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【エレオノーラ編】老貴族の発言を3年分同時再生したら、会議が半分の時間で終わった

朝9時。王城、大評議会室。


天井は無駄に高い。

ここで声を上げれば3度は反響し、その間に発言の価値は霧散するだろう。


窓から差し込む朝日が、宙に漂う埃を金色に染めている。

この美しさを味わえるのは、最初の30分だけだとエレオノーラは知っていた。


「エレオノーラ・ルーベンス、22歳。本日も、異常なし」


末席の椅子に座る。

わずかに浮いた踵が、この城での自分の価値を突きつけてくる。


彼女は手慣れた動作で、羊皮紙の左上に小さな四角い枠を描いた。

今日もまた、無能な言葉を数えるための檻だ。


3年と4ヶ月。1,200時間を超える会議。

そのうち、まともな議論が行われたのは300時間にも満たない。

残りの900時間は、過去の武勇伝と、責任の押し付け合いで埋め尽くされている。


「ルーベンス家の女は、耐えるとき、数えなさい」


曾祖母の教えを胸に、彼女は笑い方を忘れるほど正の字を書き続けてきた。

だが、それは耐えるためではない。


この枠が埋まるたびに、議場の無能さを証明する証拠が積み上がる。

いつかこの国を叩き直すための、静かな武装だ。


「第42回大評議会:道路補修予算について」


議題を書き込み、羽根ペンを構える。

どうせ今日も、直すべき道の穴より、自慢話の数の方が多くなるだろう。


ガラン、と重厚な扉が開いた。

朝の静かな金色が、人間の気配でじわりと濁り始める。


エレオノーラは、最初の「正」の一画目を引く準備を整えた。


 †


「では、本日の議題に入ります。道路補修予算――」


議長が口を開いた3秒後、予定通り遮られた。


「議題に入る前に」


グロート子爵が立ち上がった。70代、背筋だけは無駄にピンとしている。

30年前の辺境戦争の英雄。功績は本物だ。ただし、有効期限は30年前に切れている。


この人は毎回同じ話をする。それしか持ちネタがないからだ。

語り続けることで、自分がまだ「英雄」だと脳をバグらせている。


「わしが若い頃は、この道を馬で7日かけて走ったものだ」


エレオノーラは右上の枠に1本目の線を引いた。本日1回目。

迷いのないペン先が、羊皮紙に鋭い音を刻む。


「冬の凍った道をだ。馬の蹄に布を巻いてな。今の若者は馬にも乗れんだろう。わしの部隊は――」


5分経過。

道路補修の予算案が、30年前の凍結路面サバイバル記にすり替わった。

周囲の評議員は、置物のように深く頷いている。

英雄の昔話を遮るという「命がけの仕事」をしたい人間は、この部屋にはいない。


エレオノーラは、2本目、3本目の線を足した。


「近頃の若者は、馬に乗る前に天気を調べる。天気を調べてどうする。天気は戦場で知るものだ」


別の枠に新しい線を立てる。本日の『近頃の若者は』:1回目。

ちなみに昨日の最高記録は24回だ。


「――ゆえに、道路は頑丈に作るべきだ。わしが若い頃は――」


はい出た、3回目。「わしが若い頃は」。

開始12分。語られたのは自分語り100%。予算の話は、いまだ1ミリも進んでいない。


右上の枠の中で、5本目の線が斜めに走った。

本日最初の「正」の字が完成。おめでとう、子爵。


ふと、隣の席の気配が動いた。

視界の端で、誰かが全く同じタイミングで時計を見た。


そちらを見なくてもわかる。

「これ、議題と関係ある?」と、眉の角度だけでキレている顔だ。


