接触
「先生、何でそんなにケロッとしてるんですか?」
私に話しかけてきた舞ちゃんは、朝から疲れている様子だった。
「へ? 何が?」
「昨日あんなに飲んでたじゃないですか?」
そう言う舞ちゃんの顔色は少し悪い。
さては舞ちゃん、二日酔いだな。
「そうだっけ? 寝て起きたらすっきりしてたよ!」
「信じられない」
舞ちゃんは私にそう告げて、ナースステーションの椅子に腰かけた。
そうか、昨日は私、舞ちゃんの向かいの話に集中してて、舞ちゃんがどれくらい飲んでたか知らなかったなぁ。
そう考えながら、ふと、昨日の纐纈先生の隣にいたワン吉君は、どこの誰なんだろうと考えた。
舞ちゃんだったら、この病院のことやたら詳しいから知ってるかもしれない。
「ねえねえ舞ちゃん!」
「何ですか先生?」
舞ちゃんは頭を手で押さえながらうんざりした様子で返事をした。
「昨日のさ」
「昨日の話はしたくありません!」
そうきっぱり言い切った舞ちゃんは、自分の声でさらに頭が痛くなったらしく、頭を押さえて唸っていた。
「いや、昨日纐纈先生の隣にいた男の子って、うちの職員かなと思って……」
「え? 先生、あんなのに興味あるんですか?」
「う、うん、まぁ……」
「看護師の笹岡君ですよ。確か、整形外科病棟にいたと思いますけど、存在感ないし、仕事はとろ臭いし、ぼーっとしてるし、あんまり先生にはおすすめできませんよ」
そう言い切ると、舞ちゃんは、頭を押さえながら自分の仕事に戻っていった。
仕事が一区切りついた私は、整形外科病棟へと向かった。
ここにあの、赤ちゃんの『声』が聞こえるという笹岡君がいるはずなんだ。
一つ、深呼吸をすると私は病棟へと入って行った。
「すみません」
ナースステーションの受付の人に声をかけた。
「はい?」
「ここに、笹岡君って言う看護師さんいませんか?」
「……笹岡?」
受付の子は首をかしげてしばらく考え込んでいた。
「あ、ああ、あの、とろ臭い笹岡君か! 彼なら、四月からよその病棟に行きましたよ」
「ちなみにどこに?」
「さあ、興味なかったから……」
笹岡君、どんな扱いなんだ。
そう思っているときに、私のPHSが鳴った。
笹岡君探しはまた今度にしよう。
そして、しばらく私の中で、『声』が聞こえる笹岡君の存在は、片隅に追いやられてしまっていた。
それから一週間が経った。
電子カルテで診察予定の患者を見ていた私は、あるところでふと、目が留まった。
中山静香、という名前が、私の診察予定の患者の中にあった。
確か、主治医は替えられた筈じゃ……。
事務の子に聞いてみたけれども、入力ミスではないらしく、困惑した顔で頷くだけだった。
そうこうしているうちに、中山静香さんの順番になってしまったので、とりあえず、彼女を診察室へと招き入れることにした。
「失礼します」
小さく挨拶しながら、妊婦が一人で入ってきた。
「あの、お姑さんは、大丈夫なんですか?」
思わず聞くと、妊婦は小さく頷いた。
「先生がいいって、一生懸命やってくれる翠先生がいいって、義母にお願いしたので……」
嬉しかった。
私を選んでくれたということだけじゃない。
ちゃんと、自分の意見を姑に伝えられるほどに、彼女の心が強くなったことが、何よりも嬉しかった。
それくらい、強い心になった彼女なら、と思い、私はふと、静香さんに聞いた。
「あれから、荘ちゃんの、荘太君のところには……?」
ちょうど三日前に、一歳の誕生日を迎えたはずの荘太君に、会いに行ったのかもしれないと、仄かに期待を寄せていた。
ところが静香さんの顔に曇りが見えた。
彼女は曇った表情のまま、首を横に振った。
静香さんは、荘ちゃんが入院してすぐのころに一度お見舞いに行ったきり、一度も荘ちゃんに会いに行っていない。
荘ちゃんが、超低出生体重児として生まれてしまったのは、自分のせいだと、罪悪感に押し潰されそうになってしまうから。
機械に繋がれた小さな小さな壊れそうなわが子を見ていられないから。
荘ちゃんは、そんなお母さんのことを何と思っているんだろう?
