苦悩
「先生それ……」
受付の子が私が手にしているものをちらりと見た。
「リ●ビタンDですか?」
「リポ●タンDですよ」
これから診察する、最後の二組には、気合が必要だ。
ファイトを、一発どころか百発くらい入れなければならないのだ。
…………よし。
空き瓶をごみ箱に捨てると、私はしっかりとした足取りで、診察室へと向かった。
「ありがとうございました」
夫婦が診察室の扉から出て行った。
ものすごく気合い入れたけど、デジカメも用意してたけど、今日は川嶋さんが先だったのね。
少しだけ拍子抜けしながらカルテに記録していると、扉が開く音がした。
忘れ物でもしたのかしら?
それとも、何か質問?
軽い気持ちで振り返った私は言葉を失った。
そこにいたのは、川嶋夫妻ではなく、中山志乃だった。
「ま、まだ、お呼びしていませんけど……」
驚きはしたが、何とか冷静に言葉を紡いだ。
今まで私との約束を守って診察室にないって来ることはなかったというのに。
静香さんの身に、何かあったのだろうか?
ところが、中山志乃は、慌てる様子は見せず、先ほど川嶋夫妻が立ち去って行った方向を一瞥してから、私を睨みつけた。
「先生、これは、どういうことですか?」
どういうことって、どういうことですか?
「先刻、こちらの扉から、妊婦と、そのご主人が出てこられましたよね」
中山志乃の唇は、わずかに震えていた。
「谷岡先生は、私に、診察室には原則的に患者一人で入室するようおっしゃったはずです」
再び私をにらみつけた彼女の迫力に気圧されそうになりながら、私も中山志乃を見つめ返した。
「生まれてくる子供の父親が入室を許されて、生まれてくる子供の祖母である私が許されないというのは不公平です」
よほど悔しかったらしく、中山志乃はまくしたてるように言った。
「生まれてくる子供にとって、父親も、祖母も、同じように血の繋がりがあるのです。父親が診察室への同行を許可されるのであれば、祖母である私も、当然、同行を許可されるべきです」
父親が、我が子を大切に思うように、祖母も我が孫が大切だ。
きっと、そう言いたかったんだろう。
それでも、その言葉が心に突き刺さったのは、私が今必死で守ろうとしている、川嶋さんの父子の絆が、弱く脆い絆が、血の繋がりがない、たったそれだけのことで、川嶋さんの力ではどうしようもなかったことで、すべてを否定されているような気がしたからだ。
今日の診察が終わった。
私は机に突っ伏した。
リ●Dでは、乗り切れないことを悟った。
不意に背後から肩を叩かれた。
「先生、どこか具合でも悪いんですか?」
あ、ワン吉だ……。
「ワン……」
「わん?」
「笹岡君、飲みに行こう!」
危ない、気が抜けてた。
「ふぅ……」
反射的に、ワン吉を飲みには誘ったけれど、お酒が入っても私のテンションは一向に上がらなかった。
原因なんてわかりきってる。
でも……。
「先生、お水、頼みましょうか?」
なんだかワン吉ごときに気遣われてる……。
「大丈夫、酔っぱらったわけじゃないから」
ワン吉が心配そうにこっちを見ている。
何だか、飼い犬に心配されてるような気分だわ。
「俺でよければ、話とか、聞きますよ」
ワン吉の優しさに、心が揺らいだ。
でも、私には、守秘義務があるし、この問題はとてもデリケートだ。
でも、誰かに聞いてほしかった。
私の心の内を、聞いてもらえるだけでよかった。
幸いなことに、ワン吉は、川嶋夫妻のことを知らない。
名前を伏せてしまえば、何の事だかわからないはずだ。
「血の繋がりのない親子って、本当に、親として、子として、お互い愛せると思う?」
何気ない会話のように話しながらも慎重に言葉を選んだ。
ワン吉を見ると、少し考えた後に、何か思い出したように話し始めた。
「俺は、血の繋がりがあるなしにかかわらず、親と同じくらいに、大切に、想うことはできると思います」
大切に、想う……。
友情も、恋も、相手のことを大切に想うことだと思うけど、それは、親子の絆と同じものなのだろうか?
「ベビーの話なんですけどね」
ワン吉よ、いくら『声』が聞こえるキャラだからと言って、何でもかんでも赤ちゃんにつなげればいいってもんじゃないのよ。
それに、なぜ、いま、ベビーの話?
「その命が尽きようとするとき、あいつら、『悲鳴』をあげるんです」
「あっ!」
「先生、覚えてたんですね」
「うん」
私はまだ覚えていた。
交通事故に遭ったお母さんが搬送されてきたときの、ワン吉の悲壮な表情を。
ワン吉から聞いた、『悲鳴』の話を。
赤ちゃんは、その命が尽きようとするとき、断末魔の叫びのような、『悲鳴』をあげる。
って、ワン吉、絶対私の話忘れてるだろ!
「その時、ベビーたちは、本当に大切なものの名前を叫んでるんです」
そういえば、あのときのあの子も、『ママ、大好きだよ!ママ、生きて!』って、ずっと、叫んでたんだっけ。
「大抵叫ぶ名前は父親とか母親なんです」
それは、本能が、そうさせているのだろうか?
血の繋がりというものが、DNAの情報が、彼らの本能にそうさせているのだろうか?
だとしたら、血の繋がりのない彼らは……?
「だから、俺、血の繋がりが、そう呼ばせてるのかと思ってました。でも」
「でも?」
「崇の時は、違ったんです」
崇君。
たった一か月足らずの短い生涯で幕を閉じてしまった赤ちゃんだ。
「崇は、悲鳴をあげながら、父親と母親のほかにもう一人の名前を叫んだんです」
「もう一人?」
そう言いながら、湯川さんの両親や旦那さんの両親が、遠方に住んでいて、親戚縁者はほとんど見舞いに来なかったことを、私は思い出していた。
もう一人って、誰?
「さやかです」
「え?」
予想だにしていなかった答えに、私は間抜けな返答をした。
「崇は、結構聞きたがり屋で、いつもさやかにいろんなことを聞いていて、二人は傍目にも仲良しでした」
「ただの仲良しってだけで叫べるなら、皆、もっといろんな人の名前を叫びそうだけど?」
「俺も、二人はただの仲良しだと思ってたんです。でも、手術前夜に、崇が俺に言ったんです。さやかのことが、好きだって。それは、友達とは違う、特別な、好き、だって」
「そして、崇君は、自分の命が尽きそうになったその時に、特別に、好きだったさやかちゃんの名前を呼んだのね」
ワン吉はうなずいた。
「だから、俺は思うんです。血の繋がりがあるなしにかかわらず、人は、人を、大切に想うことができるんだって」
そうだ、きっと、川嶋さん親子も、大切に想いあえる。
お父さんの優しさは、きっと、伝わる。
少しだけ、気分が明るくなった。
「あ」
「どうしたんですか?先生?」
「笹岡君、ちゃんと質問覚えてたんだね」
「おれ、どれだけ頭悪いと思われてるんですか?」
……強いて言うなら犬レベル?