答える代わりに、エレオノーラは完成した「正」の字を指先でトントン、と叩いた。

『もう1機、撃墜したわよ』という合図。


隣で、ほんの微かに、鼻から空気が漏れる音がした。

笑いではない。

「お前もか」という、戦友だけが共有する了解の音だった。


 †


「グロート卿のご意見はもっともですが、予算の具体的な数字について――」


議長が決死の軌道修正を試みた。しかし。


「慎重に」


ハルデン伯が口を開いた。60代、銀縁眼鏡。

かつては有能な外交官だったらしいが、今は「慎重」という名のブレーキを踏みすぎて、人生そのものが停車している。


「拙速な予算決定は禁物です。前例との整合性を確認し、過去の補修履歴を精査した上で――」


新しい枠に、さらりと線を1本。

「慎重に」:1回目。「前例」:1回目。


ハルデン伯の発言は、内容を極限まで圧縮すると「今はまだ決めるな」の7文字になる。

だが、彼はその7文字を伝えるために10分かける。


1分あたり0.7文字。

もはや言語というより、ただのノイズだ。エレオノーラは事務的に、彼の低すぎる言語効率を脳内で弾き出す。


「過去20年の予算を並べ、傾向を分析し、さらに隣国の事例も参照した上で――」


「それは、いつまでに終わりますか」


若手の評議員が聞いた。エレオノーラではない、別の若手だ。

勇気はある。だが、机の下で足先が子鹿のように震えているのが見えた。


「慎重に検討すれば、半年ほどで――」


「半年! 半年後に予算が決まっても、着工は来年の冬になります。今年の冬、凍った道で誰かが死んだらどうするのですか!」


「前例を見る限り――」


「その前例は、3年前に同じ議論をして先送りした結果です! 失敗を前例と呼ぶのはやめてください!」


若手の正論が、会場の空気を絶対零度まで凍らせた。

ハルデン伯の眼鏡が、冷ややかに光る。


「……とにかく、慎重に。再検討を」


はい、2回目。

エレオノーラは静かに線を足す。


「慎重に」という名の思考停止の檻の中で、本日2つ目の「正」の字が完成した。

道路の穴を埋める予算はまだ1円も決まっていないが、彼女の羊皮紙だけは着実に埋まっていく。


 †


「ここで、一つ、深い話をさせていただきたい」


また別の日。宮廷賢人セレンが、聖者のような微笑みをたたえて立ち上がった。

50代。白い髭。現国王の元教育係。

20年前に王子の危機を救った功績で「永久顧問」の座を勝ち取った、生ける置物である。


「道路とは、すなわち、人生の比喩であります」


エレオノーラのペンが一瞬、空中で停止した。

議事録に「道路=人生」と書くべきだろうか。いや、書けば公式記録として残ってしまう。後世の人間が読んだら、この時代の知性を疑うだろう。


――国家の尊厳のために、やめておこう。


彼女は余白に小さく「ポエム開始」とだけ書き込んだ。


「我々が真のリーダーシップについて考えるとき、道路の補修とは、すなわち心の補修でもあるのです」


新しい枠に、冷徹に線を1本。

「真のリーダーシップ」:1回目。


「人格の高尚さとは何か。それは民の痛みを知り、自らの道を正すことであります。道路の亀裂は、すなわち我々の心の亀裂であり――」


10分が経過。セレンはまだ「心のヒビ割れ」の比喩を絶好調で展開している。

もはや、アスファルトの話なのかセラピーの話なのか判別不能だ。


エレオノーラは議事録の端に、セレンの論理構造をメモした。


導入:真の~とは何か(5分)

中盤:人間存在の本質は~(8分)

結論:ゆえに我らは高みを目指さねばならない(2分)


