もしも今
「翠先生、お疲れ様でした!」
「お疲れ様!」
「今日は急いで、デートですか?」
「友達とご飯!」
友達とご飯、という表現は、やや語弊があるが、仕方あるまい。
私は、とにかく急いでいたし、舞ちゃんにつかまっている場合じゃなかった。
これから食事する「友達」は、水口先輩で、私は完全に遅刻していた。
まあ、デートでもないし、知り合いって言うのもしっくりこないから、あれでいいんだと自分に言い聞かせながら、私は猛ダッシュで待ち合わせ場所へ向かった。
水口先輩とはあれ以来よく一緒にご飯に行く。
そして、最初に行って以来、なぜか毎回高層ビルの最上階のおしゃれなお店にしか行ったことがない。
ほかに選択肢がないのだろうかと思わなくもないが、一人で、どこかで待たすくらいなら、最初から、どこかの店に入られたほうが、よっぽど先輩もゆっくり待てるだろうと思い、私はそこをあえてつっこまないでいた。
「先輩、お待たせしました!」
いつものようにカウンターに腰かけている先輩に頭を下げた。
「いや、僕も今来たところだから」
白々しい嘘だと思わなくもないが、まあ、遅れてきたものへの気遣いだと、そこには触れずに先輩の隣に腰かける。
通り過ぎる女性客たちが、水口先輩を見て「イケメンだ」とはしゃぎながら通り過ぎて行った。
そう言えば、先輩は、イケメンなんだから、彼女とかいるんじゃなかろうか?
こんな、定期的に女性とご飯に行ってしまっていたら、彼女がやきもちとかやかないのかなぁ?
あ、でも、先輩がこっち来ちゃったから、遠距離恋愛かもしれないし……。
「考え事?」
イケメン様の水口先輩が私を覗き込んできいてきた。
「いや、別に……」
あなたの恋愛事情を心配していましたとは言えずに、私はお茶を濁した。
「仕事の事とかでも、何か悩みがあったら、遠慮なく言ってみてよ」
「特に、仕事は悩んでないですよ」
本当に、悩んでいることはなかったし、私は、患者さんの話はあまり部外者に語らないようにしていた。
私には、患者さんの秘密を守る義務があるからだ。
うっかりしている私は、名前を伏せているつもりでも、ふとした拍子に言ってしまいそうになるからだった。
そのとき不意に、この前のワン吉の行動を思い出した。
「そう言えば、この前、看護師さんと二人で飲みに行ったんだけどね」
水口先輩は、黙って私の話を聞いていた。
「いつもは仕事終わりだと、病院の近くの居酒屋とか何だけど、その日はちょっと離れたお洒落なとこにいくし、その中でも、一番奥の部屋とか連れてかれるし、一瞬襲われたりしたら、どうしようかと思っちゃったんだけど……」
「谷岡は女性にももてるのか?」
「いや、その看護師さん、男の子だから……」
その瞬間、水口先輩の目の色が変わった。
「まさかそれって、あの、告白してきたとかいう看護師さん?」
「は、はい」
「断ってなかったのかい?」
あ、そういえば、あのワン吉の告白はうやむやになったままだった。
ふと私は考えた。
あの告白が、あの時ではなく、もしも今だったら、私はどう返事していただろう?
あの頃よりも、ワン吉との距離が確実に近付いている今だったら、私はその告白をどう受け取ったのだろう?
「だから、谷岡は危険な目に遭うんだよ」
水口先輩の言葉で、私は話が途中だったことを思い出した。
いや、遭ってないし。
オチはこれからだったし。
「危険な目には遭ってないですよ、襲われてもないですし」
私はそう言いながら、ふと考えた。
「でも、恋愛対象としてないのにいつまでも期待を持たせていたら、よくないんじゃないかな?」
そして、まさに、水口先輩のお説教が始まろうとしていたその時に、私の携帯が鳴った。
「もしもし」
これ幸いと電話に出ると、電話の向こうから舞ちゃんの声がした。
「先生、河合さんの陣痛が始まりました。これそうですか?」
河合さん、と聞いて、私の頭の中で、ずっとかかっていた靄が晴れたのを感じた。
「わかった。すぐ行く!」
水口先輩には申し訳ないと思ったが、今は一人になって考えたかった。
河合さんの赤ちゃんがもうすぐ生まれる。
赤ちゃんは、本能で、自分の本当の父親を知っている。
もしも今、河合さんの赤ちゃんが、本当の父親を見たならば、『パパ』というのではないだろうか?
そして、その『パパ』は、憎むべきレイプ犯だ。