苦悩の果てに
よし、今日の診察終わり!
うーん、と伸びをしていると、舞ちゃんが走ってきた。
「先生、川嶋さんが破水したそうです!」
「え?」
予定日は、まだだいぶ先だったと思うんだけど……。
本当は、もう少し、お母さんのお腹の中にいてほしかったけれど、分娩を抑制できず、赤ちゃんは、出てきてしまった。
赤ちゃんはすぐにNICUに入院してしまったけれど、1630グラムあるし、呼吸状態も良好だし、まあ、良しとするか。
あとは、新生児のドクターに託すしかない。
NICUに連れて行かれる赤ちゃんと、奥さんを交互に見ながら、川嶋さんの旦那さんは、おろおろしていた。
それから一週間経った。
廊下を歩いていた私は、俯いて歩く川嶋さんの旦那さんとすれ違った。
「こんにちは」
「あ、翠先生!」
挨拶だけしてそのまますれ違うと、川嶋さんは、引き返してきて、私の腕を握った。
「ちょっと、いいですか?」
その、深刻そうな表情に、私はうなずくことしかできなかった。
私と川嶋さんは中庭に出てきた。
「あ、コーヒー、買ってきますね」
「いやいや、私が行ってきますよ」
さすがに患者さんのご家族をパシリにするわけにはいかず、私は自販機へと駆け出して行った。
温かいコーヒーを2つ手に持って戻ってくると、川嶋さんは激しくうなだれていた。
「あの……?」
「あ、先生、ありがとうございます。何か、すみません」
このうなだれよう、そして、私に話があるってことは、奥さんに何か、あったのだろうか?
もし、そうだとしたら、川嶋さんの奥さんはまだ入院中だし、病棟の誰かから話が来ても良さそうなのに……。
考えながら、コーヒーの缶を開けていると、隣から川嶋さんが話しかけてきた。
「あの、先生」
呼ばれて私は川嶋さんを見た。
「先生には、僕は、梓の父親に見えますか?」
梓、というのは、川嶋さんの娘の名前だ。
「もちろん」
私はしっかり頷いた。
ワン吉からも、川嶋さんのパパが一番熱心にお見舞いに来ていると聞いていたこともあって、私には迷いがなかった。
私の答えに、はにかんだように微笑んだ川嶋さんは、再び視線を落とした。
そして、地面に吐き捨てるように、呟いた。
「僕には、僕は、梓の父親には見えない」
冷たい風が、吹き付けた。
「僕は、梓の父親になろうとしているだけなんじゃないかって、梓を愛そうとしているだけなんじゃないかって、ただ、頑張っているふりをしているだけなんじゃないかって、そう思うんです。僕と梓には、血の繋がりがないから。僕は、梓の本当の父親じゃないから」
川嶋さんの言葉を吹き消そうとするかのごとく、さっきよりも強い風が吹いた。
風の冷たさに、私は身震いしたが、心の中には、何か、熱いものが湧き上がろうとしていた。
違う、何かが違う。
私も一度、そう思ってしまったことがあった。
血の繋がりのない親子は、本当に、親として、子として、互いに愛し合えないんじゃないかと考えてしまったことがあった。
でも……。
私は、ワン吉の言葉を思い出した。
「血の繋がりがあるなしにかかわらず、親と同じくらいに、大切に、想うことはできると思います」
きっと、崇君があの時、お母さんやお父さんと同じようにさやかちゃんのことを想っていなければ、『悲鳴』をあげながらその名前を叫ぶことはなかっただろう。
友達を想うように、恋人を想うように、親や家族を想うように、大切に想いあうことは、きっとできるはずだ。
「川嶋さんは、奥さんを愛していますか?」
川嶋さんは、キョトンとした顔でこちらを振り返った。
「ええ、はい、もちろん」
「川嶋さんの、お父さんやお母さんを想うように大切にしていますか?」
川嶋さんは、不思議そうに頷いた。
「じゃあ、大丈夫です」
川嶋さんは、呆然と私のほうを見ていた。
「お父さんやお母さんを大切にするように、奥さんを大切にできるのだから、愛することができるのだから、梓ちゃんのことも、同じように大切にできますよ」
私は、川嶋さんの手を握った。
「私には、川嶋さんは、梓ちゃんの素敵なお父さんに見えます」
話を聞いてもらえてすっきりしたからか、私の励ましが効いたのか、川嶋さんは、中庭に入ってきたときより幾分明るい表情で、出て行った。
川嶋さんを見送った私の肩を誰かがポンとたたいた。
振り返るとそこに、見知らぬ入院患者さんがいた。
「べっぴん先生、新しいカレシ見つかったかね。よかったよかった」
……何の話?