正確無比な15分コース。

安定しているのは哲学の深さではなく、「時間の殺し方」だ。


「――ゆえに、我らは道路の補修を通じて、己の心を高みへ導かねばならぬのです」


はい、拍手。予定通り15分。

ペン先で紙を叩くように、最後の一画を足す。

今日の午前中だけで、「真のリーダーシップ」枠に美しい「正」の字が完成した。


午前中の審議、終了。

議題:道路補修予算。

進捗:0。


王弟フリードリヒが、隣の席で死んだ魚のような目をして呟いた。


「……エレオノーラ。今日の議題は何だったかね」


それ、私が聞きたいです殿下。

この国の予算は、誰かの思い出話とポエムによって、今日も1円も動かない。


王家には代々、変わり者の学究肌が継ぐ「フリードリヒ」という名がある。

曾祖母エリザの時代に神託を再定義した初代から数えて、彼は三代目。


ルーベンス家の女たちが呪いのようにノートを記し続けるように。

フリードリヒの名を持つ男たちもまた、代々この国の「知の共犯者」としての役割を、その不遇な名前と共に引き継いでいるのだ。


「殿下、本日の成果はこれです」


彼女が指し示したのは、議事録ではなく、羊皮紙を埋め尽くした「正」の字の山だった。

フリードリヒはそれを見て、本日一番の深い溜息をついた。


 †


昼休み。給仕室の隅。


若手の書記官と事務官が4人、パンを齧りながら集まっていた。

テーブルの上には、冷めたスープと、午前中の審議で削られた精神の残骸が乗っている。


「グロート卿の戦争話、去年も聞いたよね。馬の蹄に布を巻く話」


「聞いた。一昨年も聞いた。同じ馬。同じ布。同じ結末。1ミリの成長もない」


「セレン様の『真のリーダーシップ』、3年前の議事録と比べたら完全に一致してた。導入5分、中盤8分、結論2分。もはや職人芸だよ」


「それ安定性っていうの? 退屈の超技術(オーバーテクノロジー)でしょ」


笑いが起きた。スープよりも塩辛い、自嘲の笑いだ。


エレオノーラは無言で鞄から、過去3年分の議事録の写しを取り出した。

何度もめくられ、端が黒ずんだ紙束。そこには狂気を感じさせるほどの付箋が貼ってある。


「ちょっと見て」


彼女はテーブルに、その「地獄の記録」を広げた。


「グロート卿の『わしが若い頃は、この道を馬で7日かけて』。これ、3年連続で一字一句同じ。呼吸のタイミングまで一緒。自動再生(リプレイ)かと思ったわ」


「……3年連続?」


「セレン様の『真のリーダーシップとは何か』も見て。導入文、3年前と今日で94パーセント一致。残り6パーセントの差分は、その日の湿度による喉の調子だけ」


若手たちが絶句した。

議事録を埋め尽くす黄色い付箋。それは「この3年間、この国が1歩も進んでいないこと」を証明する死体検分書(リスト)のようだった。


「これ……本人の目の前で突きつけたら、どんな顔するかな」


一人が震える声で呟いた。


「やめなよ。ショックで残りの寿命が尽きるか、逆ギレしてこっちの寿命を削りにくるかの2択だよ」


「でも見たい。なんなら当たり牌(ビンゴ)カード作りたい」


「いいわね。リーチになったら『馬の布!』って叫ぶの?」


「いや、真ん中の自由枠(フリースペース)は『慎重に検討』で決まりね」


パン屑がテーブルに落ち、誰も拾わなかった。

彼らは、自分たちの貴重な人生が、老人たちの再生機能(リプレイ)によって食いつぶされている事実を、ようやく数字で理解した。


エレオノーラは、冷めたスープを一口飲み、冷徹に言い放った。


「安心しなさい。次の議題の道路予算、午後の審議でも決まらないわよ。だってまだ、ハルデン伯が『前例の精査』っていう切り札(カード)を切ってないもの」


「……絶望しかないな」


若手たちは、これから始まる午後の再放送(リプレイ)に備え、死ぬ気でパンを胃に流し込んだ。


 †


午後。王弟フリードリヒの書斎。


壁一面に本。机の上に本。椅子の上にも本。床にも本。

知識の迷宮というより、ただの紙のゴミ屋敷である。


「殿下。議会の透明性を高めるための実験を提案したいのですが」


「座りなさい。そこの本をどけて」


