第78話 大嵐の夜と、タロット航海術
カリカ港を出発して数週間。
大和郷へと向かう船旅は、驚くほど順調そのものやった。
食糧庫のネズミ騒動で出会った、五歳のエルフの女の子、リリル。彼女はすっかりうちの「一番弟子」として船内をちょこちょこと歩き回るようになっとった。
船乗りたちも最初は「ガキを乗せるなんて」と渋い顔をしとったけど、うちの飴ちゃんと、リリルの健気な雑用姿(と、時折放つ鋭いド正論ツッコミ)に絆され、今ではすっかり孫娘のように可愛がっとる。
このまま何事もなく、米と醤油の匂いがする島国に到着するんやろうな。
……そう思ってた矢先のことやった。
「……おばちゃん。海が、黒いよ」
甲板の隅で、うちのスカジャンの裾をギュッと握りしめながら、リリルがポツリと呟いた。
その視線の先、水平線の向こう側から、まるで墨汁をぶちまけたような真っ黒な雲が、異常な速さで空を覆い尽くそうとしとる。
風の匂いが、潮の香りから「鉄が錆びたような嫌な匂い」へと急激に変わった。
見張り台から、切羽詰まった水夫の悲鳴が落ちてくる。
「せ、船長ぉぉぉッ! 前方より、魔の海域特有の『黒嵐』です! 逃げ切れません、真っ直ぐこっちに向かってきます!」
その声とほぼ同時に、ドドドォォォンッ! と腹の底に響くような雷鳴が轟いた。
海面が狂ったようにうねり始め、帆船が木の葉のように上下に激しく揺さぶられる。
「総員、帆を畳め! マストにしがみつけ! 波に飲まれるなよ!」
船長の怒号が飛ぶが、風の咆哮にかき消されてしまう。
ザッバーーンッ!
船の横っ腹に、壁のような高波が激突した。甲板に大量の海水が雪崩れ込み、何人かの水夫が足をすくわれて転がっていく。
「ひぃっ……!」
リリルが悲鳴を上げ、うちの足にしがみついた。
うちは彼女の小さな体を片手で抱き寄せ、もう片方の手で船の太い手すりをガシッと掴んだ。不老不死の身体やから飛ばされても怪我はせんけど、リリルが海に落ちたら一貫の終わりや。
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「船長! 羅針盤が狂ってやがります! 針がぐるぐる回って、どっちが北か全く分かりません!」
舵を握る操舵手が、泣きそうな声で叫んだ。
真っ暗な嵐の中、星も見えず、羅針盤も効かない。このままでは暗礁に乗り上げるか、波に飲まれて転覆するかのどっちかや。
船乗りたちの顔に「死」の恐怖が張り付いた。
「……しゃあないな。こんな時こそ、おばちゃんの出番や」
うちはリリルを小脇に抱えたまま、大きく揺れる甲板のど真ん中へと進み出た。
そして、アイテムボックスから使い込まれたタロットカードを取り出し、風に飛ばされないよう、念動力でカードを自分の胸の前にフワリと浮かせた。
バシッ! バシッ!
嵐の風圧を押し退けるように、見えない力でカードが円を描くように展開されていく。
その神がかった光景に、パニックになっていた水夫たちが一瞬だけ目を奪われた。
「お、おい! 占い師の姉ちゃん! こんな時に占いで何が分かるってんだ!」
船長がマストにしがみつきながら怒鳴る。
うちはカードの一枚を指差し、船長に向かって叫び返した。
「やかましいわ! あんたらの羅針盤が狂ってるんやったら、うちの『運命の羅針盤』に従いなはれ! 波も風も、自然のモンは全部『運気の流れ』を持っとるんや! 淀みを避けて、吉の方角へ突き進むだけやろが!」
うちは目の前に浮かぶカードの波長を読み取った。
『塔』の逆位置、そして『戦車』の正位置。
「船長! 右舷前方の波は『凶』や! 底の方で渦巻いてて、突っ込んだら船体が折れるで! 取り舵(左)いっぱいに切りなはれ!」
「ひ、左だと!? そっちは波が一番高く見え――」
「見た目に騙されるな! あれはただの水しぶきや、芯はスッカスカやわ! ええから回せぇ!」
うちの凄まじいオカン節に押され、船長は半ば無意識に「と、取り舵いっぱぁぁぁい!」と舵輪を回した。
ギリギィィィッ!
