第63話 密室の毒薬と、崩れ落ちる塔
王都の中心部から少し離れた、静閑な高級住宅街。
その一角に建つガンサー老伯爵の屋敷は、夜の闇に溶け込むようにひっそりと静まり返っていた。
だが、分厚い遮光カーテンで閉ざされた地下の隠し部屋では、王都の権力闘争の泥水のような、どす黒い熱気が渦巻いていた。
「……ええい、バルディアの奴め! 侯爵の小娘一人に脅されて、尻尾を巻いて寝返るとは! これだから成り上がり上がりの商人は信用できんのだ!」
ガンサー老伯爵は、血走った目でテーブルを激しく叩き、忌々しそうに吐き捨てた。
彼は旧グレミオ公爵派の重鎮であり、公爵失脚後の利権を裏で牛耳ろうと画策していた真の黒幕だった。だが、夜会でのエルゼの圧倒的な快進撃と、自派閥の貴族たちが次々と彼女に屈服していく異常な事態に、焦燥感を募らせていた。
「もはや、悠長な政治工作などしている暇はない。……おい、例の物は手に入ったか?」
ガンサーが振り返ると、部屋の隅に控えていた黒装束の男が、無言で小さなガラス小瓶を差し出した。
中には、無色透明の液体が揺れている。魔族領の奥地でしか採れないという、一口で確実に命を奪い、かつ病死と見分けがつかない遅効性の猛毒だ。
「……明日の夜会。あの小娘が口にするワインに、これを一滴混ぜるだけでいい。ルミナの領主が急死すれば、あの豊かな土地は再び主を失い、我々の手で都合よく切り分けられるという寸法だ」
ガンサーは小瓶をランプの光に透かし、口元を歪めて邪悪な笑みを浮かべた。
だが、彼がその毒薬を懐にしまおうとした、まさにその時だった。
「……夜分遅くに堪忍な。おじいちゃん、そんな物騒なもん、胃薬の代わりに飲んだらアカンで」
密室のはずの空間に、場違いなほど明るく、そしてどこか呆れたような声が響いた。
ガンサーと暗殺者が弾かれたように振り返る。
隠し部屋の通気口の格子がいつの間にか外され、そこから「よっこらしょ」という掛け声とともに、一人の女が飛び降りてきたのだ。
「なっ……!? 貴様、何者だ! どこから入ってきた!」
ガンサーが驚愕に目を見開く。
現れたのは、夜の隠密行動とは対極にある、目が痛くなるような蛍光ピンクのインナーに、ド派手なヒョウ柄のポンチョをすっぽりと被った女――静江だった。
金色の太いネックレスが、着地するたびにジャラジャラと無作法な音を立てる。
「どこからって、そこの穴からや。うちの用心棒の兄ちゃんに、外から格子を外してもろてな。……安心しなはれ。外におるあんたの護衛たち、今頃みんな、ええ夢見ながらスヤスヤ寝とるわ」
静江が親指で背後を指差すと、暗殺者が舌打ちをして短剣を抜き、彼女の喉元へと躍りかかった。
だが、静江は慌てる素振りすら見せない。
暗殺者の刃が届く直前、通気口から銀色の閃光が降り注ぎ、暗殺者の短剣を弾き飛ばした。
続いて飛び降りてきたアレンが、流れるような動作で暗殺者の鳩尾に峰打ちを叩き込み、一瞬で床に沈めた。
「……静江さん、外のネズミはすべて縛り上げました。こちらも終わったようですね」
「おおきに、アレン君。相変わらずええ手際や」
静江はポンチョの埃を払いながら、腰が抜けて椅子にへたり込んだガンサーの正面へと歩み寄った。
「さて、おじいちゃん。あんたがエルゼちゃんの邪魔をしてる、一番の親玉やな。……顔色悪いし、さっきから胃のあたり押さえてるけど、大丈夫か?」
「き、貴様……ルミナの占師か……! 暗殺者を差し向けた罪で、市警に突き出してやる!」
「暗殺者? 誰がや。うちはただの『出張鑑定』に来ただけやわ。……それに、市警に突き出されて困るんは、あんたの方なんとちゃうか?」
静江はアイテムボックスから、使い込まれたタロットカードを取り出し、ガンサーの目の前のテーブルに広げた。
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密室の空気が、急激に冷え込んだ。
静江の指先がカードをシャッフルする、バシッ、バシッという乾いた音が、ガンサーの心臓の鼓動を不規則に乱していく。
「おじいちゃん、よう見ときや。おばちゃんのカードはな、あんたが地下の奥底に隠した真っ黒な本音も、容赦なく暴き出すで」
静江は、ガンサーの顔を見据えたまま、机の中央に一枚のカードを叩きつけるように表に返した。
「……『塔』の正位置や」
描かれているのは、雷に打たれ、真っ二つに砕け散る巨大な塔。そして、そこから真っ逆さまに転落していく人々の残酷な絵柄だった。
