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大阪のおばちゃん占い師、異世界に転生しギャルとなる ―運命は変わってへんで―  作者: 川原 源明


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第6話 沈黙の回廊

 夜の帳が下りた商業都市ルミナ。その中心に鎮座する伯爵邸は、かつては慈愛と活気に満ちた場所だった。けれど、ここ一ヶ月の屋敷は、まるで底なしの沼に沈んでいくような、重苦しい静寂に支配されている。


 メイドのリタは、身分を隠すためのボロ布を抱え、裏門の守衛の目を盗んで屋敷へと戻った。

 先ほどまでいた酒場の喧騒、肉の焼ける匂い、そして――あの派手な「おばちゃん」の、心を見透かすような瞳。それらが、遠い夢のように思えた。


(「……敵は外におる刺客やない。令嬢さんの最も近くに、裏切りの影があるわ」)


 リタは暗い廊下を進みながら、その言葉を振り払うように頭を振った。

 伯爵様は温厚な方だ。家臣たちも、エルゼ様を幼い頃から見守ってきた身内同然の者ばかり。誰かがエルゼ様を、あんな残酷な形で売るなど……。


 角を曲がろうとした時、リタは反射的に足を止めた。

 前方、伯爵の執務室の前に、二人の男が立っている。一人は、政務を取り仕切る執政官のハンス。もう一人は、見覚えのない豪奢な毛皮を纏った男だ。リタは息を殺し、柱の影に身を潜めた。


「……例の件、閣下はお急ぎだ」


 見知らぬ男が、低く濁った声で囁く。ハンスは眉間に深い皺を刻み、周囲を警戒するように視線を走らせた。その表情は、リタが知っている「優しいハンス様」のそれとは、あまりにかけ離れていた。


「わかっております。ですが、あの方は頑なに部屋から出ようとせず……。それに、案外鼻が利く。下手に動けば、こちらを疑うでしょうな」


「フン、所詮は小娘だろう。死なぬ程度に弱らせてから運び出せば済む話だ。……閣下は、あの方を『証』として欲しておられる。公爵家を納得させるには、それしか道はない」


 男の冷酷な笑いを含んだ言葉に、リタの指先は凍りついた。

 ハンスは反対するどころか、無機質な顔で深く頷いた。そこに罪悪感の欠片も見当たらない。


(占い師様の言った通りだ……。暗殺者なんて、どこにもいない)


 リタは震える膝を必死に抑え、二人が去るのを待ってから、エルゼの自室へと急いだ。

 重厚な扉の前には、冷淡な表情の騎士が立っている。


「……エルゼ様へのお食事を、運んで参りました」


「リタか。……無駄なことを。一口もつけないものを運ぶのは、お前も骨が折れるだろうに」


 騎士が嘲笑を浮かべて扉を開ける。リタは一礼して、暗い部屋へと足を踏み入れた。


 部屋の中は、魔法灯の火が極限まで絞られ、死者の棺桶のように冷え切っていた。カーテンは厚く閉じられ、月の光さえ拒絶している。

 ベッドの天蓋の陰に、一際濃い闇があった。


「……リタ、なの?」


 掠れた、けれど芯の通った声。

 エルゼ・ルミナ。かつて「ルミナの宝石」と謳われた伯爵令嬢が、青白い顔でそこにいた。その手には、どこから持ち出したのか、古ぼけた書類の束が握られている。


「はい。……エルゼ様、少しだけ、明かりを強くしてもよろしいでしょうか」


「必要ないわ。暗闇に慣れていたほうが、都合が良いもの」


 エルゼの瞳には、かつての輝きはなく、ただ研ぎ澄まされた刃のような鋭さだけが宿っていた。彼女は運ばれてきた食事の盆を一瞥し、ふっと自嘲気味に笑う。


「今日のお肉には、何が入っているのかしら。……香辛料の香りが、いつもより不自然に強いわ。きっと、薬の苦味を消すためでしょうね」


「……エルゼ様」


「いいわ、リタ。そこに置いておきなさい。……後で、いつものように、私の目に触れない場所で処分して」


 絶望は、毒よりも深く彼女の心を侵していた。

 信じていた者たちが、自分を駒として扱おうとしている。その事実に気づきながらも、彼女は独りで耐えていた。


 リタは懐から、あの占い師に託されたものを、震える手で取り出した。

 まず自分に。おばちゃんの言った通り、「オレンジ味」の飴を口に放り込む。


 口の中に広がる、柑橘の甘酸っぱい香り。

 途端に、激しく打っていた心臓の鼓動が、嘘のように静まった。震えていた指先が動きを止め、混乱していた思考が、冷たい水のように落ち着きを取り戻していく。


(……私が怯えていたら、エルゼ様は本当にお独りになってしまう)


 リタは一歩、エルゼの傍らへと歩み寄った。


「エルゼ様。……これを、召し上がってください」


「……飴? リタ、あなたまで私に毒を盛るつもり?」


「いいえ。これは、街で出会った……とても不思議な、そして信頼できるお方から頂いたものです」


 リタはひざまずき、リンゴ味の飴をエルゼに差し出した。

 絞られた灯火を反射して、それは赤い宝石のように不気味に、そして美しく輝いていた。


「……『占いの館・静』。そこで私は、あなたが独りで戦っていることを告げられました」


 エルゼは黙ってリタを見つめていた。その瞳には、メイドの顔色を伺うような猜疑心があったが、やがて細い指を伸ばし、その飴を受け取った。


「……毒であっても構わないわ。今の私には、ちょうどいい気晴らしよ」


 令嬢の唇が、赤い飴を包み込んだ。


 その瞬間、エルゼの顔色が、微かに変わった。

 不快な甘みではない。全身の血管を熱い血が巡り、霞んでいた思考が、一気に透明度を増していくような感覚。


「……リタ、これ。この飴は……」


「静江様は仰いました。これを舐めれば、前を向くためのきっかけが見えるはずだと」


 エルゼは飴を転がしながら、手元の書類――持ち出した帳簿に目を落とした。

 先ほどまでは、文字が滑って内容が入ってこなかった。だが今は、並んだ数字の違和感が、浮き上がるように見えてくる。


「……そう。きっかけ、ね」


 エルゼは立ち上がり、カーテンの隙間から、ルミナの街の灯りを一瞥した。

 その顔には、先ほどまでの絶望ではなく、静かな、しかし激しい闘志が宿っていた。


「リタ。明日の夜、お忍びで屋敷を抜け出すわ。……案内してくれるわね? その、おせっかいな占い師のところへ」


 令嬢の言葉に、リタは深く頭を下げた。

 孤独な戦いは、もう終わったのだ。

 酒場の一角でカードを繰る、あのおばちゃんの掌の上で、運命の歯車が、かつてない速度で回り始めていた。


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