決断
師走に入り、院内は早くも、クリスマスムードにあふれ始めていた。
仕事を終え、ロッカーに行くと、カバンの中で携帯電話が鳴っていた。
電源切るのを忘れてたと思いながら、電話に出た。
「あ、翠、年末年始の当直、出た?」
電話してきたのは、お母さんだった。
「ん、まだだよ」
「今年は、ちゃんと帰ってらっしゃいね。卓也君も一緒に。結婚式の打ち合わせとか顔合わせとか、あなたたち忙しいから、年末年始の帰省のときにぱぱっとできちゃったほうがいいでしょう?」
私はまだ返事をしていないというのに、お母さん中ではすでに、水口先輩と結婚することで話が出来上がってしまっていた。
否定するタイミングを逃したままずるずると来てしまった。
ため息まじりに電話を切ると、私は着替えて病院を出た。
「あ、翠先生!」
そこにいたのは、ワン吉だった。
いつもの流れで、いつもの居酒屋に私たちはいた。
ワン吉は、荘ちゃんの弟が生まれて以来、何か考え込んでいるような時が多かったのだが、今日は何だか吹っ切れているようだった。
「明日、荘太が退院するんです」
「……そうなんだ」
最近、自分のことに精いっぱいで、荘ちゃんがそろそろ退院なんて、知らなかった。
「それで、荘太が、明日、母親に自分の口で、話してみるから、見ててくれって」
「へぇ」
「それで、俺、思ったんです。もしその時に、母親が、無反応だったり拒絶したりしたら、俺はどんな手を使ってでも荘太を引き取ろうって」
「え?」
「あいつらは、自分の意志で、自分の口で言葉を話したその瞬間に、『声』と、『声』を話していた時の記憶を失うんです」
「それじゃあ、荘ちゃんは、明日、これまでの記憶を失ってしまうってこと?」
じゃあ、ワン吉と過ごした日々の事も忘れちゃうんじゃない?
「そうです。でも、その時、きっと荘太は、母親を待ち焦がれた記憶も一緒に忘れてしまうと思うから、荘太を想ってくれない母親と過ごすより、俺とゼロから始めたらいいと思うんです」
それは、ワン吉がずっと、荘ちゃんと親しくしてきたから、その寂しさを知っているから、その優しさを知っているから思えたことなのだろう。
でも、私は、静香さんを見てきたからわかる。
きっと、静香さんは、無反応になったり、ましてや拒絶したりはしない。
心のどこかでちゃんと、荘ちゃんを想っているのだから。
ワン吉は、どこか吹っ切れている様子ではあったが、とても寂しげだった。
きっとワン吉もわかっているのだ。
静香さんもちゃんと、荘ちゃんのことを想っていて、家族が仲良く退院できるのが一番の道だと。
わかっているけれども、それでも、荘ちゃんが幸せになれるように、ワン吉なりに諦めるための決断をしたのだ。
ワン吉と別れてひとりになった私は、携帯を見た。
お母さんからの、メールに紛れて、水口先輩からメールが来ていた。
「明日、会えないかな?」
私も、決断しなければならない。
水口先輩に、明日、大丈夫ですと返信をしてから、私はお母さんからのメールを見ていた。
一人娘の結婚にうきうきが止まらない様子であった。
……まだ何も返事していないのに。
そのメールを見ながら、私は、お母さんと過ごした日々を思い出していた。
幼いころに父親を亡くした私を、お母さんは女手一つで育ててくれた。
私たち親子はいつも仲良しで、私は、お母さんに迷惑にならないように、負担にならないように、いつも頑張っていた。
そんなお母さんに逆らってしまったのは、大学受験の時だった。
地元の大学を受けてほしいとお母さんは言っていたが、私は、高度な研究ができる大学に行きたかった。
私は、お母さんに逆らって、地元を離れ、以来、私たちは離れ離れのままだった。
もしも、私が、水口先輩と結婚したなら、きっと、お母さんを楽させてあげられるだろう。
進学も、就職も、私のワガママを聞いてもらったのだから、結婚は、お母さんの望む形にしてあげたい。
決断の機嫌は明日に迫っていた。