聞こえてしまった
こんにちは赤ちゃんと一つにまとめられたらと思ったのですが、いときりばさみの乏しい文章能力では、無理でした。
そんな残念な理由から始まりました本作ですが、温かく見守っていただけると幸いです。
その日、私はむしゃくしゃしていた。
「芋焼酎!原液で!」
固まる店員。
振り返る客たち。
「あの、飲み方は、ロック・水割り・ソーダ割りのどれに……」
「原液」
再び固まる店員。
苦笑いを浮かべながらこちらの様子をうかがう客たち。
「翠先生、いくらお酒が強いからって、そんな無茶言っちゃダメですよ!あの、水割りでお願いします」
集まって行く視線に耐えられなかったのか、私の向かいに座っていた舞ちゃんが言った。
舞ちゃんに優しく言われて、へらへらと笑いながら去ろうとした店員の腕を、私は掴んだ。
「原液じゃないならロック。最低でもロック。わかったわね」
店員の怯えたような瞳を見つめながら、言いたいことだけきっぱり言って、彼の腕を解放した。
店員は、震える手でオーダーを書き直すと速やかにその場から立ち去って行った。
「はあ、まったく……」と、目の前に座っている舞ちゃんがため息をついた。
「ホント、居酒屋なんだから酒くらいケチケチしないで原液で出してほしいよね」
「そっちじゃありません!」
舞ちゃんにギロリと睨まれて、私は頬杖を突こうとしていた手を思わず膝に持って行った。
「先生、せっかく美人なのに睨むから、店員さん怯えてたじゃないですか!」
ちょっとイケメンだったのに、と、舞ちゃんはもう一つため息をついた。
「いいの! 私は出会いなんか求めてないんだから! 酔っぱらわなきゃやってられないんだから!」
なんて言うから、自業自得だけど、今日の出来事を思い出してしまった。
それは、今日の最後の診察の時だった。
「大事なお話の時にはちゃんとご同室いただきますから……」
ある出来事があったために、私は、この妊婦の診察の時は妊婦一人で診察室に入ってほしいと願い出た。
「貴女、そのようなことがまかり通るとお思いなのですか? 上の子の時のようになったらどう責任を取るおつもりで?」
そう、それは、目の前の老女、の後ろに申し訳なさそうに座っている嫁、中山静香さんが最初の妊娠の時に……って、それはあんたのせいだろうが!
のど元まで出てきた言葉をぐっとこらえた。
静香さんの第一子の荘太君は、早産で生まれてきたのだ。
ほんの少しだけ早かったなんてレベルではない。四三〇グラムで彼は外の世界に出てきてしまったのだ。
そして荘太君は、今でもこの病院のNICUに入院している。
私は、早産の一因は、この姑、中山志乃が、静香さんに与えた度重なるストレスだと考えている。
だからこそ、なるべく、ここに来る時だけでもストレスがかからないようにと、妊婦一人だけで診察室に入ってきてほしいと願い出たのだが、この姑に全く聞き入れる余地はないようだ。
「貴女と話していても埒があきません」
珍しく、この老女と意見が一致したと思った。
だが、それは、さらなる波乱の幕開けにすぎなかった。
相手が悪すぎた。
中山志乃は、ただの老女ではなく、大手財閥の名誉会長なのだ。
金も権力も持ち合わせ、この病院で顔の利くこの老女は、診察室を飛び出すと、直ちに産婦人科の医局長と病院長に立て続けに抗議していった。
医局長からは主治医から外すと宣言され、病院長からは次に問題を起こしたらクビだと言われた。
何でもかんでもあの姑の言いなりになってたら、元の木阿弥じゃない!
また、あの姑のストレスで、静香さんがボロボロになってしまったり、お腹の子にも影響が出てしまったりしたらって、誰も考えないの?
自分が原因だと気付かないあの姑にも、権力に弱すぎる上司たちにも、そして、無力すぎる自分自身にも、すべてに苛立って、私はむしゃくしゃしていた。
「あーもう、やっぱり腹が立つ!」
物思いにふけっているうちに目の前に置かれていたジョッキの中の芋焼酎を呑み干した私は、ドン、と音を立ててジョッキを置いた。
「先生、こちらの世界に戻ってきました?」
あれ?舞ちゃん怒ってる?
