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大阪のおばちゃん占い師、異世界に転生しギャルとなる ―運命は変わってへんで―  作者: 川原 源明


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第7話 覚醒の令嬢と、凍てつく帳簿

 リンゴの飴が、舌の上でゆっくりと溶けていく。


 それはエルゼ・ルミナの、乾ききった砂漠のような心に落ちた、一滴の冷たい雨だった。


(……甘い。けれど、それだけじゃない)


 これまでは、裏切りの恐怖と未来への絶望で、思考が泥の中に沈んでいるようだった。呼吸をするだけで精一杯で、周囲の音が歪んで聞こえていた。けれど今は、荒れていた鼓動が静かなリズムを刻み、耳の奥で鳴り響いていた雑音が消えていく。

 視界が劇的に変わるわけではない。ただ、震えていた指先を自分の意思で止められる。それだけのことが、今の彼女には何よりも心強かった。


「……リタ」


 膝をつき、祈るような目で自分を見つめるメイドの顔を見る。

 エルゼはゆっくりと、リタの差し出した、毒が入っているかもしれないスープを、迷うことなく床の隅に置いた観葉植物の鉢へと流した。


「リタ。明日の夜、お忍びで屋敷を抜けるわ。案内して。……その、おせっかいな占い師のところへ」


「はい。……はい! 喜んでお供いたします」


「……その前に。確かめなければならないことがあるの」


 エルゼの声は、氷を打つような静けさを帯びていた。

 彼女はベッドの下、床板の隙間に隠していた、分厚い革綴じの帳簿をリタの前に引き寄せた。それは、数日前、父である伯爵の目を盗んで執務室から持ち出した領地の運営記録の写しだ。


 今までは、並んだ数字を目で追うだけで精一杯だった。不安と衰弱が、脳を麻痺させていたから。

 けれど今は、一つ一つの項目が、確かな重みを持って彼女の脳内に定着していく。


「見て、リタ。ここ一年の北方の穀物取引……不自然なほど価格の変動が激しいわ。不作でもないのに、支援金が何度も計上されている。そしてこの、父様の私印の隣にある、小さな署名……」


「それは……執政官の、ハンス様のものですね?」


「ええ。これだけでは証拠にはならないわ。けれど、父様が何かに怯え、ハンスがそれを利用して資金を誘導している『可能性』は、限りなく高い」


 エルゼの瞳が、暗い部屋のわずかな光を反射して鋭く光った。

 かつての彼女なら、父を疑う自分を責め、涙を流しただろう。だが、今の彼女の心に宿っているのは、清らかな正義感ではなく、生き延びるための、そして蹂躙される領民を守るための、苛烈なまでの合理性だった。


「……父様は、私を愛している。それは本当でしょうね。けれどあの方は、自分自身の保身や伯爵家の存続を、娘の尊厳よりも重く秤にかけてしまった。……だから、私を侯爵家へ差し出し、自分の犯した――あるいは着せられた――罪を、闇に葬ろうとしている」


 エルゼは飴を転がし、自嘲気味に、けれど美しく笑った。


「悲しいことだわ。……でも、それ以上に、滑稽ね。私を『証』として差し出したところで、侯爵家のような貪欲な捕食者が、ルミナの地をそのままにしておくはずがないのに」


 その時、重厚な扉がノックもなしに開いた。

 エルゼは咄嗟に帳簿をシーツの下へ隠し、力なく横たわる「弱った令嬢」を演じた。


 入ってきたのは、執政官のハンスだ。銀のトレイに載せた薬湯を運び、慇懃無礼な笑みを浮かべている。


「エルゼ様。夜分に失礼いたします。……少しはお加減がよろしいようで。明後日には、侯爵家からお迎えの馬車が参ります。そろそろ、身支度の準備を始めなければなりませんな」


 ハンスの声には、慈しみなど微塵もなかった。そこにあるのは、納品を間近に控えた商人が、商品の状態を確認するような、無機質な義務感だ。


「ハンス……。父様は、どこ……?」


 エルゼは震える声を絞り出した。演技ではない。この男から放たれる、隠そうともしない支配欲への嫌悪が、彼女を震わせる。


「旦那様はお忙しいのです。お嬢様を無事に送り出すための、事務的な手続きに追われておいででしてね。……さあ、このお薬を。今夜はぐっすり眠り、明日には顔色を戻していただかなくては」


 差し出された薬湯。その湯気から、微かに鼻を突く嫌な香りがした。


「……ハンス。あなたは昔、私に言ったわね。『ルミナの誇りは、他者に屈せぬ気高さにある』と」


 ハンスの動きが、一瞬だけ止まった。

 彼は眼鏡の奥の細い目をさらに細め、エルゼを見下ろした。


「……懐かしいお話ですな。ですがお嬢様、誇りだけでは腹は膨らみませぬ。それに、侯爵家と結ばれることは、ルミナにとっての救い。それを決めたのは旦那様です」


「……そう。父様が、決めたのね」


「左様でございます。……お嬢様。余計な知恵を絞り、帳簿などを持ち出すのはおやめなさい。お体に毒です」


 心臓が跳ねた。見つかっている。

 ハンスは冷ややかに微笑み、エルゼの顔の横に手を置いた。


「出立は、予定より早まりました。……明日の朝、支度を始めます。逃げようなどとは考えぬことですな。この屋敷は今や、旦那様の意思、すなわち私の管理下にありますので」


 ハンスは薬湯を置くと、無言で部屋を去った。扉の外から、錠を閉める冷たい音が響く。


 沈黙。

 リタが絶望に顔を覆い、がたがたと震え出した。


「……エルゼ様、どうしましょう。見つかっています……。出立は明日だなんて……」


 だが、エルゼは起き上がり、ベッドから足を下ろした。

 彼女の瞳には、先ほどまでの恐怖の演技は微塵も残っていない。ただ、凍てつくような決意だけが、静かに燃えていた。


「……いいわ。予定が早まったのなら、こちらも早めるだけよ」


「え……?」


「ハンスは自信に満ちている。私が逃げ場のない小娘だと思っているから。……皮肉ね、リタ。おばちゃんの言った通りだわ。身内あいつらこそが、一番の盲目ね」


 エルゼは窓を開け、夜風に髪をなびかせた。

 眼下に広がるルミナの街。その灯りは、彼女にとって守るべき領民の命であり、同時に、いつか自分が呑み込み、支配し、頂点に立つための領土に見えていた。


 自分を売ろうとした父を、利用しようとしたハンスを、そして食い物にしようとする侯爵家を。

 すべてを逆に利用し、このルミナの真の主となる。


「行きましょう、リタ。今夜、ここを出るわ。……おばちゃんに、占ってもらわなきゃ。……私がこれから始める『反逆』の、勝率をね」


 令嬢はもう、鏡の前で微笑むだけの硝子細工ではなかった。

 おばちゃんが渡した林檎の飴よりも、ずっと鋭く、ずっと甘美な毒をその身に宿し、彼女は暗闇へと一歩を踏み出した。


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