そう考えたとき、ふと、誰かの言葉が頭をよぎった。
「赤ちゃんの、泣き声じゃなくって、その、何ていうか、赤ちゃんの『想い』が『声』として聞こえるんだ」
泣き声を、聞き分けているわけじゃない。
その『想い』が直接、『声』として、聞こえてきているんだ。
そう言ったのは、誰だっただろう?
もしも、再びその人に出会うことがあるのならば、聞きたい。
荘太君は今、お母さんを、愛していますか?
その日の診察は静香さんが最後だった。
私は、一人、考えていた。
私は確かに、この耳で聞いた。
誰かが言っていたんだ。
赤ちゃんの『想い』が『声』として、聞こえるんだ、って。
そう言ったのは、誰だっただろう。
物思いに耽りながら、私は帰路についた。
もとい、うっかり帰ってしまった。
自分の選択に、後悔したのは、夜更けに待機医用のPHSが音を立てた時だった。
しまった!今週、待機当番だった!
しかも、自宅で、PHSが鳴るまで気付かないなんて……。
とりあえず、電話に出なきゃ。
「もしもし」
「あ、翠先生、母体搬送の患者さんが救急車でこちらに向かってます。あと二十分ほどで到着するそうです」
「私、今、自宅にいるからあと三十分はかかるかも……。とりあえず、急いで向かうね」
ため息をつきながら終話ボタンを押した。
駅近、家具付きという条件に飛びついて借りた今のマンション。
最寄駅の乗り継ぎが最悪で、病院へ行くにはかなり遠回りだと気付いたのは、勤め始めてから。
どうしようか?
タクシーで行こうかな?
せっかく夜間割増料金にもめげずにタクシー拾ったのに。
どこの車か知らないけど、事故るなよ!
渋滞反対!
そんなこんなで、私は五十分もかけて病院に到着し、病棟に到着した時にはすでに患者はオペ室に行っていた。
「翠先生!来て早々ごめん!すぐにNICUに電話して!」
執刀医が私の姿を見るなり叫ぶように言った。
状況は、かなり緊迫しているようだ。
すぐに、オペ室用のPHSを手に取り、NICUに電話をかけた。
電話に出たのはNICUの主任さんだった。
要件を手短に伝えると、「わかりました、すぐ伺います」という頼もしい返事をもらった。
そしてその次の瞬間だった。
まだ、受話器を置いていなかったのか、遠巻きに、主任さんの声が聞こえた。
「笹岡、緊急……ガチャ……ツー、ツー……」
あ、そうだ!あれは、ササオカ君だ!
赤ちゃんの『想い』が、『声』として聞こえると言っていた彼は、こんなに身近なところにいた。
「先生!こっち、ヘルプ!」
「あ、はい!」
でも、今は、それどころじゃない。
「翠先生、いつまで寝てるんですか?」
オペ室の休憩室で、私は、舞ちゃんに、揺り起こされた。
「あとちょっと……」
「ダメです!もう、病棟回診の時間ですよ!」
そっか、私、今日、病棟当番だったんだ。
「ほら、先生、早く!」
舞ちゃんにせかされながら病棟へと歩いていく途中で、昨日オペを執刀していた先生に会った。
「あ、翠先生、おはようございます」
その表情は、どことなく、浮かない。
もしかして……?
「あ、あの、昨晩オペした患者さんは?」
「うん。順調に回復してるよ」
よかった。生きてるんだ。
「今朝、様子を見てきたけど、お子さんが亡くなったショックがさすがにまだ残ってるけど、体調のほうはよさそうだったよ」
……え?
「お子さん……が?」
「それが、NICUで心肺蘇生をしてたんだけど、ダメだったみたい」
そうか、それで、先生は浮かない顔をしてたんだ。
でも、何か、心に引っ掛かるものがある。
NICU……?
「あっ!」
「翠先生?ていうか、どこ行く気ですか?病棟はこっちです!」
思いつくままにNICUに向かいそうになった私は、舞ちゃんに一喝されて、病棟へと引っ張られていった。
「ちょっと出かけるね!」
午前の回診が終わった。
患者さんは皆、順調。
と、なれば、思い立ったが吉日ということで、私は、自称「赤ちゃんの『想い』が『声』として聞こえる」看護師の、笹岡君のところへと向かった。
だって、居場所は割れているもの。
産科病棟に隣接する、NICU。
しかも、彼は、恐らく夜勤明けだから、そろそろ解放される時間かもしれない。
職員通用口から、堂々と、NICUへと入って行った私の耳に、主任さんの声が聞こえた。
「笹岡、初夜勤お疲れ、帰っていいぞ」
私ってば、タイミング良すぎ!
