灰色の幽霊船
初投稿です。
その、突然ですけど、この前机を整理していたら懐かしいものが出てきました。
「紙を3枚使って物語を書きなさい」
--はい、学校の宿題でした。先生無茶振りでした。かなり苦労いたしました。
えーと、とにかくそれを見つけちゃったんですけど、なんだか捨てちゃうのももったいなかったので、せっかくなんで投稿してみようと思い至りました。
その、そういう訳なので、一応はある程度修正はしたんですけど、あちこち荒かったり読みにくかったりするかもしれません。
もともと、これをクラスで発表したところ、後日クラスメートから総スカンを食らっちゃった様なお話なんで……。
と、とにかく、一度読んでいただけると幸いです。
色々問題のあるお話ですけど……。
微睡みの中に居る--。
脳機能の一部が腐敗し、
動物の一種にしかすぎないヒトが人間である為に必要なナニカが欠落しているかの様な喪失感。
--この感覚には覚えがある。
そう、あれはいつかのパーティー。
なにかとても嬉しいことがあって、
なにかとても美味しい料理を食べて、
全てを忘れて騒いだ夜。
ついつい羽目を外して、全身の血管を満たすかの様に、際限なくアルコールを胃に運んだ日。
テーブルのチキンを食い散らかして、
パスタやサラダの皿を片っ端から抓んでいったあの日は、
本当に楽しかった。
--ただ、ふと疑問が過ったのだ。
生きていた生物をバラバラに千切り、グジャグジャに丸めて火で炙る。
精一杯生を謳歌していた生物を惨殺し、骨までしゃぶりながら涎を垂らす。
客観的にみれば、どこまでもグロテスクで、吐き気が堪えられない所業。
ならば--、
ヒトが人間たる理性を無くした時、
その生き物と**に、違いなどあるのだろうか、と--。
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額に落ちた水滴で目が覚めた--。
湿った空気が頬を撫でる。
まるで腐敗したゴミ山に埋められているかの様な不快感の中、朽ち果てた廃屋の様なカビ臭さが鼻に付く。
集中すると、微かに潮の臭いが漂ってくる様な気がした。
「--ん」
縮こまった筋肉を引き伸ばすかの様に伸びをする。
肺に軽く空気を満たし、両腕を頭上で組んで--。
「--へ?」
組めなかった。
煤みたいな闇に満たされた、生温い空間。
視覚情報が完全に遮断されたその場所で、僕がどんなに手を持ち上げても、手はいっこうに動いてくれない。
「何だ--?
どこなんだ?ここ--」
寝起きの為にまだよく働かない頭で、身体をゆっくり起しながら、僕は何とかその言葉だけを口にした。
--わからない。
この真っ暗な場所が何なのか、
僕が今どんな状況なのか、全くもって理解出来ない。
感じられるのは、両腕に付いている冷たいナニカと、腕を動かす度に鳴る、ジャラジャラという耳障りな音のみ。
暫し途方に暮れていると、やがて寝ている内に機能を低下させていた視細胞が少しずつ周囲に順応し、辺りの光景を脳に知らせ始めた。
「--は?」
--固まった。
理解出来ずに固まった。
僕が居るのは、どうやら木造の部屋の様で、広さは6畳程で窓は無い。
暗くてよくは見えないが、部屋の床や壁、一つだけしかない扉には、赤黒いペンキみたいなモノがこびり付いていた。
--両腕が動かないのは当然だ。
なにしろ僕の両腕には、重たい手錠が掛けられている。
無意識の内に余程激しく抵抗したのか、手首の皮はベロリと剝けて、見ているとヒリヒリとした感覚が脳を刺した。
「--何だよ?
何だよ⁉これ--!!」
理解出来ない。
--拉致された?
分からない。
ただ一つだけ解るのは、このままここで待機していたら、何か取り返しのつかない事態になりかねないという、確信めいた予感だけ。
「ふっ--!!
