君の隣
その日私は当直明けで、代務先に向かおうとしていた。
少し時間に余裕があるから、途中どこかでお茶しようかななんて考えながら。
そして、公園に差し掛かった時、意外な人物を見かけた。
「笹岡君!」
何で、ワン吉がこんな時間にこんなところにいるんだろう?
実は、不審者?
まあ、いいか、ちょうどNICUに入院しているみんなのこと聞きたかったし。
荘ちゃんの事とか、梓ちゃんの事とか。
よし、善は急げだ!
私は手近なところにあったベンチに腰かけた。
「笹岡君、缶コーヒー二個、買ってきて!」
やっぱり朝はコーヒーでしょ!
朝の冷たい風が吹き付けてきた。
「温かいやつね!」
ワン吉にそう叫ぶと、わかりました、と言いたげに、左手をあげて走って行った。
戻ってきたワン吉は、私にコーヒーを手渡すと、隣に腰かけた。
目の前を幼稚園ぐらいの少女が父親と手をつないで笑顔で通り過ぎて行った。
いつか、梓ちゃんとお父さんも、あんなふうに仲良くなれたらいいな、と、思っていると、隣のワン吉が私のほうを向いた。
「先生、梓のお父さんって……」
「何で知ってるの?」
何で、梓ちゃんのお父さんの秘密知ってるの?
私だけの秘密のはずなのに!
読心術か?
読心術なのか?
呆然としているワン吉を見て、私は、自分がとてつもなく早とちりしたらしいことに気付いた。
……ヤバい。
「あ、い、今のナシ!今の発言ナシ!今の発言忘れて!さ、話、続けて!」
「梓が父親のこと、『パパ』じゃなくて、『オジサン』って呼んでたから、何かあったのかな、と思って」
頭を漬物石で殴られたような衝撃が走った。
何でだろう?
何で、『オジサン』なんだろう?
あんなに頑張っているのに。
あんなに一生懸命なのに。
その時、私の中の悪魔がささやいた。
『声』が聞こえるワン吉には、いつか真実が知れてしまうかもしれない。
それならいっそ、言ってしまえ、と。
「ねえ、聞きたい?梓ちゃんのパパのこと」
「聞いても、いいんですか?」
「誰にも言わないって約束してくれるなら」
ワン吉が、私の目を見て頷いた。
それを見て、何故かはわからないけれど、ワン吉は信頼できるんじゃないかと思った。
目を閉じて、大きく深呼吸した。
風の音以外、周りには何も聞こえない。
ゆっくりと目を開け、こちらを真剣に見ているワン吉を見た。
「梓ちゃんのパパ、不妊症なの」
私一人で抱えるつもりだった秘密を、話してしまった。
でも、不思議と後悔はなかった。
一つだけ、後悔があるとすれば、まだ口を付けていない缶コーヒーが、冷めてしまっていること。
外が寒いというのに、冷めきったコーヒーか……。
ワン吉にもうひとっ走りしてもらうのはさすがに気が引けるな。
自販機ってどこだっけ?
周りを見渡していた私は、自販機ではないところに釘付けになった。
中山志乃。
友人らしいセレブなご婦人たちとちょうど出くわしたところだった。
「中山さん、お二人目はもうそろそろですの?」
「もう少し先でございます」
その声が聞こえてきて、やはりそこにいるのは中山志乃なのだと確信した。
「一人目の子のことがありましたでしょう?だから、あまり無茶させないようにしておりますのよ。家からもなるべく出ないように言いつけておりますし」
それじゃあ、静香さんがどれほど荘ちゃんのことを想っていても、会いに行けないじゃない!
「またあんな風になってしまってはね、あら、失礼」
その言葉を発した女性に見覚えがあった。
彼女もまた、大手財閥で、中山志乃のライバル会社の社長夫人だった。
あの口調は、全く失礼したとは思っていなさそうだ。
それどころか、痛いところをついてやったような雰囲気だ。
いくらライバルであったとしても、言っていいことと悪いことがある。
「あら奥様、気になさらなくてよろしいですよ」
中山志乃が、大人しく引き下がるとは思わなかった。
「あのような出来損ないの子供、中山家の跡継ぎにするつもりなど、髪の毛ほども御座いませんでしたから」
老婆の高笑いが聞こえた。
……荘ちゃんが、出来そこない?
誰のせいで、早く生まれたかわかってるの?
誰のせいで……!
私はベンチから立ち上がった。
同時に、隣にいる人物が立ち上がった。
ん?
隣にいる、ワン吉を見た。
同じようにこちらを見たワン吉と顔を見合わせて、行動が被ったことに気付いた。
ワン吉、盗み聞きしてたのがばれるからやめときなさい。
しかも相手が悪すぎる。
って、それは私も同じか。
不意に冷静さを取り戻した私は脱力して元のベンチに腰かけた。
同時にワン吉も座った。
またしても、行動がかぶった。
ワン吉が私のまねをしているに違いない。
恐る恐るワン吉のほうを見ると、ちょうどワン吉もこちらの様子をうかがおうとしているところだった。
ダメだもう無理!
二人で大爆笑してしまった。
中山志乃は、セレブ達と、公園から出て行くところだった。
一見セレブ達と穏やかに笑い合っているようだった。
だが、荘ちゃんのことを「あんなふう」と言い放ったそのご婦人を見るときの眼光だけ、何だか鋭かったような気がした。
他人に荘ちゃんのことを悪く言われたくなかっただけかもしれない。
本当は、強がっていたのかもしれない。
何となくそう思っていると、ワン吉が私の顔を覗き込んできた。
「先生、怒りにいかなくてよかったんですか?」
「笹岡君こそ!」
そして、二人でまた笑いあった。
隣にいたのがワン吉でよかった。
ワン吉が、隣で怒っていなければ、私はきっと暴走していたに違いない。
その存在が、何故だか心地よかった。
何だかほっとしながら、冷めた缶コーヒーに口を付けた。
缶コーヒーは冷め切っていたけど、何だか心は温かかった。
私はまだその想いに、名前を付けられないでいた。




