2.旅立つ転生者
旅立ちの馬車が出発する。
御者は中年の男性で、原住民だった。鞭を振る音と、馬の小さな嘶きが重なり、ゆっくりと馬車が動き出した。ほどなくして、木製の座席から伝わってくる振動が大きくなった。舗装されたレザイアの道が終わり、街道に差し掛かったのだ。
しばらく、誰も何も言わなかった。馬車が揺れ、木製の部品が軋む音、車輪が小石をはじく音、馬の息遣い――奇妙な規則性をもつそれらが、旅のBGMだった。
六人乗りの馬車に、俺と、同期の明石瞬、打越美百合が並んで座り、対面する座席に迎えの転生者が座っている。同期の二人とも面識はあるが、ほとんど話したことはない。武装適正が違うと訓練課程も異なるためだが、単純に言って、俺のコミュニケーション能力に問題があったのかもしれない。
さらに俺を含め、新人の表情は一様に暗かった。
卒業しても僻地へ配属される。苦労の先にまた苦労が待っている――そんな暗澹たる気持ちが、三人の呼吸に時おり混じるため息に表れているようだった。
「ちょっと。三人とも暗いよー? 自己紹介して、おしゃべりしましょ!」
突然静寂を破ったのは、正面の座席に座った女性だった。彼女は南部では一番大きい支部である、ベル支部から新人を迎えにやってきた先輩捜査員だ。
自己紹介か。
言われてみれば、わざわざ迎えに来てくれた先輩の名前も知らなかった。馬車の発着所は、二百人近い新人と迎えの職員、それに見送りの人々でひしめき合っており、目的地に向かう馬車を探すだけで一苦労だったのだ。先輩が命令書を確認し、人数が揃った時点で押し込まれるように乗車し、すぐに馬車は走り出した。
俺たちは、お互いに顔を見合わせた。誰が最初に名乗るか――そんな空気が流れると、先輩捜査員は、やれやれ、と肩を竦めて話し出した。
「わたしは安西沙雪。好きな料理はパスタ。血液型は前世はB型だったけど、今はわかんない。いちおう、一等捜査員やってます! よろしくね!」
口火を切った女性――安西さんが名乗り、なぜか俺に向かって右手を差し出した。雨は上がっても、空には厚い雲が居座っていて、車内の気温も吐く息が白くなるほど低いというのに、わざわざグローブを外していた。白くて、小さな手だった。
俺は、差し出されたそれをどうしたものか。ただの握手だとはわかっていても。女性の手を握るなんて、想像するだけでドギマギしてしまう。しかも、相手が美人ならなおさらだ。
転生者は概ね整った外見をしているが、安西さんは群を抜いてカワイイ。明るい赤毛を頭頂部で結い、ポニーテールにしているところもストライクである。この世界では化粧品は高価で、一部の特権階級の人間しか手にすることはできない。先輩とはいえ一捜査員でしかない安西さんも当然ノーメイクだったが、この人にはそんなものは必要ないと思えた。女性らしい丸みを帯びた顔に、ほっそりとした形のよい眉、意志の強さが現れているような大きくて丸い目の中心で、茶色の瞳がバランスよく配置されていて、頬はうっすらとチークが入っているように桃色だった。歳は二十歳くらいだろうか。大学でチアリーディングをやっていそうな、快活な印象を与える女性だった。
彼女の視線は、魔法学校の教師がよくやる、こちらを値踏みするようなものではなく、ピンと伸びた彼女の背筋の様に、まっすぐなものだった。
当然、女性に免疫がない俺は、そこからスッと目を逸らしてしまった。ただ、前世と合わせて三十年以上生きているのだ。このまま黙ってしまうほど、子供じゃない。
「あ、あの。えと、名黒です。名黒義明です」
精いっぱい普通に話そうとしたのだが、ばっちりどもってしまった。情けないヤツと思われただろうか。チラ、と安西さんの顔を見ると、相変わらず眩しい笑顔を浮かべて口を開いた。
「オッケー。君は“グロ”ね!」
「グ、グロ?」
「名黒のグロでしょ。よろしくね!」
膝の上からわずかに離れた右手を取られ、強引に握手を交わす。ヒヤリとした感触と、自分の手が予想以上に汗ばんでいたことで頬が熱くなるのを感じた。
「わたしってさ、ニックネームじゃないと人の名前覚えられないのよね。しかも、オリジナルじゃないと、ダメなの。もうほんと、全然」