ふぅっ--‼」
取り敢えず、両腕に付けられた手錠を思いっ切り引っ張ってみた。
--望みは薄い。
そもそも手錠とは、人を逃がさない為に存在している器具であって、この程度で壊れては拘束具としてのアイデンティティーに関わるであろう。
だが、特に何の考えも無く、ほぼ無意識的に行ったその行動はしかし--、
「--あれ?」
つい、間抜けな声を上げてしまった。
人の自由を奪う為に造られた、頑丈な拘束具。
しかしそれは、僕の苦し紛れの行動により、まるで飴細工の様に砕け散ってしまったのだ。
「--古かったのか?」
--ポツリと呟いた。
古すぎて、どこか錆び付いていたのだろうか。
それとも、覚えてはいないが、僕が抵抗したせいで、小さな皹でも入っていたのだろうか。
--或いは、その両方か。
何にしても、僕を拘束した犯人は、そんなに用意周到では無いのかもしれない。
--立ち上がり、ズボンに付いた汚れを払う。
右ポケットに手が触れた時、何か硬い感触を感じ、そこに入っているであろう物を思い出した。
「--リサ」
ポケットに手を忍ばせながら、まるで呼吸をするかの様にその名前がこぼれた。
--リサ。
僕の、一番大切な人の名前だ。
僕みたいに平凡な、何の取り柄も無い男を、それでも愛していると言ってくれた女性。
落ち着いた空気と美しい黒髪が印象的な、僕の最愛の人。
世界中の誰よりも幸せにすると誓って、僕が指輪を渡した相手だ。
来月には、式を挙げる事になっている。
--ポケットから右手を取り出す。
手に取ったのは、小さなロケット。
ペンダント型の小さな写真入れ。
彼女と一緒に撮った写真が入っている、僕のお守りだ。
--帰らなくてはならない。
彼女の姿を見つめてから、一呼吸置いて、僕はそう誓った。
--扉へと歩みを進める。
歩く度に足下で鳴る、ニチャニチャという音が不快だが、僕の心は、そんな事が気にならない程強い決意で括られていた。
--ドアノブに手を掛ける。
ノブは、初めはかなり抵抗があって固かったが、体重をかけて力を入れると、何かが割れる様な感触の後に、ガクンと無抵抗になった。
「--やっぱりな」
--呟く。
はっきり言えば予想通りだ。
もしかしたら、一応は鍵でも掛かっていたのかもしれないが、おそらくはそれもかなり錆び付いていたのだろう。
暗くてよくは見えないが、少なくともこの場所は、人間1人を拘束しておくには古すぎるに違いない。
--公園で揺れるブランコの様な音を立てて、ゆっくりと扉が開かれる。
お守りのペンダントを握り締めて、僕は這う様に部屋から抜け出した。
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--独り、通路を歩く。
通路はやはり木製で、僕の居た部屋よりましではあったものの、かなり年季が入っていてカビ臭い。
そして歩いている内に、この場所についてもう一つ、新しい情報が手に入った。
「どこに向かっているんだ?」
人間に備わった、六つめの感覚。
つまりは平衡感覚を元に、その問いを虚空に発した。
--おそらくはこの場所は、どこかの船の上なのだろう。
船になど殆ど縁の無かった僕ではあったが、ゆっくりとしたこの不規則な揺れは、大洋を航海する中規模船を想像させるのには十分な物であった。
この船がどこか遠い国に向かっているとすると、もしかしたら結婚式には間に合わないかもしれないな、などと多少の不安を感じつつ、出口を探して歩みを進める。
--その時、不意に不快な雑音が耳に届いた。
僕は反射的に雑音の方へと顔を向けて--、
「----!?」
--完全に、思考が凍り付いた。
僕の視線の先に居たモノ。
それは、見た事も無い程奇天烈な、とても奇妙な生き物であった。
目が痛くなる程派手な毛皮を纏った、悪魔の様な姿。
猿の様な醜い顔には、黒縁の双眼がパックリと空いて、鋭い瞳が僕を睨み付ける。
何よりも不快なのは、その鳴き声だ。
喚き立てるその雑音を聴いていると、まるで鼓膜から心臓にへドロを流し込まれているかの様な錯覚に襲われる。
その生き物は、まるでこの世の毒を全て被ったかの様な、相対しているだけで吐き気がこみ上げる様な、そんな醜い化け物であった。
「--ひ!?
