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事件

「先生、昨晩はイケメン先輩と何か進展ありましたか?」

 すごくうきうきした声で舞ちゃんが聞いてきた。

「え?特に何もなかったよ」

「まさか、次の約束も取り付けてないんですか?」

「あ、また、食事に行こうねって言われたよ。なんか、こっち来たばっかりで友達いないんだってさ」

「キャー、ちゃっかりしてるじゃないですか!!」

 舞ちゃんが嬉しそうに言っているとナースコールが鳴り、舞ちゃんはそれに応対しに行った。


 ふう、やっと静かになった。

 私はさっき回診して回った患者さんのカルテ記載を始めていた。

 誰かが走ってきたようだ。

 舞ちゃんの足音にしては何か違うような……。

 そして、足元に何かがいる気がして見てみると、そこにワン吉がいた。


「笹岡君?」

 ワン吉は、私の目を見つめた。

「今、ものすごい『声』が聞こえているんです」

 そのまなざしに応えるように見つめ返して私は尋ねた。

「どんな?」

「『ママ!死なないで!』って、さっきからずっと、NICUにまで聞こえるくらいの『声』が聞こえるんです」

 それが本当なら、今、一人の妊婦の命が危ない!

 私は立ち上がった。

「『声』は、どこから?」

「近づけば、大きくなるので、わかると思います」

「案内して……早く!」

 ワン吉にナビしてもらいながら考えた。

 今、命の危機に瀕するような重症の母親はいないはず。

 河合さんだけ、不在だったから回診できてないけど、あとの妊婦さんはすこぶる順調だったし、河合さんも天然なだけだし。

 いったい、何がどうして、お腹の中の赤ちゃんはそんなに訴えているんだろう?


 そして、案内された先はシャワールームだった。

 まさか、ワン吉覗きが趣味なの?

 一瞬の疑惑は、ワン吉の真剣なまなざしにかき消された。


 ドアの隣のネームプレートには河合さんの名前が書かれていた。

 あれ?河合さんの担当の看護師って、舞ちゃんじゃなかったっけ?

 さっきしゃべってたような……。

 そして、河合さんのシャワーの時間はもう少し後って言ってたような。

 一人で入ってるってこと?

 あの人天然だから、一人で入ってこけちゃったとか?

 その名前を見て、いろんな考えが脳内を駆け巡る中、私はドアをノックした。

「河合さん!いるの?返事して!」

 ヤバイ、頭打って意識を失ってるかもしれない。

「河合さん、開けますよ!」

 中に入った私の視界に、血の海が飛び込んできた。

 とりあえず、応援を呼ばなければ。

 緊急呼び出しブザーを押しながら、河合さんの頭部を確認したが、頭部にぶつけたような跡はなかった。

 そして出血は、頭からではなく、手首からだった。

 手首の出血を止めながら、他に怪我がないか確かめていて、私は絶句した。

 河合さんの肩には見覚えのある傷があった。

 あの時のレイプ被害者と同じ傷だった。

 あの人も、河合さんといった。


 何故私は、気付かなかったんだろう?

 でも、とりあえずは、お母さんと赤ちゃんの命を守ることが先だ。


 河合さんはICUに搬送された。

 病棟にはリスクマネージャーやら事務局長やら医局長やら病院長やらいろんな人がやってきては皆に尋問していった。


 どうやら、河合さんは、一番最後の時間にシャワールームを予約していて、舞ちゃんは、その時付き添うので、車椅子で迎えに来るまで一人で入らないように伝えていたそうだ。

 だが、河合さんは、それを待たずに病室から出て、ちょうど前の人が終わった時に、次は自分だからと鍵を受け取り、入って行ったそうだ。

 直前の患者さんは、シャワーを一人で浴びても大丈夫だったため、河合さんも同じ待遇なのだと思って、鍵を渡してしまった。

 そして、シャワールームで一人きりになった河合さんは、手首を切って倒れ込んだ。


 私が突入したあの時点で、河合さんはかなりの出血をしていた。

 もし、ワン吉が伝えに来てくれなかったらと思うと、ぞっとする。


 一通りの尋問が終わり、私たちはようやく解放された。

「ちょっと、河合さんの様子見てくるよ」

 皆にそう伝えて私は病棟を出た。

 すると、目の前にワン吉がいた。


「あれ?笹岡君!」

「先生、今日のあの人って?」

「ICUに行ったよ。今から様子を見に行こうと思って」

「俺も、一緒に行かせてください」


 ICUに近づくにつれて、女性の叫んでいるような声が聞こえてきた。

「何で死なせてくれないの?何で死なせてくれなかったの?」

 それは、いつも笑顔で明るく振る舞っていた河合さんの言葉だとは思えなかった。

 彼女の言葉だと、思いたくなかった。

「生きてたくないの!死にたいの!死にたいの!ねえ、死なせてよ!私は生きても意味がないの!私は、汚れてるの!」

 崩壊寸前のギリギリのところで何とか均衡を保っていた心は、壊れてしまったんだと感じた。


 彼女の命は助かったのに、彼女の心は壊れてしまった。

 その心の傷に気付けなかった私に、何ができるのだろう?

