戦争は政府軍の勝利で幕を閉じる。西郷は城山で自害を遂げた。これが士族による最後かつ最大の反乱であった。
そして、大久保もまた木戸の死後一年後、明治十一年五月十四日に暗殺された。しかしながら、暗殺されるその日まで、木戸同様自らの道を突き進んだ男であった。
ここに三つの巨星が墜ちていった。維新の三傑と呼ばれた、巨星達が。