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『悲鳴』

「笹岡君、この子は何て言ってる?」

「『翠先生、今日は写真しないの?』って言ってます」

「今日はカメラ忘れてきちゃったのよ!じゃあ、この子は?」

「……『翠先生、元気?』って、言ってます」

 今の少しの沈黙、そして、あの微妙な表情、多分嘘だ。


 NICUに来ることが増えたせいか、私は、ワン吉が嘘をついている時を見破れるようになった。

 きっと、『翻訳』することをためらうようなことをあの子たちが言っているんだろうから、追及はしないけど、嘘をつくとき、大抵ワン吉は少し困ったような顔をしている。


「さてそろそろ帰るか!」

 私がそう言ったその時、急にワン吉は悲壮な顔をした。

 どうしたの、ワン吉?寂しいの?

 でも、その視線の先は、私ではなく、病院の外を向いていた。


「どうしたの?」

「……」

 沈黙の中、PHSが鳴った。

「はい、谷岡で……え?うん、わかった、今いく!」

 私は黙ったままのワン吉を置いて、救急外来へと向かった。


 妊婦が運ばれたから来てくれ、としか言われなかった。

 でも、救急外来に近づくにつれて、状況はかなり悪そうだと悟った。

 女性の悲鳴じみた泣き声が聞こえてきたから。


「ねえ、ねえ、先生!さっきまで、この子、動いてたのよ!」

 叫ぶように、話しかけるその声に、聞き覚えがあった。

「ねえ、この子の写真だって見たんだから!今日見たんだから!」

 そうだ、私は今日、この妊婦の診察をしたんだ。

「あ!翠先生!翠先生!助けてよ!お腹の子、助けて!この子が死ぬなんて、イヤ!」


 怪我だらけになりながら、頭から血を流しながら、妊婦が叫んでいた。

 呆然とする私に看護師が駆け寄って言った。

 この妊婦は、先ほど、交通事故に遭ったのだと。

 お腹の子は、絶望的だと。


 外でサイレンの音がした。

 聞きなれた救急車のサイレンの音ではない。

 きっと、パトカーだろう。

 サイレンの音が遠ざかって行った。

 ふと、窓の外を見た。

 外は暗くて、街の明かりだけがぼんやり見えた。

 風景の代わりに、自分の姿が窓の中に映し出された。

 窓に映った自分の顔を見て、ふと、さっきの、ワン吉の悲壮な表情を思い出した。

 ワン吉も、さっき、こんな顔をしてたっけ。

 あの時、ワン吉には『何か』が聞こえていたのかもしれない。


 妊婦が運ばれてからしばらくたった。

 鎮静剤が効果を現したのか、妊婦の叫び声は聞こえなくなっていた。

 そっと、妊婦のそばに寄った。

 妊婦は、静かに泣いていた。


「本当は、私が、いけないんです」

 妊婦は、私から顔を逸らしてぽつりと言った。

「旦那が帰ってきてから買い物に連れて行ってもらえばよかったのに、自分で運転なんかしたから……」

 私に背を向けた妊婦の肩が、小刻みに震えていた。

「この子にもしものことがあったら、私のせいなんです」


 そんなこと、ないと言いたい。

 そう言っても、母親は思い悩み続けるだろう。

 あの時、足りないものに気付かなかったら。

 あの時、買い物に行こうと思い立たなかったら。

 あの時、旦那さんを待とうと思っていれば。

 あの時、違う道を選んでいれば。

 ずっと、後悔し続けるかもしれない。


 そんなことない。

 私はそう思う。

 でも、彼女にとって、それは、ただの気休めだ。


「谷岡先生、ちょっと、いいですか?」

 真面目に話しかけられて驚いて振り返ると、そこにワン吉がいた。


 救急外来から少し離れた廊下に、私とワン吉はいた。

 ワン吉は、私がNICUを出る前のような悲壮な表情はしていなかった。

 むしろ、少しだけ、いつもの優しい表情に戻っていた。

 それに何故だか安堵した私は、涙をこらえながら、ことのあらましを話した。

 俯いていた私にはワン吉の顔は見えななかったけれど、私の話に集中してくれているのが感じられた。


「先生に、伝えなきゃいけないと思ったんです」

 ワン吉の声色に、決意の色のようなものが感じられた。


「彼女の、遺言を」

 ……彼女?遺言?

「お母さんが、子供を助けて、って言っているお腹の中で、赤ちゃんは、『お母さんを助けて』って、叫んでいたんですよ。『悲鳴』をあげながら」

 ……『悲鳴』?


「赤ちゃんの、その命が絶えそうなとき、赤ちゃんは、俺とかあいつらだけにしか聞こえないような『悲鳴』をあげるんです」

 『声』が、聞こえる人にしか、聞こえない、『悲鳴』。

 生きたい気持ちと、死への恐怖、捨てたくない希望と逃れられない絶望、たくさんの気持ちが入り混じり、それは、断末魔の叫びのような恐怖の旋律を奏でる。

 その、『想い』の塊は、耳を塞いでも、心に直接響いてくるんだ、と、ワン吉は言った。


「お腹の子は、『悲鳴』をあげながら、言ってました」

 いつものような優しい表情に、少しだけ憂いをひそめながらワン吉は続けた。

「『ママ、大好きだよ。ママ、生きて』そうやって、ずっと、ずっと、お母さんがお腹の子を助けてって泣き叫ぶ中、言い続けてたんです」

 お腹の子の願いは、たった一つだった。


 お母さんに、生きてほしい。


 お母さんが、大好きだから。


「お腹の子は、最後の最後まで、『ママ、大好きだよ』って、言ってました」


 あの時、足りないものに気付かなかったら。

 あの時、買い物に行こうと思い立たなかったら。

 あの時、旦那さんを待とうと思っていれば。

 あの時、違う道を選んでいれば。

 ずっと、後悔し続けるかもしれない。


 でも、そんなことはないんだ。

 赤ちゃんの願いは、ただ一つ。

 お母さんに生きてほしかった。

 大好きで、大好きでたまらないお母さんに、生きてほしかった。


 それは、気休めなんかじゃない。


 真実なんだ。


「じゃあ、俺、帰ります」

「笹岡君」

 ワン吉が振り返って私を見た。

「ありがとう」

 そう言うと、ワン吉は、優しく微笑んで、その場を去って行った。


 ふと、窓を見た。

 窓に映った私は、もう、悲壮な顔をしていなかった。


 私は、歩き出した。

 絶望に打ちひしがれる、彼女の元へ。

 気休めではなく、真実を、伝えるために。

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