一歩
お母さんのことを今も想っている荘ちゃん、そして、荘ちゃんのことを想っているけれどあと一歩が踏み出せないでいる静香さん。
静香さんが、あと一歩を踏み出したら、二人はきっと幸せになれる。
そのために、私は何ができるだろう。
考え抜いた揚句、私が行きついた場所は電気屋だった。
静香さんの記憶の中の荘ちゃんは、まだ、機械に繋がれて生かされていたあの頃のままなのだ。
だから、静香さんは、荘ちゃんに会いに行くのが怖いんだ。
だったら、今の荘ちゃんが元気でいるところを見せたら、きっと会いたくてたまらなくなるに違いない。
そう考えた私は、デジカメを購入しにきたのだ。
せっかく久しぶりに電気屋さんに来たのだから、ついでにパソコンも見ようかな。プリンタも、最近調子悪いし。などと考えながら歩いていると、不意に背後から声をかけられた。
「あれ?谷岡?」
「あ、水口先輩!お久しぶりです」
そこにいたのは高校の先輩の水口卓也さんだった。
その姿を確認すると同時に、私の脳裏をこれまでの様々な失態がよぎって行った。
優しくて、頭がよくて、かっこよくて、女子にモテモテだった水口先輩は、生徒会の副会長をしていた。
そしてその当時の生徒会長は私。
だって、一年生で生徒会長っていうの、やってみたかったんだもんっていう、安易な理由ではあったが、私なりにちゃんと仕事はした。
まあ、無鉄砲な私のしりぬぐいを水口先輩がやってくれていたからこそ、事なきを得ていた部分はたくさんあったと思う。
それだけで終わればまだ可愛い青春の思い出で終わっていたのだが、それですまされなくなったのが、半年前、一緒に生徒会をやっていたメンバーの結婚式の二次会で再会した時だった。
おめでたい席で嬉しくなったのか思いっきり酔い潰れた私は、泥酔状態で、水口先輩に実家に送り届けられた。
そして、先輩が仕事の都合でこっちに来た時に偶然会って、あの時のお詫びにと食事に誘ったのだが、その途中で、呼び出しを食らい、先輩だけ置き去りにして私は病院に行かざるを得なくなってしまったのだ。
私は迷うことなく水口先輩の手を掴んだ。
「先輩!この前の埋め合わせを!」
でも、その前にせめてデジカメだけでも見させて!
何とかデジカメだけ買って、私は水口先輩と食事に出かけた。
「あの辺のお店、結構おいしいですよ」
電気屋の近くの居酒屋さんは、あまり綺麗そうな店ではないが、味は確かだ。
「ふーん」
水口先輩は気乗りしない感じのあいまいな返事をした。
あ、そうか!お詫びなのに、庶民的な店じゃダメだよね!
そして、私たちは、高層ビルの最上階のお洒落なバーに行きついた。
こんな店に来る予定ではなかった私の普段着も、手に持った電気屋の袋も、確実に場違いだけれども、気にしたら負けだ!
そんな私とは対照的に、スーツをきちっと着込んだ水口先輩は、こういう店がしっくりきている。
こんな高級そうなスーツ着た人を、うっかり庶民居酒屋に連れて行こうとして申し訳ないなと思いながら、私たちは案内された席に座った。
「お飲み物は何にされますか?」
「私は、ジンジャーエールで」
「谷岡、今日は飲まないの?」
「はい」
それは、先輩の前で酔い潰れたことがあるからだけではなく、今、産科病棟に入院中の患者さんで、ちょっと、いや、かなり大変そうな患者さんが一人入院しているからだった。
帰り際に寄った感じでは、まだ大丈夫そうだったが、用心に越したことはない。
「前回も、急に呼び出されていたし、忙しいんだね」
「ええ、まあ」
飲み物がやってきて、私たちは再開に乾杯した。
「前回は、どんな呼び出しだったの?」
「えっと、どんなだったかなぁ?」
私は、とぼけたような曖昧な返事をした。
実際は、覚えていたのだが、とても、ここで話せるような内容ではなかった。
あの時、私が呼ばれた代務先にいた患者さんはレイプの被害者だったのだ。
肩に大きな傷を負った彼女は、出血も多く、その病院に入院することになったのだが、間もなくして私がその病院の担当から外れ、風の噂で、退院してからその患者さんは病院に来なくなったと聞いた。
「……岡!」
物思いに耽っていた私は、現実に引き戻された。
「谷岡!電話なってる!」
「あ、ホントだ!」
私は、とっさに電話に出た。
「もしもし、あ、舞ちゃん?」
「翠先生、湯川さんが、破水しました!」
「え、うそ?」
「本当です。今、オペ室に向かってます」
「心外と循内と、あと小児科には連絡取った?」
「もちろんです。先生、どれくらいで来れそうですか?」
「今すぐ出たら20分以内に着けると思う」
「分かりました。麻酔科医にそう伝えておきます」
「よろしく。できるだけ急いでいくから!」
そう言って電話を切った私は、視線を感じて前方を見た。
あ、水口先輩と食事してたの忘れてた!
しかも、今、急いで行くって言っちゃった!!
「急いでるんでしょ?」
水口先輩は穏やかにほほ笑んだ。
本当に申し訳ない!
でも、今は、ありがたい!
「あ、谷岡」
立ち上がった私を、先輩が呼び止めた。
「僕さ、今度からこっちで勤務することになって、こっちにあんまり友達とかいないし、また、一緒にご飯とかいかないか?」
「喜んで!」
お詫びがまだ完結してないし、こっちとしても好都合だ。
「じゃあ、連絡先交換しよう」
この時、私は、恋の第一歩を知らず知らずのうちに踏み出していたことに気付いていなかった。
水口卓也氏の設定が著しく変わりました。
その方が個人的に便利だから何て思っても言いません。