な、何なんだお前は!?」
--真っ白だった。
あまりにも異常な状況の中、僕の思考は完全に停止し、嫌な汗が止めど無く背中を伝っていた。
--化け物は動かない。
見られるだけで呪われそうなその瞳で僕を睨み付けたまま、不快な雑音を辺りに発しているだけ。
「----っ‼」
--気持ち悪い。
--気が狂いそうだ。
発狂しそうな不快感に悶えていると、やがて化け物は、その両腕を振り上げた。
--化け物が動く。
醜悪な奇声を発しながら、不気味な腕を振り回し、僕へと飛び掛かる。
「----っ‼
わ、わあぁぁぁああ‼」
--無意識だった。
僕は殆ど無意識に拳を作り、化け物の顔面を思い切り殴りつけていた。
--グシャリ、という、嫌な感触。
僕の拳が当たった瞬間、化け物の頭はまるでスイカの様に飛び散り、身体は噴水の様に鮮血を飛び散らせながら崩れ落ちた。
「--何だよ!?
何なんだよ!?コレは‼」
未だに動転した意識。
右手に感じるヌメリとした感触に身震いしながらも、同時に緊張の糸が解け、僕は床へとへたり込んだ。
未だに整わない呼吸を無理矢理に押さえつけようとしていた僕であったが、同時に何やら奇妙な感覚が、胃から脳へと走り抜けた。
「くそ。腹が空いてきた」
呟く。
僕は一体、どれくらいの間監禁されていたのだろうか。
どうやってここに運ばれたのかも分からない僕では、いくら考えても結論など出ない問いではあろうが、少なくとも今僕が感じている空腹感は、一日や二日の絶食で説明出来るレベルをはるかに超えていた。
「ヤバっ--」
--目眩がした。
起き上がろうと力を入れるが、上手く立つ事が出来ない。
否、それどころか、気を抜くと空腹感の為に気を失いそうになる。
--当然だ。
ただでさえ栄養が足りていない状況で、化け物一匹と戦えば、誰でもこうなるというものだろう。
--意識を手放す訳にはいかない。
この化け物と犯人の関係は未だ分からないが、少なくともここで倒れては、もう一度目を覚ますことがあるのかも疑わしい。
どうしようもない絶望感の中、しかし幸運にも僕の嗅覚は、その匂いを感知した。
--何だ?この匂い--。
それは、とてもいい匂いだった。
まるで炭火でこんがりと焼いたバーベキューや、極上のチキンを想像させる、そんな食欲をそそる匂い。
とてつもない空腹感に襲われている今の僕には、それが堪らなく旨そうな、天上の香りとして鼻腔を刺激する。
知らず、僕はその匂いへと意識を集中させていた。
「--!!」
しかし次の瞬間、僕はその事実に気がついて息を呑んだ。
僕の脳の深い所を刺激する、とてもいい香り。
それは、今しがた頭を失い、床へと倒れ伏した化け物が発している物であったのだ。
「馬鹿な!!」
つい、声を荒げた。
必死で頭を振り、今過った邪悪な考えを、全力で追い出そうと躍起になる。
--だが、僕の胃袋から伝わる空腹感は、そんな理性などで押さえ込める範疇を裕に超えていた。
「……やめろ」
躊躇はあった。
怪物の体に触れそうになる手を、何度も何度も引っ込めた。
だが、今思い付いた考えは拭っても拭っても消えてくれず、またその場から離れるだけの体力も、今の僕には残ってはいなかった。
「……ちょっとだけ、なら」
--掴んだ。
震える手、吐き気の充満した意識で、それでもなんとか体を動かし、怪物の腕を掴み、
……そして、ちょっとだけ齧った。
「美味いな」
瞬間、自分でも驚くくらい自然に、その言葉を漏らしていた。
ほんのちょっとだけ齧ってみた、怪物の下腕。
それは、今まで食べたステーキがゴムか何かに思えるくらいに芳醇で、ジューシーで、どうしようもなく美味だった。
--もうちょっと。
--もうちょっと。
知らず、次から次へと食が進み、気がつくと僕は、まるで貪り付くかの様に怪物に齧りついていた。
「--ふう」
すっかり腹も膨れて、一息吐いた。
一口齧ってからは、先程まで抵抗を感じていたのが馬鹿みたいに自然と口が動いて、食べるたびにまるで自分の中の何かが満たされていくかの様な爽快感と充実感を味わえた。
「よし!! 腹の虫も鳴き止んだし、さっさとこの幽霊船から抜け出すとするか」
