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翠先生の決意

 窓から光が差し込んでくる。

 そうか、朝か……。

 何だかあまり、眠れなかった気がする。

 昨日だって、ちょこっとしか寝てないのに……。

 今日の寝不足の原因は、わかっている。


 それは、昨日の朝のことだった。


「翠先生、好きです」


 それは、唐突過ぎる、ワン吉からの告白。


 頭が真っ白になった。

 嬉しかったとかそういうわけではなく、ただ、混乱した。

 だって一度も、ワン吉を恋愛対象としてなんて見たことなかったから。

 ワン吉は、私にとって、赤ちゃんの『声』を通訳してくれる存在。

 ただ、それだけだったのだから。


「次の人、どうぞ」

 そう言いながらデジカメを患者さんの目の留まりそうなところに置いた。

 あれだけ近くに歩み寄れたんだもの。もしかしたら今日は、写真でもいいから見たくなるかもしれない、という、仄かな期待とともに。

 本当は今日の荘ちゃんの体調とかを聞きたかったけれども、私はNICUに近寄ることすらできなかった。


 ワン吉に、どう接していいかわからないままだったから。


 静香さんの瞳は、一瞬デジカメをとらえた。

 しかし、それからはずっと、私の目も、カメラも極力見ないようにしているようだった。

 それが、すごく寂しかった。


 診察を終えて、静香さんが部屋を出た。

 今日こそは、NICUに行くだろうか?

 それとも、もう、行ったのだろうか?

 聞きたいけれど、聞けない。


 でも、へこんでいる場合じゃない。

 今日はもう一人、いるんだった。


「次の人、どうぞ」

 私が言うなり扉が開き、妊婦の旦那さんが入ってきた。

「あの、川嶋さん」

「はい?」

「奥さんの診察をさせてもらってもいいですか?」

「あ、そ、そうですよね、あの、僕の都合で曜日変更させてもらったから、お礼を言いたくて……」

 川嶋さんの旦那さんは、とてもやる気のある人だ。

 それを微笑ましく見つめながらも、なぜか心がきりきり痛むのは、私が、彼の、彼らの秘密を知っているからかもしれない。


今目の前にいる旦那さんには、生殖能がない。


 そして、奥さんのお腹の中にいる子供の父親は、今、目の前にいる男性ではない。

 顔も、名前も知らない、精子バンクの精子提供者なのだ。

 川嶋さん夫妻は、悩んで悩んで悩みぬいて、それを決断した。

 それでもやはり、子供が欲しかったのだ。


 長い不妊治療の末、奥さんの妊娠が分かった時、旦那さんは、涙を流して喜んだ。

 その涙が、奥さんが苦しみから解放された喜びのためだけでなく、子供ができた喜びのためであってほしいと願ってしまうのは、私のエゴだろうか?


 彼の優しさが、彼の愛情が、本当に子供を愛しているからだと思いたいのは、私のエゴだろうか?


 そう思ってしまう自分に嫌気がさした。

 でも、私のエゴであっても、私は願わずにはいられない。

 彼らの幸せな未来を。


「ありがとうございました」

 元気にそう言って、川嶋さん夫妻は診察室を出て行った。


 誰もいなくなった診察室で、思わずため息を吐いた。

 私には、赤ちゃんが元気に育っているかどうかは測れても、彼らの幸せは量れない。

 ましてや未来の幸せなんて、もっとわからない。


 ただ、私にできることは、彼らの幸せを願いながら、秘密を守るということだけだった。


 診察を終えた私はデジカメを片手に病棟へと向かっていた。

 デジカメを見ると、全くデジカメを見ようともしなかった静香さんの姿が思い起こされた。

 何だかすごく重たい気持ちになりながら、廊下を歩いていた。

 ふと顔を上げると、こちらに向かって歩いてくるワン吉が視界に入った。


 ……ヤバい。

 逃げよう!


「翠先生!」

 こら待てワン吉、何故追いかけてくるんだ!

 廊下を走るな!

 って、それは私もか……。

 でも、ワン吉君、オペ百戦錬磨、長時間立っていたって全然へっちゃらな私の体力をなめてはいけないよ。


 走り始めて少し時間が経過した。

 ワン吉君は懲りずに追いかけてきている。


 この頃私は、重大なミステイクに気付き始めていた。

 オペ中は立ちっぱなしだけど、走ることはほとんどない。

 何だか息が切れてきた。


 よくよく考えてみたら、睡眠不足も、荘ちゃんの様子を聞けなかったのも、こんなところで体力を消耗しているのも、早くも息切れして歳をとったことを実感させられているのも、全部、ワン吉のせいじゃない!


 だんだん、ワン吉の足音が近づき、とうとう私は捕まってしまった。


 告白の返事なんて、できないよ。


 どうしよう、どうしよう……。

 まとまりきらない考えがぐるぐる回る中、ワン吉の声が聞こえた。


「先生のカメラに用事があるんです!」

 私にじゃないんかい!

 それならそうと、早く言え!

 そんでもって、ここまでダッシュして、疲弊した体力、返せ!


「……カメラ?」

「崇の写真、入ってたら現像してほしいなと……。」

 なんだ、そういうことか。


 昨日は湯川さんの息子の崇君のオペの日だった。

 皆で千羽鶴を折った。

 オペに間に合って、すごく嬉しかった。


 それなのに、崇君はオペの甲斐なく帰らぬ人となってしまった。


 今、悲しみに暮れているお父さんやお母さんに、崇君は最期に何て言ったんだろう?

 目の前には、ワン吉君がいて、聞こうと思えば聞ける距離。

 聞けるものなら聞きたい。


 でも、今は、きまずい。


 プリントアウトを終えて、ワン吉君に写真を手渡した。


「ありがとうございます」

 そのままワン吉は出て行った。


 私は再び考え込んでいた。

 私にとって、ワン吉の存在意義って、何なんだろう?

 ただの、通訳?

 たった、それだけで、ワン吉の人生を狂わせちゃいけない。

 変な期待を持たせちゃいけない。

 ワン吉に会う前は『声』がなくたってやっていけたじゃない。

 だから、きっと大丈夫。


 一生懸命写真を撮っても見てほしい人は見てくれない寂しさと、心の混乱の元から距離を置くために、私は、NICUにあまり近寄らないようにしようとその時決意した。

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