「やっぱり舞ちゃんも腹が立ったよねあの……」
「病棟看護師の私が、今日外来で先生がねちねち怒られた一件なんて知るわけないじゃないですか」
いや、その言いっぷりは絶対知ってるでしょ。
「それよりも、私は出会いなんか求めてないんだから! ってどういうことですか? 三十年近く素敵な出会いに恵まれていない私に対する嫌がらせですか? ケンカ売ってるんですか? 売ってますよね?」
何だか舞ちゃんのめんどくさいスイッチが入ってしまった。
「そんなことないよ」
「先生は、あちこちに出会いがあふれているからそんな発言ができるんですよ!」
舞ちゃんは理想が高すぎるだけだと思ったけれど、火に油を注ぐ結果になることは間違いなかったので私はおとなしくおかわりの芋焼酎を呑んでいた。
「だからね、先生、私に、イケメンを紹介してくれたらいいと思うんです」
ん?
「今年の産婦人科はハズレしかいなかったから」
うわあ、今年のフレッシュな先生たちかわいそう。
「今年の一番のイケメンはやっぱり小児科の纐纈先生だと思うんですよね」
「へ? コーケツ?」
「先生まさか知らないんですか?」
「いや、えっと、あ、あの川鍋教授の秘蔵っ子ね」
私がその存在を思い出したのは、舞ちゃんの目つきが怖かったせいではなく、舞ちゃんの向こう側にちょうど纐纈先生が友人らしい男性と腰かけたからだった。
「やっぱり翠先生でも顔と名前が一致するくらいのイケメンなんですね! 私の目に狂いはなかったわ!」
いや、あなたの後ろに……とは言えず、私は、舞ちゃんの向こう側の二人をぼんやり見つめていた。
「ほら、先生って、産婦人科の先生だし、纐纈先生は、小児科の中でも新生児の担当だから、コミュニケーションをとる機会っていっぱいあると思うんですよ……」
一生懸命に舞ちゃんが話している向こう側で、二人に生ビールが届いていた。
「それでね、纐纈先生は飲み会にめったに参加しないから……」
纐纈先生は飲み会には参加しないけど、ビールが飲めなかったわけじゃないんだなと、何となく思いながら二人の様子を眺めていると、ビールに手を伸ばした友人の手を纐纈先生はおもむろに制止した。
飲み屋に来て「待て」ですか?
その隣で、友人らしい男の子は、一瞬恨めしそうに纐纈先生を見たが、ちゃんと「待て」を続けていた。
エライエライ。なんかワンちゃんみたい。
「纐纈先生って、ホントすごい先生なんですよ!」
舞ちゃん、今、あなたの後ろでそのホントすごい先生はお友達に「待て」を強要してるよ。
「今日も、赤ちゃんの様子だけで、異変に気付いて、助けたって話ですよ! あと少し発見が遅かったら、命取りになってたって……」
嬉しそうに言う舞ちゃんの向こう側で、纐纈先生の低い声がした。
「酒が入る前に聞きたい、笹岡は、どうやってあの子の異変に気付いたんだ?」
「きっと、すっごく優しいから、子供の様子とかちゃんと見てるんですよ! いい旦那さんにもなりそうですよね!」
舞ちゃん、今、纐纈先生、全然違うこと言ってたよ!
この場合、舞ちゃんが耳にした噂よりは、当事者である纐纈先生の話の方が、信憑性があるだろう。
まして、普段飲み会に行かない先生が、わざわざ居酒屋に連れてきてまで話そうというのだから。
ああ、あっちに行ってめっちゃ聞きたい!
でも、そうしたら、舞ちゃんの話をちゃんと聞いてないことがバレる!
