絶体絶命
河合さんが一か月検診でやってきた。
よし、生存確認っと。
慶斗君が生まれる前よりも、笑顔が多いような気がする。
よしよし、二人で元気に幸せに過ごすんだよ。
そう思いながらも心がもやもやするのは、まだ、犯人が捕まっていないからかもしれない。
あの時、ワン吉のせいで取り逃がしたから……。
それでも私はまだ診察の患者さんが残ってるんだ!
「次の人、どうぞ!」
私はことさら明るく患者さんを招き入れた。
「翠先生!今日はちゃんと来たよ!」
そうか、次は葵ちゃんだったか……。
そして、葵ちゃん相手にこれからする話は、とても明るく話せない話題だったことを思い出した。
赤ちゃんを宿している彼女の子宮には、同時に腫瘍も巣食っていた。
あまり見た目に劇的に増大している様子はないが、これまでの彼女の病歴を考えると、悪性である可能性が高い。
腫瘍の先生に紹介したいところだが、めぼしい先生は、私が研修医の時に、毎回私がけんかの仲裁に入っていた中谷先生だけだ。
「絶対ヤダ!私、中谷のこと嫌いだもん!」
絶対、こうなると思っていたが、折れるわけにもいかない。
「それでも、葵ちゃんを助けられるのは中谷先生だけなの、お願い、わかって!」
話し合いが平行線のまますでに何十分も経過していた。
なんだか廊下が少しだけ騒がしいと思ったら、診察室の扉をノックする音が聞こえた。
「すみません、穂積葵って、今、診察中ですか?」
仕事が終わったらしい葵ちゃんの旦那さんが駆けつけてきたようだった。
「あの、それ、コスプレですか?」
葵ちゃんの旦那さんは、日曜朝のヒーロー番組のヒーローのような出で立ちだ。
「本物ですよ!」
葵ちゃんが言うと、旦那さんが、付け足すようにしていった。
「スタントマンをしているんです。今日は葵が診察だって言うから、仕事が終わってそのまま来てしまいました」
それで、廊下が異様に騒がしかったわけね。
私が葵ちゃんにしたのと同じ話を旦那さんにした。
「ね、大ちゃん、中谷って、私が言ってたすっごく性格の悪い医者!あんな奴のお世話になんかなりたくないよね!」
葵ちゃんを手で制すると、旦那さんは、私の目を見て真剣に話しかけてきた。
「翠先生、そのナカタニ先生てのはすっげえ先生なんですよね」
私はうなずいた。
腕もすごいが性格もすごく悪い。どちらの意味も込めて。
「葵、ナカタニ先生の診察、受けようよ」
「だって、あいつ……」
「俺も一緒についていくよ。葵が何か言われたら、絶対俺が守るから」
葵ちゃんは黙ってうなずいた。
私は駅に向かってとぼとぼと歩きだしていた。
肝心の中谷先生の診察はとっくに終わっていて、中谷先生もすでに院内にいなかったので、葵ちゃんたちには来週診察しに来るように伝えた。
色々と口うるさい中谷先生に文句を言わせないために、資料をそろえていたら、小児科の看護師さんによばれて。
そうしたら、なぜか葵ちゃんの旦那さんが調子に乗って小児科病棟にいって、一人ヒーローショーを始めてしまっていたので、何とかその場を丸く収めて。
で、今度は中谷先生の資料集めが途中だったことを思い出して、やっていたら、とっくに病院の近くの改札口がしまっていた。
水口先輩から、ご飯行こうってメール来てたけど、今日はもう無理だなぁ。
私は水口先輩にごめんなさいメールを送ると携帯をしまった。
それにしても、夜の公園というのは、暗くて不気味だなぁ。
ワン吉の家ならここから近いけど、ワン吉今日夜勤だって言ってたな……。
ああでもない、こうでもないと、考えながら歩いているうちに、突然背後から口を塞がれて、私はそのまま茂みに連れ込まれた。
「お久しぶりですね。センセイ」
にやりと笑うその男に、見覚えがあるような気がした。
「この方が、わかりますか?」
そう言って、男がメガネをかけた。
「あ!むぐ……!」
この男に、確かに見覚えがあった。
「あの時、警察に連れて行っていたら、今、こんな目には遭わなかったかもしれないね」
クックックと男が声を殺して笑った。
そうだ、この男、先月私が、警察に連れて行こうとした、あの男だ!
河合さんを襲った、レイプ犯だ!
「まあ、あの時警察に連れて行っても、証拠不十分で、すぐに釈放になっただろうけどね。僕、完璧主義者だからさ……」
男はにやにやと笑いながら、刃物をちらつかせ始めた。
そうだ、警察に……!
私が取り出した携帯電話はすぐに視界から消えてしまった。
ああ、唯一の連絡手段が!
「センセーさ、すっげえ勇気あるけど、すっげえ頭悪いよね。助けなんか、呼べると思ったわけ?」
ああ思ったさ、何が悪い?
私は男を睨みつけた。
「いいねえ、センセイ、その目、そそるね」
男はいやらしい笑みを浮かべた。
レイプ犯がそそられても、ちっとも全く全然嬉しくない!
いっそ、目からビームとか出てしまえばいいのに!
それでも、目からビームなど、出せるはずのない私は、ただひたすら、男を睨むことしかできなかった。