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九章 悪夢へのダイブ




「―――お客様、そろそろお時間ですよ」

「あ……はい……」


 肩を優しく揺さ振られ、あったかいまどろみの中から浮上する。柔らかなローズのアロマの香りが鼻腔をくすぐった。

 重い瞼を開け、ベッドにうつ伏せの状態から起き上がった。立ち上がり、髪と服の乱れを軽く整える。

「お疲れ様でした。お連れ様は受付でお待ちですよ」

 お母さんが生きていれば、きっとこの人ぐらいの年齢だろう。彼女の掌はまるで魔術みたいに全身の凝りを解し、病室生活で溜まっていた疲れを残らず流してくれた。

「はい。今日はありがとうございました。こう言う所アタシ初めてで、凄く身体が軽いです」

「そう言って頂けると私も嬉しいです。また何時でも御来店下さい」

 詩野さんは受付のソファに座ってファッション雑誌を捲っていたが、気配を感じて顔を上げる。

「お待たせ。あ、お会計は?」

「大丈夫です。もう私の方で払っておきましたから」

 雑誌をラックに戻し、お世話になりました、受付嬢に頭を下げる。勿論アタシも続いて。そのまま二人で店を出る。

「ありがとうね詩野さん。わざわざ予約してくれたんでしょ?」

 アロマリフレクソロジーと全身マッサージをたっぷり受け、彼女も身体中の張りが取れたようだ。入店前より足取りが軽い。

「アイザさんに喜んでもらえて良かったです。政府館で噂になっていたので、以前から一度試してみたいと思っていて。ふふ、今度は是非エル様を連れて来ないと」

 屈託無く笑う秘書は、ズボンのベルトに差した銀色の銃さえ無ければ極普通の一般人。

「ねえ詩野さん。いつも持っているのそれ?」指差して尋ねる。「この街は政府館も警察署もあるし、武器なんて持たなくても」

「いいえ」

 彼女は真剣な眼差しを真っ直ぐ前方へ向ける。黒い瞳に映る戦いの意志に、思わずたじろいでしまった。

「先の聖王、シスターはまだあの方の魂を狙っている筈です。私の時のように、どんな恐ろしい奇手で接近してくるか分からない相手。用心に越した事はありません。それに」

 不安を消そうと銃のホルダーに触れる。

「姉さん達やエル様、皆さんを傷付けた彼女へ、私も私なりの返礼をしたいのです」

「い、意外と気が強いんだね、詩野さん……アタシと違って普通の人間なのに」

「強くなどありません。ただの、愛する家族を守りたい一人の女です」

 もし“泥崩”を解除出来ていなかったら、決してこんな言葉は聞けなかっただろう。この人を助けられて本当に良かった。

 政府館へ戻る前に、秘書お薦めのカフェで紅茶を飲む事になった。コーヒー党のエル様には内緒ですよ、と釘を刺されて苦笑。熱愛真っ最中の今のあいつなら、多分アールグレイにだって嫉妬してしまうだろう。

 カフェは赤い煉瓦のこじんまりとした可愛らしい造り。木製の窓枠は全てハートマークだ。入口前に出された黒板には、本日のランチとカフェメニューがポップな丸文字で書かれていた。

「結構ファンシーな店だね」

「内装も素敵ですよ。お勧めは焼き立てスコーンのセットですね」

 入口の階段を一段上がり、ステンドグラスの嵌ったドアに手を掛ける。

「テイクアウトも出来ますから、後で『お父様』へ持って行ってはどうですか?」

「……うん。そうだね」

 きっとあの人、鑑定に夢中でまだお昼食べていないだろう。出張の時はいつもそうだもの。アタシがちゃんと体調管理してあげなきゃ。

 彼女がこちらに振り返って手招きする。


「さ、入って下さ―――?」

「?」


 言葉を途切れさせた彼女の目線を追う。

 どう見ても野郎とは思えない黒髪黒服の青年が、銀髪の知人に連れられて通りを横切り歩いて行く。

「誠だ。シャーゼと何処行く気だろう?」

 政府館での落ち込みは少し晴れたらしく、奴相手に語る誠の表情に悲壮の色は無い。うちの葬式こそ出席しなかったけど、アタシ達よりずっと責任感じやすい子だから……。ん?そう言えばウィルとオリオールは?あいつ等、誠を放って何処行ったの?

 カツン。詩野さんは階段に乗せた脚を素早く降ろす。

「フィクスさんの様子が変です。アイザさん、付いて来て下さい」

「あ、うん」

 二人は林を横切り、どんどん人気の無い方へ進んで行く。一体何処へ向かっているの?

「確かにおかしいね。シャーゼがあんな普通に笑うなんて」

「おかしいを通り越して不気味です」バッサリ。「公安課で般若や夜叉と陰口されているフィクスさんが、選りにも選って誠さん相手にあの表情。有り得ません」

「まぁ、確かに」

 眉間に皺寄せてない方が珍しいし、口を開けば舌打ちと皮肉と強がりばっか。しかも一番の被害者が誠ってのがまた憎たらしい。子供じゃあるまいし、何で選りに選ってあんな純真無垢な子を虐めるんだろ?

「あの人間サーチライトのフィクスさんが」

「そんな沢山渾名あるのあいつ?」

「いえ、これは私が考えました。お父様が昼行灯だったそうなので」

「へ、へえ……」

 まるで正反対。あいつの母親や姉さんとも会った事あるけど、二人共普通だったのに。


「あ、止まりましたよ」


 尾行は唐突に終わった。郊外の森、開けた所にポツンと聳える古い時計塔。もう使われていないらしく、頂上には錆びかけた金メッキの鐘が二つ、風に揺れずに鈍く日光を反射していた。

 自分に語り掛けられるのを、誠は時折頷きながら聞いている。秘書と違い、観察眼に乏しいアタシにはギリギリ日常の風景に見えるが……いや、やっぱり変。あんなにこやかな面、不気味で仕方ない。

「まさか、ここへ入るつもりなのでしょうか……?もしそうならますます妙です」

「二人きりで話するには辺鄙な場所だね。―――まさかあいつ、父親の仇の代わりに誠を亡き者にするつもりじゃ!?」

 仮説に、いえ、誠さんが死んだと思われていた時、フィクスさんは本当に悲しんでいました。手に掛けるとはとても思えません、そうきっぱり否定した。

 にしてもどうしてウィル達は一緒じゃないの?迷子?はぐれるなんて二人共、保護者失格だよ。

「ですが、温和な話と言うのも考えにくいですね」

「どう言う意味?」

「来月取り壊されるんです、この時計塔。中も老朽化が進んでいて、長い間立入禁止に―――あ、入って行きますよ!」

 その瞬間、アタシ達は樹の陰から急いで出た。


「詩野さん!突入するよ!」「はいっ!」


 治まりかけた腕に再びアルカツォネの力を漲らせ、昼間にも関わらず日の一切差していない暗闇へ一斉に飛び込んだ。




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