本を3冊どけた。下から別の本が出てきた。

この部屋では、座る場所を確保するだけで発掘調査が必要だ。


王弟フリードリヒ。28歳。

整えられた暗金色の髪に、王族らしい気品を湛えた容貌。だが、その中身は「真理の探求」という名目で周囲を振り回す、生粋の変わり者である。


エレオノーラは付箋だらけの資料を広げた。フリードリヒがそれを手に取る。

10秒。20秒。

殿下の指が、議事録の隅で止まった。


そこには、黄色い付箋の隙間から、小さな「正」の字が群れをなして並んでいた。


「……これは何だ」


「無駄な発言の計数です」


「3年分か?」


「正確には3年と4ヶ月分です」


フリードリヒが議事録を持ち上げ、光に透かした。

呪詛を解読するように、正の字を一つずつ数えている。


「君の余白は、この国のどの公文書よりも正直だな」


褒められた、のだろうか。

「正」の字の書き込みを褒められるのは、長い書記官人生でも初めての経験だ。


「3年連続で94パーセント一致。……これは学術的に見ても驚くべき再現性(リピート)だ。古代の吟遊詩人ですら、もう少し歌詞をアレンジするぞ」


「安定性というか、単なる思考停止ですが」


「いや、素晴らしい研究対象だ。これを活用しない手はない」


フリードリヒが立ち上がり、書架から分厚い技術書を引っ張り出した。

表紙には記録魔導の魔法陣が描かれている。


「記憶水晶で、過去の発言を会議中に空中投影する。議事録の可視化。学術的にも極めて価値が高い」


「それを、あの大評議会でやるのですか」


「兄上に言えば、聞かないふりはできない。王弟の純粋な学術的進言(嫌がらせ)を無視したら、それこそ歴史に傷がつくからな」


フリードリヒが笑った。品位と道徳が欠如した、最高に楽しそうな笑顔だ。

この男は、自分の学術的悪ふざけがどれだけ政治的な大量破壊兵器(リーサルウェポン)になるかを完全に理解している。


二人は並んで提案書を書き始めた。

「発言の統計的分析」「議論の効率化」「透明性の向上」。

並ぶのは立派な言葉ばかり。実際の目的は「老人の繰り返し再生の公開処刑」だが、もちろんそんなことは書かない。


「殿下、ここの表現は『前例の参照』ではなく『過去の記録の再確認』に……」


「それは少し直接的すぎるな。既視感の定量的観測(デジャヴの測定)と書こう」


顔が近い。

提案書をのぞき込む殿下から、古い紙とわずかな香油の匂いがした。


「エレオノーラ」


不意に名前を呼ばれ、ペン先が跳ねた。

殿下の指が、彼女のペンを握る手に重なる。


「君の3年間の忍耐を、最高に無駄のない形で清算してあげよう。楽しみだね」


重なった手の熱に、心臓が少しだけ異常鼓動(ノイズ)を刻む。

怖さではない。

長年溜め込んだ「正」の字が、強力な武装へと変わっていく高揚感だ。


「はい、殿下。……最高に性格の悪い議事録をお見せします」


エレオノーラは、少しだけ顔を赤らめながらも、獲物を狙う暗殺者のような笑みを返した。


 †


翌月。大評議会室。


テーブルの中央に、記憶水晶が据えられていた。

青白い光を放つその周囲には、王弟秘蔵の術式(プログラム)が刻まれている。


「本日より、議事録の可視化実験を行います」


王弟の説明と共に、審議が始まった。

今月の議題:辺境の橋梁工事予算。


「わしが若い頃は――」


グロート子爵が口を開いた、その瞬間。

エレオノーラは、心の中で「今」と呟いた。

開始のタイミングは、過去15回分の正の字で完璧に把握している。


記憶水晶が激しく明滅した。


子爵の背後に、青白い幻影が浮かび上がる。1年前と2年前のグロート子爵だ。

3人の老騎士が同じ服装、同じ姿勢、同じ角度で右拳を振り上げ――


「わしが若い頃は――」「わしが若い頃は――」「わしが若い頃は――」


完璧な三重奏だった。

抑揚も間も、再生速度(ビットレート)すら寸分違わない。


最前列の若手書記官が「ぷっ」と吹き出した。

それを合図に、咳払いのふりをした笑いがあちこちで爆発する。


本物のグロートだけが、茹で上がった蛸のように真っ赤な顔で立ち尽くしていた。