微かに赤く染まってしまったロケットを服で拭って、僕は再び、暗い通路を彷徨い出した。
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--怪物は、僕を床に押し倒そうと飛び掛る。
辺りは例の最悪なバックミュージックに満たされて、ちょっとでもそっちに意識を向けると吐き戻しそうになる。
「--ふっ!!」
薄暗い、船の中の、ちょっとだけ拓けた通路。
3~4匹くらいの化け物達に囲まれた僕は、なんとか拳で応戦していた。
怪物の頭に拳を合わせると、醜悪な頭はおもしろい様に砕け、奇声と鮮血を撒き散らしながら彼らは床へと倒れ伏していく。
すでにぐっしょりと血に塗れ、ネトネトと体に張り付く服が不快極まりなかったが、そんなことを気にしている余裕などとうに無かったし、何より何匹かの頭を砕いてからは、そんなにソノ行為に抵抗を感じる事もなくなった。
「--シッ!!」
飛び掛る最後の怪物に拳を合わせる。
掴み掛かるその右腕を左手で弾き返し、空いた横腹にボディブローを叩き込む。
発泡スチロールの箱を思いっきり叩き割ったかの様な感触と音の後、怪物の腹には大きな穴が空き、ピンク色の臓物が薄暗い床や壁にベチョリと張り付いた。
「ふう……」
辺りに怪物がいなくなった事を確認し、僕は床に座って一息吐いた。
床は既に、怪物の血液や臓物でドロドロで、腰を下ろすとソレがズボンから染み込んできて不快ではあったが、僕の服はとっくにソレらでベトベトであったし、今更気にするのも馬鹿馬鹿しくなったので、取り敢えずは体力の回復を優先することにした。
「--ったく。何なんだ?こいつらは」
当然の疑問を、すっかり原型を無くした屍を見ながら呟き、そして思考する。
この怪物は、そんなに強くは無い。
見た目や鳴き声はひたすらに醜悪ではあるが、僕みたいな一般人がなんとか応戦できていることをふまえると、単体ではそんなに脅威とは思えない。
初めは、僕を攫った犯人たちは残らずこの怪物に食われてしまって、だから僕は、人間を一人もこの船では見かけないのだとも解釈した。
だが、それは不可能だ。
この怪物達では、寝込みでも襲わない限り、まともに人間と戦う事なんか出来はしない。
でも、それなら何で、僕は一人も犯人や、他の乗組員に出会わない?
いや、そもそも、この怪物は何で、一体どこから現れたのだろうか?
--そこまで考えて、思考は大きな腹の音に遮られた。
「くそっ。また腹が空いてきた。一体何ヶ月断食させられてたんだ?」
勿論、後半は冗談ではあったが、僕の空腹感は、既にそうでもなければ説明不能なレベルにまで高まっていた。
もしかしたら僕は、寝ている内にこいつらに血でも吸われていたのかもしれない。
--寝ている僕の首筋に齧り付く、醜悪な化け物の姿。
嫌な想像を振り払うかの様に頭を振って、僕は化け物の腕を手に取り、
--そして、例の如く齧った。
なんとも言えないジューシーな肉汁が口いっぱいに広がり、芳醇な香りが鼻腔から抜ける。
「--ん?」
ふとそこで、その怪物の手には奇妙な紙が握られている事に気が付いた。
色からすると、新聞記事の切れ端だろうか?
僕はなんとなくソレが気になって、死後硬直が始まって僅かに硬くなりだした怪物の指を広げ、その記事を確認した。
『--新種のウイルスが発見される
今年四月。ドイツの研究チームが、同月に起きた住民の暴動が新種のウイルスによるものであると発表。各国から注目を集めている。
同研究チームによると、ヒトがこのウイルスに感染すると、夜間には正気を失い、ヒトが判別出来なくなり、無差別に人を襲いだすという。
脳に感染するウイルスはこれまでも多く発見されてはいたが、ここまで強い精神障害と身体的変化を引き起こす種類は過去に例が無く、また感染者の危険性も加わって対策は難航している模様。
治療法は、まだ発見されていない』
「--は!?」
瞬間、自分の中の血が凍りついたかの様な錯覚を味わった。
--まさか、人間?
--この怪物は、元々は人間だったっていうのか?
