第87話 増水した川と、オカン流・お風呂の栓抜き理論
先陣の壊滅を皮切りに、五万の大伴軍は完全に統制を失っていた。
「退け! 耳鳴川を渡り、北岸の陣まで後退するのだ!」
冷静な参謀が馬上で叫び続けるが、パニックに陥った兵たちの耳にはもはや届かない。彼らは背後から迫る薩摩の伏兵たちの恐怖から逃れるため、我先にと国境の川へと殺到していた。
だが、川岸に辿り着いた先頭の兵たちが、絶望の悲鳴を上げた。
「だ、駄目だ! 渡れない!」
普段は膝下ほどの浅瀬であるはずの耳鳴川が、見上げるような茶色い濁流となって轟音を立てていたのだ。雨など一滴も降っていないというのに、川は異常なほどに増水し、すべてを呑み込む牙を剥いていた。
「なぜだ……! 水神の怒りか!」
参謀が青ざめる。逃げ道を絶たれた五万の兵は、濁流と迫り来る薩摩軍の間に挟まれ、完全に袋のネズミとなった。
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その頃、川の上流。
佐吉は、轟音を立てて崩れ去っていく巨大な「堰」を、崖の上から見下ろしていた。
数日前から、島津のおっちゃんが率いる山の伏兵たちと共に、川の水をせき止めて巨大な水溜りを作っていたのだ。
(『ええか、佐吉。お風呂のお湯をギリギリまで溜めといてな、敵が川に入ろうとした瞬間に、一気に栓を抜くんや。水圧で全部洗い流したるわ!』)
おばちゃんが言っていた、よく分からない「お風呂の栓抜き理論」。
だが、いざ自分の手で堰を切り落とした瞬間、荒れ狂う大自然のエネルギーを前に、佐吉の足は一瞬すくんだ。
木々をなぎ倒し、岩を砕きながら下流へ突進していく圧倒的な水の暴力。修羅の力を持っても抗えない、自然の脅威。一瞬、喉がカラカラに渇き、恐怖が心臓を冷たく掴みかけた。
だが、佐吉は口の中に残っていた「オレンジ味」の飴を転がした。
柑橘の爽やかな甘さが、動物的な恐怖を、冷徹な達成感へと強引に塗り替えていく。
「……作戦成功だ。あとは、おばちゃんたちが『大掃除』を仕上げてくれる」
佐吉は刀の泥を拭い、修羅の笑みを浮かべて下流へと走り出した。
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逃げ場を失い、川岸の泥濘に追い詰められた大伴の本陣。
兵たちがパニックに陥る中、大伴の当主だけは、豪奢な輿の上で静かに目を閉じていた。
「……騒ぐな。これは天が我らエリートに与えた試練に過ぎん。神の加護がある限り、我らの歩みは止まらぬ」
その狂信的なまでの「静かな圧」が、周囲の兵たちを逆に縛り付ける。すべてを見透かしているような顔で、目の前の現実を認めようとしない絶対者の傲慢。
「……神の加護やて? アホか。あんたの神様は、泥に沈む部下を見殺しにするんか!」
濁流の音を切り裂いて、威勢の良い関西弁が響き渡った。
薩摩の武士たちが道を空け、その中心から、ヒョウ柄のポンチョを羽織り、特大のゴミ拾いトングを肩に担いだ静江が現れた。
隣には、呆然とする大伴軍を冷ややかに見据える島津のおっちゃんや、合流した佐吉が立っている。
「貴様が、我が軍を惑わした妖術使いか……。小賢しい手で川を塞いだとて、我の誇りは穢せぬ」
当主が輿の上から、見下すように静江を睨む。
静江は鼻で笑い、泥だらけの川岸に、バシッ、バシッとタロットカードを展開した。
出たのは、『審判』の正位置、そして『正義』の逆位置。
「よう見ときや。天の秤は完全に傾き、正義の剣は泥の中で錆びついとる。そして、頭上の天使が吹き鳴らすラッパの音は、今あんたの目の前で荒れ狂ってる濁流の轟音と完全に重なっとるわ。……過去の清算の時が来たんや」
静江はカードの絵柄をなぞり、当主を真っ向から睨みつけた。
「あんた、自分だけ安全な輿の上に乗って、部下には泥水すすらせとるやろ。上に立つもんが、足元汚すんを怖がってどうするんや! 部下の命を『使い捨ての駒』やと思ってるから、こんな簡単な『お風呂の栓抜き』の罠に引っかかるんやわ!」
「お、お風呂……? なんだその下賤な言葉は!」
「生活の知恵や! あんたみたいな、自分の部屋の掃除も他人にやらせてるようなエリート気取りには、一生分からん理屈やろな!」
静江はトングを構え、当主の顔の数寸前まで突き出した。
「誇りや加護で飯は食えへん。自分の部下を見捨てて逃げるようなトップはな、上に立つ資格なしや! あんたのその狂ったプライド、この濁流で綺麗さっぱり洗い流しなはれ!」
その圧倒的なオカン節と、タロットが突きつける残酷な真実の前に、狂信的だった当主の顔に初めて「絶望と恐怖」の色が浮かんだ。
彼が放っていた「静かな圧」は霧散し、それに縛られていた五万の軍勢は、もはや戦う気力すら失い、次々と武器を捨てて泥の中に跪いた。
「……信じられん。五万の正規軍が、一滴の血も流さず(※先陣を除く)に降伏するとは……。占い師殿、お主の『生活の知恵』は、天の配剤すら操るというのか」
島津のおっちゃんが、震える声で感嘆を漏らす。
「大層なもんちゃうわ。ただの『水回りのお手入れ』や」
静江はガハハと笑い、特大トングを肩に担ぎ直した。
大和郷の北半分を支配していた巨大勢力が、おばちゃんのお風呂理論と説教の前に、完全に崩れ去った瞬間だった。
薩摩の成り上がりは、この『耳鳴川の大勝』によって、いよいよ天下の覇権を揺るがす最大のうねりとなろうとしていたんや。
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