3年分の自分が、全く同じ動きで、全く同じ中身のない武勇伝を語り合っている。


「……な、何だこれは! 悪質な魔法か!」


「いえ、過去の同一発言と照合(マッチング)した結果です」


エレオノーラが冷静に答えた。

彼にとって「若い頃」は唯一の価値証明だ。それが「ただの録音」として笑われた瞬間、存在そのものが不具合(バグ)として否定されたに等しい。


 †


ハルデン伯が、動揺を隠すように口を開いた。


「し、慎重に――」


水晶が再び光った。

背後に、眼鏡を押し上げるハルデン伯が3人出現した。

全員が同じ角度で人差し指を立て、全く同じトーンでハモりだす。


「前例を――」「前例を――」「前例を――」「前例を――」


もはや4声の合唱曲だ。

後方で若手が机に突っ伏した。震える肩から、漏れ出す笑いを止められていない。


 †


宮廷賢人セレンが、威厳を保とうと優雅に立ち上がった。


「真のリーダーシップとは――」


水晶が、待ってましたと言わんばかりに輝く。

3年分のセレンが降臨した。4人の賢者が、同じ手振り、同じ聖者のような笑みで話し始める。


「真のリーダーシップとは――」


導入が4重に重なり、そのまま結論に向かって加速していく。


「ゆえに、我らは高みを――」


美しい4声カノン。

会議室は完全に笑いの渦に呑み込まれた。

誰も咳払いのふりすらしていない。腹を抱え、涙を流している。


その真っ最中、末席の老貴族が椅子にもたれたまま静かに舟を漕いでいた。

水晶が追い打ちをかけるように光る。

背後に、去年と一昨年の居眠り姿が浮かんだ。

3年連続、同じ角度、同じ口の開き方。


どうやら、居眠りの安定性(スタビリティ)は、睡眠時も健在だったらしい。


老貴族たちだけが顔を真っ赤に染めていた。寝ていた1人を除いて。彼はまだ、3年分並んで寝ていた。


王弟フリードリヒが、エレオノーラと視線を合わせ、淡々と告げた。


「驚くべき再現性だ。3年連続で同じ内容、同じ長さ、同じ抑揚。これぞ伝統と言えるかもしれないな」


そういう意味の伝統じゃないです殿下、とエレオノーラは目で返した。


ふと見れば、国王陛下が――顎を撫でている。

笑ってはいない。鋭い真顔だ。

だが、その瞳には「3年分、同じ場所で足踏みし続けた者たち」への、冷徹な評価が宿っていた。


 †


構成を少し削ぎ落として、エレオノーラの「静かな怒り」とフリードリヒの「王族としての凄み」を際立たせました。

笑いの後の沈黙、そして反撃の鋭さを強調しています。


「……エレオノーラ」


国王が口を開いた。一瞬で場が凍りつく。


「はい、陛下」


エレオノーラは立ち上がった。

膝がわずかに震えている。3年と4ヶ月、末席で泥のように黙ってきた小娘が、国の重鎮たちを公開処刑(プレゼン)したのだ。

失敗すれば、ルーベンス家の名は今日で終わる。


彼女は背筋を伸ばした。

ここで転ぶのは、自分一人の問題ではない。この国の未来が、老害たちの再生機能(リプレイ)に食いつぶされるかどうかの瀬戸際だ。


「この実験の結果を、どう評価する」


エレオノーラは、手元の羊皮紙を見た。

そこには、3年4ヶ月分の「正」の字が、鋭い刃のように並んでいる。


「過去3年間の発言を分析した結果、議題に直接関係のある発言は、全体の23パーセントに過ぎませんでした」


ざわ、と空気が波打つ。


「残りの77パーセントは、過去の繰り返しと脱線、そして人生訓です」


淡々と、しかし容赦なく数字を突きつける。


「時間に換算すれば900時間以上。辺境の橋なら3本、石畳なら王都の一街区分を修繕できたはずの時間です」


グロートの顔から血の気が引き、ハルデン伯の眼鏡がずり落ちた。


「今年の冬、補修されなかった道で馬車が横転すれば、車輪の下に子供が投げ出されます」


誰かが、小さく息を呑んだ。


「77パーセントの無駄話は、その事故を十件以上、見捨てたのと同じです。私は『子供十人の命』を、ただの計算結果として扱えます」


彼女は冷徹な視線を評議員たちへ向けた。


