生まれる命と
母親との電話のやり取りを終え、私は眠りについた。
どれくらい眠っただろうか?
再び電話が鳴って私は起き上がった。
また、お母さんかな、と携帯の画面を見ると、病院からだった。
「もしもし」
「翠先生、中山さんが陣痛始まったそうです」
「わかった、すぐ行くね」
私は電話を切ると、慌てて準備を始めた。
病院につくと、静香さんはすでに、分娩室に移動していた。
いつもの中山志乃に加えて今日は旦那さんも付き添っている。
準備にかかろうとしたその時に、PHSが鳴った。
「もしもし」
「翠先生」
私を呼んだその声は、ワン吉だった。
その声は、いつになく、緊迫していた。
「荘太が、危篤です」
「え?」
一瞬、聞き間違いかと思った。
いや、聞き間違いであってほしいと思った。
何で?
どうして?
何で今なの?
どうして、弟が生まれようとしているこの時に、荘ちゃんの命が奪われようとしているの?
ワン吉が、声を潜めるようにして言った。
「荘太は『悲鳴』をあげながらずっと、『パパ、ママ』って言ってます。ずっと、叫び続けています」
それは、荘ちゃんが初めて、お父さんとお母さんを心から求めていると分かった瞬間だった。
命が絶えそうなこの瞬間に、荘ちゃんの心は、お父さんとお母さんを求めていた。
状況的に、静香さんを動かすのは無理だ。
私は、分娩室の中を見た。
必死に静香さんの手を握りながら額の汗を拭く旦那さんを見た。
伝えてみなければ何も始まらない。
「中山さん、落ち着いて聞いてください」
「落ち着いてます!」
そう言った旦那さんは明らかに挙動不審だった。
「もう一人のお子さんが、荘太君が、危篤です」
旦那さんがポロリとハンカチを落とした。
「そ、それは、本当ですか?」
ハンカチを拾いながら、何とか冷静さを取り戻そうとしながら、旦那さんが言った。
「はい。だから、荘太君の元へ、行ってあげてほしいんです」
「今、ですか?」
「今、です」
「だって、今……!」
旦那さんの言いたいことはわかる。
命が生まれる瞬間がもうすぐ訪れるというのに、今、この場所を離れてNICUに行けと言われているのだ。
生まれてくる新しい命だって、もちろん大切だ。
でも、そこには忘れてはならないもう一つの命があるのに。
その命は、荘ちゃんは、お父さんとお母さんを求めているのに。
ずっとずっと、お父さんやお母さんを想い続けていたのに。
本当に、何で、このタイミングなんだろう?
なんで、荘ちゃんにこのタイミングで命の危険が訪れてしまったんだろう?
何で、荘ちゃんにこんな試練が訪れてしまったのだろう?
刻一刻と時間だけが過ぎていた。
早くいかなければ、もう、生きている荘ちゃんに会えないかもしれないのに。
荘ちゃんが『悲鳴』をあげながら、呼び続けているのは、お父さんとお母さんなのに。
どう伝えたらいいんだろう?
どうしたら……?
「いつまで呆けているのですか?」
突然、中山志乃が声を張り上げ、部屋中全員が彼女に注目した。
「中山家の長男の命の危機に、父親である貴方が行かなくてどうするんですか?」
「でも……」
「でも、ではありません!今すぐ行きなさい!静香さんには私がついていますから」
旦那さんが静香さんを見ると、静香さんはしっかり頷いた。
それを見た旦那さんは、慌てて駆け出した。
「そっちは逆です!」
若干の不安はあるが、きっとたどりつけるだろう。
それからしばらくして、静香さんは元気な男の子を生んだ。
生まれたての子供を静香さんが抱っこし、姑の志乃がそれを暖かい眼差しで見つめていた。
その時、私のPHSが鳴った。
電話はNICUからだった。
何故だか、嫌な予感はしなかった。
「翠先生、荘太が、息を吹き返しました」
それを伝えると、嫁と姑はほほ笑み合った。
試練を乗り越えた嫁姑の絆が、強くなったと感じた。
昼休みになり、廊下を歩いていると、ワン吉がとぼとぼ歩いていた。
何であんなにうなだれているんだろう?
まさか、荘ちゃん、危篤状態が長くて後遺症が残ってるとか?
「笹岡君!」
それは、何としてでも情報を聞き出さねばと私はワン吉に駆け寄った。
「あ、翠先生、今朝はありがとうございました」
私を見ると、ワン吉は少し明るい表情になって言った。
「その後、荘ちゃんは?」
「すこぶる順調に回復していますよ。小児科の先生たちが驚くほどです」
そうか、じゃあ、後遺症云々じゃないんだ。
何だかそのままの流れで、私はワン吉と食堂へ行った。
ワン吉は、飲み物だけ持って、座席を探しに行ってしまった。
……ワン吉、ダイエット中?
会計を済ませてワン吉が確保してくれた席に着いた私は、ちょっと前に、雅之君からワン吉が毎日お弁当を持参していたことを思い出した。
というか、席に着いたら、ワン吉が目の前でお弁当を取り出したところだった。
……美味しそう。
私の視線には気付いていないらしいワン吉は、目を伏せたまま、すごく美味しそうなお弁当に手を付けることなく、話しかけてきた。
「今朝、荘太が『悲鳴』をあげていた時、荘太は父親と、母親しか呼んでいませんでした」
お弁当に注目しすぎていた私は、話を半分くらいしか聞いていなかったため、ワン吉の言いたいことが理解できずにきょとんとしていた。
「俺の名前は、呼ばれなかったんです」
その言葉を聞いて、私はワン吉がしょげている訳が分かった。
ワン吉は、荘ちゃんをそれはそれは大事に想っていたのに、荘ちゃんにとって、『悲鳴』をあげながら、叫んだのは、ワン吉ではなく、お父さんとお母さんだけだった。
どれだけワン吉がたくさんの時間を荘ちゃんと過ごしても、荘ちゃんにとって大切な人はお父さんとお母さんだったのだ。
荘ちゃんを引き取りたいとまで思ったワン吉にとって、これは、どれほど悲しいことだろう?
でもね、ワン吉君、事実は事実だから仕方がないと思うの。
両親を知っている私としては、荘ちゃんがお父さんやお母さんのことを想っててくれてよかったと思っているの。
そして、私は、朝から食べてないからすごくお腹がすいているの。
そして、目の前のワン吉のお弁当がものすごく美味しそうなの。
「ワン……」
「ワン?」
「笹岡君、その卵焼き一つちょうだい!」