 私は、ふと、助けを求めるように笹岡君を振り返った。

 私より、少し後ろで立ち止まっていた笹岡君もまた、悲痛な面持ちで私のほうを見ていた。

 私と目が合うと、笹岡君はこちらに歩み寄ってきた。


「笹岡君、何か、『聞こえて』いるの?」

 私が聞くと、ワン吉はうなずいた。


「お腹の子も『叫んで』ます」

 そうか、ワン吉には今、お母さんの叫び声だけでなく、お腹の中の赤ちゃんの叫び『声』まで聞こえているんだ。

 それは、どれほどつらいことだろうか?

 それは、どれほど苦しいことだろうか?


「『ママ、僕は生きたいよ!』」

 「死にたい」と叫ぶ母親のお腹の中で、赤ちゃんは『生きたい』と叫んでいた。

「『ママにも、生きてほしいよ!』」

 「死にたい」と叫ぶ母親のお腹の中で、赤ちゃんは、『生きてほしい』と叫んでいた。

「『ねえ、ママ、聞いて、ママ!』」

 赤ちゃんの叫び『声』は、お母さんにはまるで届いていないようで、彼女の叫び声は今も廊下に響き渡っていた。

「『僕は、ママと生きたいんだ!』」

 お腹の中に宿る赤ちゃんの、ただ一つの願い。

「『ママとじゃなきゃイヤなんだ!』」

 ただ一人、一緒に生きたい相手にその『言葉』は届かない。

「『ねえ、ママ!お願い、聞いて!』」

 それならば……。

「『ねえ、ママ、ママ……!』」

 私は駆け出した。


 私は脇目も振らずに妊婦の元へと駆け寄った。

「いい加減にしなさい!」

 そして、彼女の頬を思いっきりはたいた。


 一瞬にして、辺りが静まり返った。


 でも、それくらいのことで動じる私ではなかった。

 それに、湧き上がった感情がそれくらいの事では抑えられなかった。

 私は、頬を押さえながら呆然としている妊婦の胸ぐらをつかんで、その目を見つめた。


「あなたは、自分のことしか考えてない!」

 怒りとか、悲しみとか、色々な感情が入り混じって、私の手は少し震えていた。

「確かに、あなたの体験は、死にたいともう程につらいものだったと思うわ」

 もちろん、その犯罪は、許されるべきものではない。

「でも、今、あなたが命を絶つことで、あなたは一つの命を殺すことになるのよ!」

 彼女は、はっと気づいたようにお腹に手を当てた。


 私は妊婦の胸ぐらから手を放し、彼女の肩を掴んだ。

「お腹の子は、あなたを選んだのよ!他の誰でもない、あなたを選んだのよ!あなたと一緒に、生きたいと願っているのよ!」

 流れる涙をそのままに、私は妊婦に叫ぶように言った。

「あなたは、お腹の子供の願いを、無視するの?」

 私の脳裏に、さっき笹岡君が教えてくれた『声』が蘇っていた。


『僕は、ママと生きたいんだ!ママとじゃなきゃイヤなんだ!』


 それを知った私には、それを伝える義務がある。

 私は、彼女のお腹にそっと手を当てた。

「お願いだから、生きて」

 お願いだから、気付いて。

「生きてください、お腹の子と一緒に」

 お願いだから、わかって。

 あなたと一緒に生きたいと願う命がいるということ。


 私の言葉に反応するようにお腹の中の赤ちゃんが動いたのを感じた。

 その瞬間、妊婦の目から涙が溢れだした。


「ごめんね……」

 涙を流しながら妊婦はお腹をさすり始めた。

「ごめんね、自分のことしか考えていなくて」

 赤ちゃんがお腹を軽く蹴ったような感じがした。


 お母さんがお腹をふれているのを確かめているような優しいその感触に、赤ちゃんの想いがこもっているような気がした。


『ママ、一緒に頑張ろう』

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