そのまま、声のしたほうへと歩いて行った。
あ、荘ちゃんが、泣いてる。
って、今は笹岡君を探して……あ、いた!
ぼーっとこちらを見ていた笹岡君と目が合った。
ちょうど、引継ぎが終わった後らしく、一緒にいた看護師は「お疲れ様」と、笹岡君に声をかけて去って行った。
怪しまれないように笑顔で近づく。
よし、ワンちゃん捕獲成功!
さて、お手並み拝見と行きますか?
新生児室に連れてこられて、若干困惑気味のワン……笹岡君。
一人で百面相しているのは、困惑しているからなのか、それとも、あの子たちの『声』が聞こえているからなのか。
それを、今から確かめなきゃ。
「ねぇ」
そっと近づいて話しかけると、笹岡君は慌てふためいて赤面していた。
えっとね、君と、危ない関係になる気はかけらもないから!
少し落ち着いたらしい笹岡君に、そのままの距離感で私は話しかけた。
「この間の話って本当?」
「この間の話……」
そう言ったきり、笹岡君は、固まっている。
大丈夫かな?この子?
もしかして、目を開けたまま、寝てる?
「この間って、あの、翠先生がべろんべ……」
こらこらこらこら!
爆弾発言が来ちゃったよ!
いたいけな赤ちゃんの前でなんてことを!
私のイメージが!
私のイメージが!
……おっといけない!
私としたことが、取り乱してしまったわ!
「で、どうなの?」
そう、笹岡君に振り回されてちゃいけない。
私には、ちゃんと、聞きたいことがあったんだ。
私は、真剣にワン吉君、もとい、笹岡君の目を見つめた。
笹岡君も、それに呼応するかのように真剣なまなざしでこちらを見つめ返してきた。
さあ、何て答える?ワン吉君?
実は、嘘だったの?
それとも、その嘘を、つき通すの?
それとも、本当なの?
「谷岡先生が、思っている通りだと思います」
それは、私が予想していた答えのパターンにはなかった。
白か黒か、はっきり答えられるものだと思っていた。
でも、その答えは、灰色だった。
嘘だ、と否定したくはない。
でも、本当だと言える勇気はない。
その答えに、ワン吉の想いがこもっているような気がした。
信じてもらえるわけはない、でも、本当は、信じてほしい、と。
私が信じなければ、『声』の存在など、なかったことになる。
私が信じれば、その存在は、あることになる。
要するに、答えは私次第。
それならば、私は、可能性に賭けてみたい。
「じゃあ、私の希望的観測の通りってことね」
でもね、ワン吉君、手放しで信じるわけじゃあないのよ。
「じゃあ、笹岡君、そこの子、何言ってるか、教えて?」
「『声』ですか?」
「もちろん」
もしも、『声』というものが聞こえるのならば、私は知りたい。
彼らの『想い』を。
それを知る手段に気付いていながら、見過ごすことは、私にはできない。
ベビーの『声』を『通訳』してもらい、胎児の『声』も『通訳』してもらった。
私の見解では、ワン吉君の話は、嘘ではなさそうだ。
少し鼓動が早くなる。
だって、私の中では、ここからが、本番なのだから。
もしも、本当に『声』が聞こえるのであれば……。
もしも、本当に、その『想い』を知ることができるのであれば……。
とりあえず、ワン吉君、もとい、笹岡君を連れて、中庭へ出た。
「笹岡君、奢ってあげるからコーヒー買ってきて!」
ワン吉君にもご褒美をあげなきゃね。
大事な話をしている途中で眠くなってもらっても困るし。
不思議そうに見つめるワン吉君に再び笑顔を向けると、自販機に向かって走って行った。
エライエライ。
フリスビーとか投げたらすごい笑顔でとって戻ってきそうだよ、ワン吉君。
あれ?あの子、今日夜勤明けだったけ?
まあ、元気そうだから、良しとするか。
さて、と。
もしも、本当に『声』が聞こえるのであれば……。
もしも、本当に、その『想い』を知ることができるのであれば……。
私には、知りたい『想い』があった。
それは、荘ちゃんの『想い』。
荘ちゃんは今も、お母さんを愛していますか?
二人の関係は、手遅れにはなっていませんか?
もし、荘ちゃんが、まだ、お母さんのことを愛しているならば、あとは、静香さんの気持ち次第だ。
でも、もし、荘ちゃんがお母さんのこと嫌いになっていたら?無関心になってしまっていたら?