「だからこそ、その命に等しい時間を、皆様の自分語り(リプレイ)に譲る気はありません。ここで15分武勇伝を語れば、レンガ200個分の工期が消えるとお考えください」


一拍。


「皆様の功績は、すでに戦史に刻まれています。今ここで語られるそれは、橋の完成を遅らせる雑音にしかなりません。――それでも、続けますか?」


会議室が無重力になった。誰も、呼吸の仕方を思い出せない。


「……小娘が、何を増長したことを」


グロートが震える手で椅子の背を掴んだ。


「貴様は城の書記官にすぎん。この場で評議員に意見する資格など――」


「彼女は、私の共同研究者だ」


フリードリヒが立ち上がった。

声は穏やかだが、それは紛れもなく王族の響きだった。


「私の共同研究者への無礼は、私への侮辱と受け取るが。……異論はあるか?」


グロートの口が、金魚のように力なく開閉した。

王弟の権威は、普段は学術という名の衣に隠されている。だがそれを剥がせば、どす黒いほどに濃い王の血が流れているのだ。


フリードリヒがエレオノーラに目を向けた。

「構わん、そのまま刺せ」という合図だった。


国王が、顎を撫でるのを止めた。


 †

王弟が、あらかじめ用意していた議事規程改正案を差し出した。


「具体的には、砂時計による発言時間の制限。記憶水晶(アーカイブ)による同一内容の検知。議題からの逸脱に対する抑止機能(アラート)の導入です」


国王が改正案に目を通し、静かに顔を上げた。


「セレン」


「は、はい、陛下」


「そなたの話は、実に興味深い。だが、この場ではあまりに時間が足りぬ。昼の会議は、血の通わぬ実務の話で埋めてしまおう」


「しかし陛下、真の哲学とは時間を超越してこそ――」


「だからこそ、夜に。夜会でゆっくり聞かせてくれ。酒を酌み交わしながらの方が、哲学というものはよく染みる」


セレンの肩がわずかに落ちたが、すぐに満足げに持ち直した。

彼にとって「語る場」を奪われないことこそが、何よりの報酬(インセンティブ)なのだ。


「グロート卿」


「……何か」


「卿の武勇伝は、今の若い兵たちが喉から手が出るほど聞きたがっている。兵舎での定期的な講演を企画してはどうか。この場では、予算の数字だけを頼む」


グロートの顔が複雑に歪んだ。

猛烈な怒りと、隠しきれない承認欲求(デレ)


「若い兵たちが聞きたがっている」という言葉。

30年前の功績を、もう一度必要としてくれる場所。彼は追い出されたのではない。「適材適所」に配置されたのだ。


「……検討しておこう」


「よろしい。新議事規程を承認する。直ちに砂時計の調達を」


砂時計。

時間を可視化するための、もっとも原始的で、もっとも残酷な計測器(タイマー)


エレオノーラは一礼し、重い議事録を抱えて退室しようとした。


その瞬間、やってしまった。


踏んだ。

自分のドレスの裾を。


ルーベンス家の女は、勝負所で必ず裾を踏む。

曾祖母エリザも、母クラリッサも。完璧な論理を展開した直後に、足元から盛大に崩れる。

これこそが、家系に組み込まれた致命的な不具合(バグ)だ。


前のめりに倒れかけた腕を、誰かが掴んだ。


フリードリヒだった。

片手で本を開いたまま、もう片方の手でエレオノーラの肘を支えている。淀みのない、慣れた動作。


「……ありがとうございます、殿下」


「ルーベンスの女は議会で勝利すると裾を踏む。曾祖母殿の時代からの伝統だと、私の個人記録(プライベート・データ)にある」


「……記録に残さないでください」


「残すよ。学術的に見て非常に興味深い物理現象(お約束)だからね」


品位ゼロの楽しそうな笑顔。


エレオノーラは、掴まれた肘に熱を感じながら、今度こそ背筋を正して廊下に出た。

彼女の羊皮紙には、もう「無駄」を数える枠など必要なかった。


 †


翌週。大評議会室。


テーブルの中央に、砂時計が置かれた。

透明なガラスの中で、金色の砂が細く落ちている。発言者の前に置かれ、砂が落ち切ったら問答無用で強制終了(アウト)だ。記憶水晶も常時稼働し、過去の発言との一致を監視(サーチ)し続けている。