「違う!!そんな、そんなわけが!!」
吐きそうになった。
訳のわからない感情が胃の中で渦を巻いて、意識すらも不明瞭になってきた。
だが、今の僕は、そんな事を気にする余裕が無いほど栄養が足りていなくて、なんとか自分を誤魔化さないといけなくて--、
「--コレは、人間じゃない。
コレはもう、人間じゃない!!」
齧った。
今の嫌な妄想を振り払うかの様に、何度も何度も怪物に噛り付き、口元は真っ赤に染まっていった。
--仕方ない。
襲ってきたのはこいつらだし、僕はどんな事をしてでも帰らなくてはならないんだ。
--リサ。
許して、くれるよね?
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--暫く通路を歩いていると、ついに船の甲板へと出た。
海の上で見上げる夜空には、光年の銀河が美しく映し出され、血まみれになった体が洗われていくような気がする。
運動したあとの体には、皮膚を撫でる潮風が心地よかった。
「さてと」
脱出は、もう目前だ。
軽く眺めただけでも、遠くには薄っすらと明かりが見えている。
あれが街だとすれば、あとは小船でも奪ってそこまで逃げればいい。
陸に着いたら、すぐに家に帰って、心配しているだろうリサを思いっきり抱きしめてやろう。
--そうだな。それから、式は予定よりもずっと派手な物にしよう。
彼女は照れるかもしれない。
彼女はそんなに派手好きじゃないし、大げさな式にしたら、ちょっとあたふたして拗ねるかもしれないけど、きっと喜んでくれるはずだ。
心配かけた分、僕は彼女を幸せにしないとな。
--でも、その前に、
「どけよ、化け物」
木製の、小さな小船の前。
そこに佇んでいた最後の怪物に向けて、僕はそう言い捨てた。
怪物は、例の醜悪な姿で、僕を睨み付けている。
差し詰め、僕の脱出を阻む最後の障害というところだろうか。
僕の言葉を理解しているのかは定かでは無いが、怪物はゆっくりと、僕に向けて歩みを進めだした。
「どけって言っているんだ」
再び、怪物に向けて声を発する。
--僕は、何を言っている?
怪物ならば、人間の言葉など理解できるはずが無いじゃないか。
ならば、いくら声をかけても、そんなものは徒労に過ぎないはずである。
--だからきっと、そうしてしまった理由は、その怪物が他のモノとは少し違っていたから。
今までの化け物は、出会うなり奇声を発して僕に飛び掛ってきたのに、こいつだけは妙に落ち着いている。
落ち着いたまま、ゆっくりと、僕のそばまで歩み寄って来る。
「……やめろ」
何かを言っている。
耳障りな、不快な雑音が、僕の耳に流れ込んでくる。
怪物は、その右手を僕の首筋にまで伸ばし--、
「やめろと言っているんだ!!」
--殴りつけた。
僕の体に触れようとした怪物の腹を、右の拳で思い切り殴りつけた。
怪物の体には、ドーナツみたいに大きな穴が空いて、ソレは臓物をビチャビチャと垂れ流して、どっさりと甲板に倒れこんだ。
口元から血反吐を吐きながらも、怪物の口は、ぶつぶつと不快な奇声を発し続けていた。
「なんだったんだ?こいつは……」
微かな違和感。
しかしそんな事を気にする間でも無く、僕の腹は例の強烈な空腹感を訴える。
--まあ、気にしても仕方ないか。
僕は、小船に乗り込む前に、ちょっとだけ腹を満たしておく事にした。
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--日が昇り始めた。
暗く濁っていた海は、ゆっくりと燈赤色に照らされだし、辺りには薄っすらと朝靄が立ち始める。
爽やかな潮風が胸に吹き込み、頭の中の泥が掻き出されていくような爽快感。
その素晴らしい感覚の中、僕は、
信じられないモノをミタ------。
「------リサ?」
ポツリ、その名前を呟いた。
--リサ。
僕の、最愛の人。
彼女は何故か、僕の目の前に横たわっていた。
穴の空いた体から臓物を垂れ流し、あちこちをナニカに食い破られ、苦痛に歪んだ無残な姿。
美しい黒髪は血で真っ赤に染まり、ベタベタと甲板に張り付いて見る影も無い。
--何だ?