呆気に取られている俺に、安西さんがはにかんだような笑顔で言い訳をする。それだけでもKO寸前だったところへ続いて、「だからさ、君はグロ。わたしのことも、“サユ”って呼んでね?」とウィンクの追加攻撃を受け、俺は自分でもわかるほど緩んだ顔で頷いてしまっていた。
あとの新人二人はそれぞれ、明石瞬が“しゅんぺー”、打越美百合が“みゆりん”と命名された。グロなどというあだ名に対してではなく、なぜか俺だけがファーストネームをいじってもらえないことに若干の不満を覚え、そんな自分が少し嫌いになった。
「さて、と。ごめんだけど、堅苦しい話から済ませちゃおうか」
自己紹介と命名式が終わると、安西……サユさんが「いちおう、仕事しに来たんだからね」と前置き、バッグから紙束を取り出した。
「まず、君たちの新しいホームタウンになる、ベル周辺の土地について話しておくね」
サユさんは書類の中から地図を取り出し、俺たちが向かう南部開拓地域の状況を次のように説明してくれた。
転生者王国イスキリスは、東西よりも南北に長い、長靴をひっくり返したような形の大陸に築かれた。現状では海を渡るほどの艦船を建造する技術がないため、この星に他の大陸が存在するのかは不明である。
イスキリス南部開拓地域とは、大陸の下三分の一を占める森林地帯を指し、王都や魔法都市からは遠く離れている。その距離たるや、馬の足でも一か月かかるのだ。その森林地帯の二割を耕地に変える計画がスタートしたのはおよそ五十年前で、現在までに開拓村が十ほど誕生したそうだ。開拓全体の人口は延べ三万人を超えるに至ったが、計画全体としては一割程度しか進行していないということからも、いかにイスキリス大陸が巨大な面積を誇るかがよくわかる。そして、そんな広大な森林地帯を有する大陸の地図を作製したこと自体が大変な偉業に他ならないが、まあ、それはまた別の話だ。
ベルの町は、開拓民が最初に定住した町で、森林地帯の入り口に築かれた。人と物資の流れの中継地点として発展し、現在では人口約一万二千人を擁する、イスキリスでは十本の指に入る大きな町になった。
ベルのギルドには二百人弱の転生者が常駐している。彼らの主な役割は開拓の手伝いと原住民の保護だ。未開の森にはさまざまな魔物が棲み付いており、昼夜を問わず何がしかの事件が発生する。転生者たちは三交代制で勤務してこれに対処しているが、魔物の被害はいっこうに治まる気配を見せない。なぜって、森を切り開くこと自体が、まさに藪蛇だからだ。
その発生機序も含めて、転生者が魔物に関して知っていることは意外なほど少ない。わかっていることといえば、彼らは総じて人間に対して友好的でない、というか常にこちらの命を狙っているということくらいだ。捕食が目的ならまだしも、人間と見るや襲い掛かってくるのだから始末が悪い。
しかも、彼らは生殖によってではなく、キノコや雑草のように発生し、その数に上限はない、というのが学者の間では定説となっているそうだ。つまり、俺たちがいくら奮闘して魔物を倒しても、やつらはいなくならないということだ。
俺たちの任務は、そんなベル周辺の平和と秩序を維持すること。そう結んで、サユさんは「質問、あるかな?」と言った。
「終わりが見えないというところが、もう、終わってる」
俺の隣でしゅんぺーこと明石がボソリと言い、がっくりと項垂れた。明石は黒髪を長く伸ばしていて、前髪で目が隠れてしまっている。こいつが下を向くと、井戸から這い上がってきたユーレイのようで不気味だ。
「そんなことないよ。毎日楽しいよ?」
サユさんは苦笑しながら言う。
「原住民……ていう言い方は好きじゃないけど、村のひとたちだって、頼りにしてくれるし。やりがいは間違いなくあるよ。うん」
「地球人でもない連中を守るために、死ぬまで戦わされるんですよ。なにが楽しいんですか」
顔を上げて、明石が語気を強めた。ずっと不満を抱えていたのだろう。魔法学校の教官たちは怖くて逆らえなかったから、優しそうなサユさんに当たっているのかもしれない。
「毎日毎日血に塗れて戦って。そんなことがしたくて、転生したわけじゃない!」
明石は、最後は叫ぶように、内心を吐露した。
気持ちはよくわかる。だから、サユさんの笑顔が消えていても、間に入ることができなかった。
車内には、出発当初とは違った。気まずい沈黙が訪れた。