気付くと私はコーヒーを手にしていた。
どうやら、私が考え込んでいるうちに、ワン吉君は戻ってきていたようだ。
「あの、さ」
真実を知りたいのに、真実を知るのが怖い。
それでも、私はもう、動き始めてしまったのだから……。
「笹岡君って、NICUで働いてるよね?」
「はい」
「じゃあ、もちろん、荘ちゃん、中山荘太君、知ってるよね」
「はい、もちろん」
「笹岡君から見て、荘ちゃんは、どんな子?」
「あぁ、荘太ですか?」
ワン吉君は、あまり考え込む様子もなく、すぐに答えた。
「態度はでかいけど」
予想だにしていなかった答えに、思わずコーヒーを吹き出しそうになった。
荘ちゃん、可愛い顔して態度でかかったのね!
「仲間思いだし、リーダーシップもある、良い奴ですよ」
ワン吉君の顔を見た。
優しげな瞳でそう語る彼の言葉に、嘘はなさそうだった。
荘ちゃんは、いい子に育ってるんだ。
だったら、きっと、お母さんのこと……。
そう思いつつも、不安を拭いきれない。
だって、荘ちゃんは、一年近くお母さんに会っていない。
もしも、嫌いになってしまっていたら?
もしも、無関心になってしまっていたら?
荘ちゃんのお母さんにあと少しの勇気が足りないだけなのに、荘ちゃんがもう、お母さんのことを諦めてしまっていたら?
聞くのが怖い。
でも、聞かなければ始まらない。
「荘ちゃん、は、さ、お母さんの事とか何か言ってる?」
ワン吉の顔が曇った。
もしかして、荘ちゃんはお母さんのこと嫌いになってるの?
「荘太から、荘太のお母さんの話は、あまり聞いたことがないです」
そうか、無関心、なんだ。
そうだよね、一年近く会っていないんだもん。
「けど、俺が見る限りでは、荘太は、お母さんのこと、大好きなんだと思います」
無関心、ではなかった。
嫌いにも、なっていなかった。
生まれてから、たった一度しか会っていない母親を、荘ちゃんは、愛しているのだ。
こんな奇跡みたいなことが、この世に存在するんだ。
しかし、私は、ある事実を思い出した。
静香さんは、第二子を身ごもっている。
それは、荘ちゃんにとって、どれほど残酷なことだろう?
「ねぇ、荘ちゃんはさ、その、お母さんの、に、妊娠の事、知ってるの?」
笹岡君の顔色をうかがうことすら恐ろしかった。
さっき、あんなに嬉しそうに荘ちゃんのことを語っていた彼が、初めてそのことを知るなら、相当怒っているに違いない。
「知ってますよ」
その声色に怒っている様子はなかった。
でも、少しだけ冷たいその声色に、顔を上げられなかった。
たぶん、笹岡君は、荘ちゃんのお母さんの第二子の妊娠を快く思っていない。
じゃあ、荘ちゃんは?
「荘ちゃんは……何て?」
「『仕方ない』って」
……仕方ない?
思わず、顔を上げてワン吉君を見た。
「『弟が生まれるの、楽しみだ』とも、言っていましたよ」
穏やかなワン吉君の目に、嘘はなさそうだった。
仕方ない。
独りぼっちでNICUで闘病生活を送っている荘ちゃんは、一年近くお見舞いに来ないお母さんが、弟を身ごもっているという事実を、悲しむわけでも怒るわけでもなく、冷静に受け止めていた。
そして、荘ちゃんは、弟の誕生を心待ちにしているなんて。
荘ちゃんはわかっているんだと感じた。
お母さんとおばあちゃんの間の亀裂が自分のせいで深まったかもしれないことも。
中山家に、跡継ぎ、が生まれなければ、お父さんとお母さんが、別れさせられてしまうことも。
超低出生体重児として生まれた自分は、跡継ぎにふさわしくないと思われているだろうことも。
荘ちゃんは、独りぼっちで闘病生活を送りながら、家族の幸せを願っていたんだ。
大好きなお母さんのために、家族の幸せのために、寂しさに一生懸命耐えているんだ。
そして、新たな命をちゃんと楽しみにしてくれているんだ。
何て優しい子なんだろう。
なんて素敵なことなんだろう。
荘ちゃんは、今も、お母さんのことを愛している。
あとは、お母さん次第。
私は、私にできることをしなきゃ。
二人の幸せのために、何かしなきゃ。
いつの間にか流れていた涙を拭うと、私はワン吉に手を振った。
私の診察を希望してくれた、静香さんのために、NICUで頑張る荘ちゃんのために、何かをしなきゃ。
そして、決意を胸に歩き始めた。