第32話 建国のヘドロと、主婦の換気論
重厚な鉄扉が悲鳴を上げて開いた瞬間、うちらを襲ったのは、この世のものとは思えんほどの「湿気」と「悪臭」やった。
そこは、王宮のきらびやかさとは正反対の、どろどろに腐り果てた闇の底。壁からは黒いヘドロのような液体が絶え間なく染み出し、床には何百年分もの「未練」が埃のように積もって、足を踏み入れるたびに粘りつく。
「……うわ、なんやこれ。換気扇どころか、窓一つあらへん。これじゃ邪気が発酵してまうのも当たり前やわ。あんた、ここ何年掃除してへんの?」
うちは鼻をつまみながら、真っ暗な空間の奥を睨みつけた。
魔導ランプの光が照らし出したのは、巨大な「肉の塊」のような何かやった。それは建国以来、王家が魔族との契約を維持するために切り捨ててきた、生贄たちの絶望や、裏切られた者たちの怨念が形を成したもん――いわば、王国の歴史が垂れ流してきた「生活排水」のなれの果てや。
「督察官、下がってください! これは……生物ではありません、純粋な『負のエネルギー』の凝縮体だ。不用意に触れれば、精神を汚染されます!」
カイルが鋭い声を上げ、幾重にも防御魔法を張り巡らせる。アレンも剣を抜き、うちを庇うように一歩前に出た。
だが、その塊から漏れ出す「声」は、アレンの剣よりも鋭く、うちの心に直接突き刺さってきた。
『……苦しい……暗い……。なぜ我らだけが……忘れられ……捨てられ……』
何千、何万という人々の呻き声。それが頭の中で渦を巻き、霊視の代償である精神的疲労と混ざり合って、またあの「ノイズ」が走り出した。
視界が歪む。
ドロドロのヘドロが、一瞬だけ、大阪の商店街で雨の日に詰まった側溝の泥に見えた。
耳の奥では、亡霊の叫び声に混じって、「奥さん、今日の鶏ガラ、安いで!」という精肉店の威勢のええ声や、自転車のベルの音が響く。
(……あ、そうや。今日の晩御飯、特売の鶏肉で筑前煮にしようって決めてたんや。……人参と、蓮根と……あと何やったっけ……。……出汁の匂い、思い出されへん……)
記憶が、泥の中に溶けていく。
自分が「静江」という名の58歳の主婦やったという確かな手応えが、若すぎる肉体の躍動に塗り潰されそうになる。
鏡もないのに、一瞬だけ、スカジャンを着たギャルの姿のまま、白髪の自分自身が背後から「もうええやろ、あんた。十分に頑張ったやんか」と肩を叩いてきた気がした。
「……あかん。ここで折れたら、あの特売のチラシが泣くわ」
うちは震える手でアイテムボックスからハチミツ味の飴を取り出し、口に放り込んだ。
奥歯でガリッと噛み砕く。強烈な甘みとハチミツの香りが脳を直撃し、視界のノイズを無理やりかき消した。
「……アレン、カイル! 下がりなはれ! これはな、『除霊』なんて大層なもんで解決する相手やない。これは……溜まりに溜まった『洗濯物』や!」
うちはスカジャンの袖を捲り上げ、アイテムボックスから特大の水晶玉を取り出して、ヘドロの塊の真ん前に叩きつけるように置いた。
「あんたら、ずっとこんなジメジメした地下に閉じ込められて……。そら、性格も腐るわ! 呪いだの怨念だの言うてるけどな、要は『お天道様の下で乾かしてもらってへん』から、カビ臭いねん!」
水晶に両手を密着させる。冷たいはずの水晶が、今は熱を帯びているように感じる。
うちは、塊の中に渦巻く無数の「念」に向かって、説教をぶちかました。
「もうええわ! おばちゃんが全部まとめて外に連れ出したげる。あんたらの無念も、この国の汚い歴史も、全部まとめて『可燃ゴミ』として処理したげるから! 燃えるゴミの日に、天国まで飛んでいきなはれ!」
うちは水晶を通して、自分の中にある「生活への愛着」……つまり、家族のために飯を作り、部屋を磨き、明日を必死に生きてきた主婦のエネルギーを、濁流のように塊へと流し込んだ。
「アレン! 剣を納めなはれ! カイル、あんたの魔法も今は要らん! ……今必要なのは、力やなくて『風通し』や! 地下の換気口を魔法で全開にせぇ!」
アレンとカイルが目を見開く。だが、二人はうちの言葉を信じ、即座に動いた。
カイルが放った衝撃波が、地下室の厚い石壁を破壊し、外へと続く通気口を無理やりこじ開ける。
そこから、新鮮な夜風が流れ込んできた。
ヘドロの塊が、風に触れた瞬間にビクンと震えた。
うちは水晶を抱えたまま、一歩も退かずに叫び続けた。
「……ほら、ええ風やろ? 湿気たツラしてんと、さっさと乾きなはれ! あんたらの分まで、おばちゃんが明日、美味しい筑前煮作ったげるから!」
その瞬間、水晶玉が太陽のような眩い光を放った。
闇を照らし出したのは、聖なる光やない。
それは、どこまでも現実的で、温かくて、少しだけ埃っぽい、「お茶の間の灯り」のような光やった。
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