第52話 鏡張りの泥濘と、断ち切るべき未練
「掃き溜めの主」と名乗ったその男の姿は、赤黒い稲妻に照らされて、うちの網膜に焼き付いた。
大阪の占いの館に最後に現れた、あの痩せこけた、けれどどこか品のある佇まいの青年。
あの日、彼は「もう何もかも捨ててしまいたいんです。僕が持っている全てのものを、この世から消し去ってください」と、泣きそうな声で言っとった。
うちは、彼に「物は捨てられても、あんたの心までは捨てたらあかん。また明日、おいで」と返したんやけど……彼は二度と現れへんかった。
「おばちゃん、そんなに驚かないでおくれよ。僕はあの日、君の店を出た後に事故に遭った。そして、手に持っていた荷物……僕がどうしても捨てられなかった、あの重苦しい未練と一緒に、この世界の『排泄口』に流れ着いたんだ。この世界の汚れは、僕のような『行き場を失った未練』が肥料になって、どんどん増殖し続けているんだよ」
主がガラクタの椅子から立ち上がり、右手を軽く振る。
その瞬間、うちらの周りの泥がボコボコと泡立ち、巨大な「鏡」のような壁が次々とせり上がってきた。
鏡の表面には、濁った泥水が流れ、そこに映っているのは異世界の景色やあらへん。
大阪の、あの懐かしくも少し埃っぽい、うちの「占いの館」の内部や。
机の上には使い古された水晶玉と、客が置いていったハチミツ飴の包み紙。
そして、鏡の中に立っているのは、今のギャル姿の自分やなくて、紫のベールを被って少し猫背になった、あの「占い師の静江」の姿やった。
「静江さん、これは幻影です! 惑わされないでください! この鏡は、あなたの心の中にある『捨てられなかった後悔』を具現化して、精神を削ろうとしているんです!」
カイルが必死に叫び、結界を強化しようとする。
アレンも、鏡に映る「自分の過去の未熟な姿」を見て、顔面を蒼白にしながら剣を構え直した。
鏡の中の「静江」が、鏡のこちら側にいる「うち」を、冷たい目で見つめ返してきよる。
「なぁ、静江。あんた、他人の未練を分別して、綺麗サッパリ片付けてるつもりみたいやけどな。あんた自身のことはどないやねん。あんた、大阪に置いてきた自分の家の押し入れ、結局片付けへんまま死んだやろ。死んだ亭主の写真も、子供の昔の通知表も、全部段ボールに詰めて、見んふりして逃げてきただけやないか」
鏡の中の自分からの、容赦ないツッコミ。
胸の奥が、熱い鉄を押し当てられたようにジリジリと痛み出した。
茶色の綺麗なロングヘアを握りしめ、うちは思わず膝をつきそうになった。
そうや。うちは「お節介なおばちゃん」として、何百人、何千人の悩みを聞いて、背中を押してきた。
でも、自分自身の心の中にある「未練の山」については、忙しさを理由にして、ずっと後回しにしてきたんや。
「ほら、おばちゃんも僕と同じだよ。捨てられないものを、無理やり心の奥に押し込んで、その上に『掃除屋』っていう綺麗な看板を立てて誤魔化しているだけ。だったら、もう無駄な抵抗はやめて、この泥の海に身を委ねなよ。ここは、何もしなくていい場所。自分自身を捨てることで、ようやく楽になれる、永遠の安息地なんだから」
主の声が、優しく、けれど確実にうちの耳に染み込んでくる。
泥の壁がゆっくりと迫り、うちらを包み込もうとしとった。
カイルの結界が「パキッ」と音を立てて砕け、アレンの足元が泥の中に深く沈んでいく。
「静江さん……僕、もう……腕が、動きません……。過去の自分が、僕の足を掴んで……放してくれないんだ……」
アレンの瞳から光が消えかけ、彼はモップ槍を手放しそうになった。
その時、うちの脳裏に、一本のハチミツ飴の甘酸っぱい味が蘇った。
前世の大阪で、うちが最後に食べたあの飴。
(……アホか。おばちゃんを誰やと思てんねん)
うちは、震える手で腰のトングを握り直すと、地面を思いっきり叩いた。
金属音が泥の原野に響き渡り、うちは顔を上げて、鏡の中の自分を、そして掃き溜めの主を真っ向から睨みつけた。
「……なぁ、坊ちゃん。あんた、さっき『自分を捨てることで楽になれる』言うたな。それは大きな間違いや。自分を捨てるっていうのはな、『掃除』やなくて、ただの『不法投棄』やわ!」
うちは立ち上がり、スカジャンの襟を正して、ギラギラのデコネイルが光る指で鏡を指し示した。
「ええか、自分の過去をゴミにして捨て去るんやなくて、向き合って、磨いて、必要なもんだけを抱えて生きていくのが『整理整頓』や! 押し入れに未練があるなら、今ここで、魔法でも何でも使って開けて、全部仕分けたるわ! 恥ずかしい過去も、情けない後悔も、おばちゃんの血肉なんや。それを泥と一緒に消してまうなんて、もったいなくてできへんわ!」
うちは水晶玉を高く掲げた。
ノイズまみれやった水晶が、うちの「覚悟」に呼応して、眩いばかりの純白の光を放ち始める。
それは不浄を焼き払う光やなくて、すべての物に宿る「元々の輝き」を照らし出す、鑑定の光や。
「カイル! アレン! シャキッとしなはれ! 過去の自分に見つめられて怖いんやったら、今の自分の方が『もっとイケてる』って見せつけたげたらええんや! 鏡の中の自分なんて、ただの『脱ぎ捨てた古い服』みたいなもんや。そんなもん、リサイクルに出してまえ!」
うちの叫びに、消えかけていたアレンの瞳に闘志が戻った。
カイルも眼鏡をクイッと押し上げ、唇を噛み締めながら、かつてないほど巨大な魔方陣を足元に展開し始める。
「……そうですね。僕はもう、昔の泣き虫な見習い騎士じゃありません。今の僕の隣には、僕を信じてくれる『家族』がいるんだ! 聖なる水よ、過去の呪縛を洗い流せ! 激流!」
アレンの槍から放たれた聖水の奔流が、泥の鏡を次々と砕き割っていく。
砕け散った鏡の破片は、泥に還るんやなくて、キラキラとした光の粒になって空へと昇っていった。
うちはその光の中を、掃き溜めの主に向かって一直線に突き進んだ。
「さぁ、坊ちゃん。あんたの中に溜まった、その『死にたいくらい重たい未練』。おばちゃんが全部、グラム単位で分別したげるわ。覚悟しなはれ!」
おばちゃんのトングが、世界の不浄を司る主の胸元へと、真っ直ぐに突き出されたんや。
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