--ナンダ、コレハ。
彼女の手には、一冊の日記帳が握られていた。
彼女らしい、白い花柄の、清楚な日記帳。
僕は、無意識にソレを手に取り、ゆっくりと読み出していた。
『---------------------------------------------------------------
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---------------------
5月10日
彼が指輪を送ってくれた。
--正直、今でも信じられない。
彼は、ちょっと頼りないところもあるけれど、誰よりも優しい人。
……思い出すと、また顔が赤くなりそうになる。
彼は、来月------------------------
5月13日
彼の様子がおかしい。
最近、夜になるとなんだか独り言が増えているみたいだ。
もしかしたら、結婚式の費用のために無理をしているのかもしれない。
そんなに豪華にしなくてもいいって言ったけど、彼はあの性格だから、きっと頑張りすぎて----------
5月15日
彼から例のウイルスが見つかる。
何か大きな施設から、白い服を着た人たちが沢山来---------
--------
--お父さんは、彼の事は忘れなさいと言った。
彼は、もう死んだんだと思いなさいって。
でも、そんなことは出来ない。
私は、彼が誰よりも優しい人だって知ってるし、信じてる。
きっと彼も、すぐに正気を取り戻して---------
--------大好き。
5月20日
さっき、彼に襲われた。
彼は私を化け物と言って、私を食べようとした。
……私は無事だったけど、お父さんはすごく怒ってしまって、彼を地下室に閉じ込めてしまった。
ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。
私は、あなたをそんな風にするつもりはなかったの-------
----------------許して。
5月25日
アメリカで治療法が見つかる。
これで彼を治してあげる事が出来る。
飛行機や大型の客船は断られてしまったけれど、なんとか中型の貨物船を借りることが出来た。
ちょっと古いけれど、これでなんとか海を渡れるはずだ。
私は今夜、あの灰色の船に彼と乗る。
--もうちょっとだから。
--もうちょっとで全部元通りだから。
----------------------------愛してる----------』
日記はあちこち血まみれで、殆どまともに読むことが出来なかった。
しかしそれでも、僕がしてしまった事を知るのには十分なものであった。
「はは----」
なぜか、笑いがこぼれた。
「あはははははははははははははははははひははははっははははっはっ
あはははっはっはははあははあはははっはひははははははははははは
ひゃはははははははははあはっはははははっはははははははは-----------」
--笑う。
--笑う。
僕はナニを食べた?
僕は誰を食べた?
--美味かった!!
--美味すぎて吐き気がした!!
「はははっ、
ははっ---は---。
…………」
グチャグチャだった。
もう、何もかもがグチャグチャで、何がなんだかわからなくて、船の縁まで歩みを進めた。
--僕の手には、小さなロケットが握られている。
今ではすっかり真っ赤に染まった、僕のお守り。
僕の服は、もう全身血みどろで、もう拭える場所なんか残っていない。
「僕は--」
一言だけ呟こうとして、やめた。
何も言わずに、僕はお守りを、朝焼けの海へと投げ捨てた。
--笑われるだろうか。
僕は彼女を愛していたのだと、誰よりも愛しているのだと、そんな台詞を口にしたら笑われるだろうか。
--もちろん、何も言わない。
謝罪や愛の言葉を口にする権利も、彼女との思い出を持っている資格も、僕には、無い。
お守りを海に投げ込むとき、海の中に怪物の姿が見えた。
全身を血に染めて、真っ赤な目をした、醜悪な生き物。
見ているだけで吐き気のする、悪魔の様な姿。
「はは……っ。
僕は、なんて醜いんだろう」
一度、自嘲気味に呟くと、またあの強烈な空腹感が襲ってきた。
でももう、食べるものなんて何にも無い。
仕方ないから、僕は、自分の腕に噛り付いた。
「--不味いな」
--呟いた。
ソレは、僕が今まで食べた中で最悪の味で、口に入れるだけで吐き気がした。
それでも、そんな事が気にならないほど胃から伝わる空腹感は強烈で、次から次へと、僕は自分の腕を食い破った。
--何が違う。
僕の頭は酷く混乱していた。
--ヒトと**と、何が違う。
腹が減ったら食う。何がおかしい。何が悪い!!
僕の頭は酷く混乱していて、あまりにも混乱していたから、僕はそこで思考を放棄した。
--血のように赤い朝焼けの中。
僕は、僕を食べた--。
ありがとうございました。
感想、アドバイスなどなど、すごくすごくお待ちしております。