船が大きく左に傾きながら波を乗り越える。右舷のすぐ横を、船を丸呑みできるほどの巨大な渦潮が、轟音を立てて通過していった。
「……ほ、本当に波の薄いところを抜けやがった……!」
操舵手が信じられないという顔でうちを見る。
「ボサッとすな! 次の波が来るで!」
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うちは次々とカードを展開し、大自然の荒れ狂うエネルギーを「運気」として読み解いていった。
「次は面舵(右)や! そっちの風は『愚者』の逆位置、完全に足元すくいにきとる! 帆を少しだけ張って、風を斜めに逃がしなはれ!」
うちの指示通りに船が動くたび、絶望的だった荒波の隙間に、一筋の「道」が見えてくる。
魔法が使えないおばちゃんならではの、タロットを使った『占い航海術』や。
だが、嵐の勢いはさらに増し、うちの霊的な集中力も削られていく。
視界が雨と海水で滲み、カードの細かい波動が読み取りづらくなってきた。
(……くっ、ちょっと目が霞んできたわ。老眼やないで、ただの雨のせいや……!)
次の瞬間、真正面から今までで一番巨大な、漆黒の波の壁がそそり立った。
右か、左か。それとも真正面から突っ込むべきか。
カードの暗示が揺らぎ、うちが一瞬だけ答えに詰まった、その時やった。
「……おばちゃん、右だよ。右の波、泣いてるから」
うちの腕の中で縮こまっていたリリルが、ふいに顔を上げ、宙に浮くカードの一枚――『月』のカードをじっと見つめて呟いたんや。
「……泣いてる?」
「うん。右の波の下に、大きな岩が隠れてて……お水が痛いって泣いてるの。だから、左だよ。左の風は、笑ってるから」
リリルの言葉に、うちの心臓がドクンと跳ねた。
カードの意味やない。カードが発する「自然の悲鳴」を、この五歳のエルフの子供は、本能的な直感で聞き取ったんや。
うちは迷うことなく、リリルの言葉を信じた。
「船長! 面舵(右)は絶対アカン、見えない暗礁(岩)が隠れとるわ! 取り舵(左)いっぱいに切って、そのまま波の背中に乗りなはれ!」
「わ、わかったぁぁぁッ!」
船長が裂帛の気合とともに舵を回す。
船は左の波へと真っ直ぐに突っ込み、ジェットコースターのように波の頂点へと一気に押し上げられた。
そして、船体が宙に浮いたかのような感覚の後――。
右舷の波の下から、船の底を容易く引き裂くような、巨大で鋭い黒岩が海面へと突き出してきたのが見えた。
もし右に避けていたら、完全に真っ二つにされとったわ。
「……よし! 抜けたで!」
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その大波を越えた瞬間、船を叩きつけていた暴風雨が、嘘のようにピタリと止んだ。
分厚い黒雲が割れ、そこから眩いばかりの朝の光が、真っ平らな海面へと降り注いできたんや。
「……おおぉぉ……!」
「助かった……俺たち、あの黒嵐を抜けきったぞ!」
甲板に倒れ込んでいた水夫たちが、次々と起き上がり、朝日に向かって歓声を上げる。
うちは空中に浮かせていたタロットカードを手元に引き寄せ、アイテムボックスへと仕舞い込んだ。
「……お疲れさん、リリルちゃん。あんたの直感、最高に冴えとったで」
うちは腕の中にいるリリルの頭を、優しく撫でた。
「……えへへ。おばちゃんが、ちゃんとカード見せてくれたからだよ。……でも、おばちゃん」
リリルは、うちのスカジャンの裾をギュッと掴んで、おどおどとした上目遣いで呟いた。
「……それ、占いじゃなくて……ただの勘、じゃ……?」
「アホ! 勘と占いは紙一重なんや! それにおばちゃんはちゃんとカード展開してたやろが!」
リリルのクリティカルなド正論ツッコミに、うちは思わずずっこけそうになりながらも大笑いした。
周囲の船乗りたちも、うちらのやり取りを見て、腹を抱えて笑い転げとる。
死の恐怖は、すっかり陽気な笑い声にかき消されていた。
「おい、見ろ! 陸地だ! 島が見えるぞぉぉっ!」
見張り台の若い水夫が、喉が裂けるような声で叫んだ。
朝霧が晴れた水平線の向こう。
そこには、幾重にも重なる深い緑の山々と、これまでの西洋風の街並みとは全く違う、瓦屋根の建物が密集する島影が、朝日を背にして浮かび上がっとった。
戦雲が立ち込め、古い因習と乱世の匂いが漂う、東の果ての島国。
「……着いたな。大和郷や」
うちは大きく深呼吸をして、潮風に混じる微かな「醤油」の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
新しい土地、新しい迷い羊、そして新しい料理の匂い。
おばちゃんと、小さなツッコミ弟子の、波乱に満ちた新章が、いよいよ幕を開けようとしとったんや。