ガンサーが息を呑む音が、部屋に響いた。
「あんたがこれまで、他人を蹴落とし、嘘とカネで積み上げてきた『権力』っちゅう名の塔。それが今、足元から音を立てて崩れようとしとるんや。……あんた、自分が一番偉いと思ってるかもしれんけど、カードは『思い上がりの破滅』をハッキリと告げとるで」
「た、たかが紙切れの絵柄で……! 私はガンサー伯爵だぞ! この王都の歴史を築いてきた……」
「歴史? 笑わせんといて。あんたが築いてきたんは、自分の私腹を肥やすための汚い帳簿だけやろ。……エルゼちゃんに毒を盛って、自分だけ安全な場所で甘い汁を吸おうなんて、そんな腐った根性で国が支えられるかいな」
静江の言葉は、鋭いナイフのようにガンサーの急所を的確にえぐっていく。
ガンサーは恐怖と極度のストレスで顔を青ざめさせ、胃を激しく押さえて呻き声を上げた。長年の権力闘争と、今回のエルゼの台頭によるプレッシャーが、彼の内臓を悲鳴を上げさせていたのだ。
「……うぐっ……、い、胃が……」
「……ほら、言わんこっちゃない。悪いことばっかり考えてるから、身体が拒否反応起こすんや。……これ舐めなはれ。おばちゃんからの、最後のお情けや」
静江はアイテムボックスから、鮮やかな黄色の「レモン味」の飴ちゃんを取り出し、ガンサーの震える掌に無理やり握らせた。
静江の凄みに圧倒され、ガンサーは震える手で飴を口に運んだ。
爽やかなレモンの香りが広がり、キリキリと締め付けられていた胃の痛みが引いていく。……だが。
「……ふ、ふふっ。……あはははははッ!」
ガンサーは白旗を揚げるどころか、突如として腹の底から、粘りつくような哄笑を上げ始めた。
その瞳の奥には、権力にしがみつく老人の顔ではなく、おばちゃんの「人情」も「説教」も一切通じない、得体の知れない『狂気』が濁った泥のように渦巻いていた。
「……何がおかしいんや、おじいちゃん」
「甘い。……本当に、あんたは甘いな、ルミナの占師。その飴玉一つで、王都の闇が払えると思ったか? ……私がおとなしく地下に引きこもっていたのは、ただの『時間稼ぎ』に過ぎんのだよ」
「時間稼ぎ……?」
ガンサーは懐から毒薬の入った小瓶を取り出すと、それを自らの手で床に叩きつけて粉々に砕いた。
「この程度の物理的な毒など、囮だ。……静江、あんたは大きな見落としをしている。……もう、あんたの可愛い『仲間』の奥深くには、極上の毒が回っている。……解毒剤はない、逃れられぬ『宿命』という名の毒がな」
その言葉に、静江の背筋を氷の刃がなぞった。
静江は反射的に、残っていたタロットをテーブルに叩きつけるように展開した。
めくられたのは、『死神』の正位置。
だが、静江が息を呑んだのは、カードの意味ではない。
カードの絵柄の奥、水晶の霊視すら凌駕する強烈な「未来の予兆」が、静江の脳裏にフラッシュバックしたのだ。
そこに映ったのは、血を流して倒れる仲間の姿。そして……その顔は、静江が前世の大阪で、どうしても手を引けなかった「うちの息子」の面影と、残酷なまでに重なっていた。
「……えっ。……あんた、うちの……」
いつもの威勢のいい「最強のオカン」の声が、空気を失ったように掠れた。
ギャルという派手な着ぐるみが剥がれ落ち、そこには一瞬だけ、かつてすべてを置いて逃げてきた、深い後悔を抱えた「58歳の母親」の絶望の顔が露わになっていた。
静江は、ただ呆然とカードを見つめたまま、完全に絶句した。
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数十分後。
王宮の静かなバルコニーで、夜風に吹かれながら星空を見上げているエルゼの元に、静江が合流した。
「……遅かったわね、静江。夜の散歩は楽しめたかしら? これで明日は、国王陛下の前で私が……」
エルゼが優雅に振り返り、言葉を止めた。
ヒョウ柄のポンチョを纏った静江の背中からは、いつもの「圧倒的な安心感」が消え失せていた。
うつむいたままの静江の指先が、微かに、けれど確かに震えている。
「……エルゼちゃん」
「え……静江?」
「……うち、とんでもないもんを、見落としてたかもしれへん」
成り上がりの女侯爵と、最強の占い師。
無敵だったはずの二人の足元に、王都の真の闇が、音もなく口を開けていた。
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