もやもやとした思いを抱えながら、私は二人の会話に耳を澄ませていた。
「様子とか?」
少しの間黙っていたササオカ君が、何とか発したその言葉は、果てしなく嘘くさかった。
「様子なら俺だっていつもくまなく見ている。どういう違いがあって、あの子の調子が悪いって気付いたんだ?」
そして一瞬にしてその嘘くささは見抜かれていたようだった。
纐纈先生が必死だ。
纐纈先生のことはよく知らないが、川鍋教授は知っている。
ものすごい観察眼を持っていて、ほとんどの赤ちゃんの微妙な異変に気付いたという定評がある医者だった。
その秘蔵っ子である纐纈先生に、観察眼が備わっていないとは考え難いし、纐纈先生が観察眼で負けたとなれば……。
産婦人科医として、新生児にも関わる身である私も、知りたいと思った。
ササオカ君の目は、ビールと纐纈先生の間を行き来した。
あ、ビール、飲みたいんだ。
でも、まだ、「待て」は続いているよ、ワンちゃん。
何だか、纐纈先生に見つめられたまま固まっているその様子は、大型犬と対峙しているチワワのように見えた。
「楠木さんにも聞いてみたが、笹岡にはどうしてだか赤ちゃんの異常を見分ける能力があるらしいとしか教えてもらえなかった」
追い打ちをかけるように大型犬、もとい纐纈先生に言われて、ササオカ君は一瞬驚いたように顔を上げたが、纐纈先生の射抜くようなまなざしを見て、すぐに目を伏せた。
「待て」の次は「伏せ」なの、チワワ君?
しばらく目を伏せたまま考え込んでいたチワワ君、じゃなくてササオカ君は、ちらっと纐纈先生を見た。
まだ睨まれてるよ、チワワ君。
あ、やっぱり目を逸らした。
でも、次に纐纈先生の方を見たチワワ君の目を見て、私は、次は彼が本当のことを話すような気がした。
「信じられないことだと思うんだが、俺は、赤ちゃんの『声』が聞こえるんだ」
泣き声の聞き分けができるってことかしら?
それなら別に、信じられないって程のことでもないと思うんだけど。
「声だったら、普通、聞こえるだろ?」
纐纈先生も、同じように思ったらしい。
「纐纈も、聞こえるのか?」
って、チワ公、リアクションが大げさすぎるって。
私だって、多少赤ちゃんの泣き声の聞き分けくらい……。
そう思っていた時、チワ公の口から意外な言葉が出てきた。
「赤ちゃんの泣き声じゃなくって、その、何ていうか、赤ちゃんの『想い』が『声』として聞こえるんだ」
いやいや、それはないでしょう。
意外すぎる言葉に、私は、何杯目かわからない芋焼酎のロックを一気に飲み干してしまった。
でも、現実的ではないその話を、そこにいるワン吉君はあたかも真実のように話していた。
もしそれが、真実なのであれば、本当に、赤ちゃんの『想い』が、『声』として、ワン吉君に聞こえているのであれば……。
私は、今日の出来事を思い出した。
そして、本当は、忘れてはいけない大切な命のことを思い出した。
私には、聞きたい『声』がある。
私には、知らなければならない『想い』がある。
もしも、本当にワン吉君に『声』が聞こえるのであれば……。
そうだとしたら……。
私はいつも、考えるより前に行動に出てしまう。
思いついた瞬間に立ち上がっていた私は、飲みすぎていたせいか少しふらついた。
「先生、お手洗いですか?」
舞ちゃんの声は聞こえなかったことにして、私は、ワン吉、もとい、笹岡君のもとへと歩いた。
何かふらふらするから、肩にのしかかってしまえ!
「ねえねえ、今の話、本当?」
あれ? 何だかすごくきょっとーんとされてるぞ?
ま、いっか。
「赤ちゃんの、『声』が聞こえるとか……」
「ちょっと、翠先生!」
あれ? 舞ちゃん?
私は抵抗もむなしく、店の外へと連れ出されてしまった。
「ちょっと、舞ちゃ……」
「先生!」
あ、舞ちゃん怒ってる。
「何で纐纈先生があんなに近くにいたこと、教えてくれなかったんですか?」
そっち? 怒るとこ?
「私ったら、そうとは知らずにあることないこと……」
……言っちゃったんだ。
ドンマイ、舞ちゃん!