砂時計がテーブルに置かれた瞬間、今まで死んだ魚の目で座っていた若手官僚たちの背筋が一斉に伸びた。


もう一つ変わったことがある。末席で3年間舟を漕いでいた老議員が、目を見開いて座っていた。眠れば最後、自分の寝顔が永久保存(アーカイブ)されると知ったからだ。


砂が落ち始めた。その音を合図に、羽根ペンが一斉に走り出す。


1つ目の議題、20分で決着。

2つ目の議題、30分で投票。


昼前には橋の設計が承認され、午後の時間はすべて現場との調整に回された。3年間先送りされていた道路補修の工事日程が、その場で確定した。


砂の落ちる音は、止まっていた国が動き出す鼓動(リズム)だった。



3週間後。


会議は以前の半分の時間で終わるようになった。


それでも。


「わしが――」


グロート子爵が口を開いた。直後、彼は砂時計を見た。残り30秒。


エレオノーラは、反射的に右上の枠にペンを向け――。


思いとどまった。


「……北側工区の資材搬入路だが。予算の修正案を出したい。工期を2週間短縮する方法がある」


会議室が静まった。以前とは違う、驚きによる静寂。

グロートが、予算の話をしている。武勇伝ではなく、未来の話を。


エレオノーラは「正」の字を書く手を止めた。


『わしが若い頃は』用に用意していた枠は、今日も白いままだ。

砂時計の中で、砂だけが静かに落ちている。



夜会。バルトハイム伯爵邸の一角。


セレン賢人がソファに座り、赤ワインのグラスを傾けていた。


「――真のリーダーシップとは何か。それは夜の静寂の中でこそ、真に問われるのであります」


目の前には5人の聴衆。2人は酔い、1人はチーズを齧り、1人は寝ている。

だが残り1人の若い騎士が、少し目を輝かせて聞き入っていた。


「セレン様、それ去年も聞きましたよ」


酔った若者が笑いながら突っ込む。


「名言は繰り返すものだ。ワインと同じでな」


セレンが穏やかに微笑んだ。

たとえ数人でも、聞いてくれる人間がいればこの人は語り続ける。

会議室では不具合(バグ)でしかなかった哲学が、夜会では最高の娯楽(コンテンツ)に変わっていた。


適材適所は、国を驚くほど軽くする。


 †


翌朝。評議会室の廊下。


フリードリヒが壁にもたれて本を読んでいた。

整えられた暗金色の髪が、朝の光を弾いている。変人ではあるが王族らしい気品と、真理を追い求める学究肌の冷徹さが同居した横顔は、本を読んでいるだけで一枚の絵画のようだった。


エレオノーラが通りかかると、彼は吸い込まれるように本を閉じ、こちらを見た。


「昨日の会議、傑作だったな。君の毒舌のおかげで、議場の平均年齢が10歳は若返ったように見えたよ」


「褒め言葉として受け取っておきます、殿下」


「グロート卿が兵舎の教育係を引き受けたそうだ。老兵の武勇伝も、新兵には最高の教科書になる。……適材適所だろう?」


エレオノーラは黙って頷いた。

あの英雄が、武勇伝を望まれる場所を見つけたのなら、それでいい。


フリードリヒが、読んでいた本とは別の、もう一冊を差し出した。


「何ですか、これ」


「市場に出回っていない古文書の写しだ。『辺境戦争期の道路行政に関する覚書』。グロート卿の時代の、実際の補修記録だよ」


表紙を開くと、黄ばんだ紙からインクの匂いが立ち上がった。

70年前の役人の手書き文字。これがあれば、卿の「記憶」と、実際の「記録」の差分を正確に計測できる。


「……殿下。これ、どこで」


「書庫の奥。君のために、埃にまみれて探してきた」


宝石やドレスではなく、最高に実用的な一冊の古文書。

それが報酬として差し出された意味を、エレオノーラは正確に理解していた。

この男は、自分が何で喜ぶかを知りすぎている。


「やはり、君を書記官室に返したくないな。私の書斎に永久保存(アーカイブ)しておきたいくらいだ」


ふい、と顔が近づく。

大人びた涼やかな容貌が至近距離で微笑み、エレオノーラは思わず息を呑んだ。本に埋もれている時とは違う、獲物を定めるような鋭い眼差し。


フリードリヒは彼女の耳元で小さく笑うと、ひらひらと手を振って廊下の角を曲がった。


エレオノーラは、古文書を胸に抱えたまま、しばらく動けなかった。

心臓が正の字(カウント)を刻んでいる。

この枠には、おそらく上限設定など存在しない。



評議会室の窓辺に立った。

朝日が差し込み、砂時計の中の砂が金色に輝いている。


エレオノーラは羊皮紙を広げた。今日の議事録の表紙。

右上には、いつものように小さな四角い枠を描く。そこは、まだ真っ白だ。


先週、グロートは砂時計を見て武勇伝を飲み込み、数字だけを投げた。

『わしが若い頃は』の再生(リプレイ)は、一度もなかった。


今日もそうだろうか。


明日また、誰かが「慎重に」と言うだろう。だがその隣には、砂時計が立っている。

セレンは夜会で哲学を語り、グロートの武勇伝は兵舎で新兵たちの目を丸くさせている。


淀んでいた空気が、窓を開けたように入れ替わっていく。


ルーベンス家の女は、耐えるために数えるのではない。

世界をあるべき姿に書き換えるために、数字を積み上げるのだ。


羊皮紙の右隅は、まだ真っ白だ。


無駄な言葉がゼロになる日など、一生来ないだろう。

それでもいい。数えた上で、削ればいい。


記録の時間は、終わった。


ここから先が、私の修正(アップデート)だ。

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