第14話 化け物の肌と、街の守護者
侯爵領の役人、バルトロが這々の体で酒場を逃げ出してから一夜。
ルミナの街は、いつも通りの朝を迎えた……ように見えたが、空気の粒子がわずかに尖っているのを、うちは肌で感じとった。
「静江さん、今日、市場に行ったらみんなに呼び止められましたよ。『あの役人を追い返したって本当か?』って。……でも、中には『やっぱりあの女は、恐ろしい魔術で役人を呪ったんだ』なんて囁いてる人もいました」
アレンが店の前を掃除しながら、小声で報告してくる。
うちは店の二階の窓から、自分の腕をじっと眺めていた。鏡に映るうちは、二十代そこそこの、ピチピチとした「ギャル」そのものや。
昨日のこと。バルトロの手を叩き落とした時、男の指先が一瞬、うちの腕に触れた。その時、男が浮かべたのは欲情やなくて、得体の知れないものに触れた時の「戦慄」やった。
二十歳そこそこの娘のような、弾力に満ちた瑞々しい肌。
けれど、その奥に宿っているのは、老いもせず、傷つきもせず、ただ時だけを積み重ねた「不老不死」の怪物としての密度。
(……まぁ、怪物でも魔女でも、勝手に呼びなはれ。うちはうちや)
うちは派手な金色のファスナーが斜めに走る、光沢のあるサテン生地のヒョウ柄ブルゾンを羽織った。この世界には存在せえへん「化学繊維」の独特なツヤと、シャカシャカという乾いた音。それがうちを、この世界の「常識」から切り離してくれる。
「アレン。変な噂なんか放っておき。それより、今日はバネッサさんと約束があるんや。あのお局様、昨日の貸しをどう返してくれるか、楽しみやなぁ」
うちはガハハと笑い、アレンを連れて街へと繰り出した。
市場へ出ると、案の定、刺すような視線が飛んでくる。
路地裏に住む貧しい者たちは、静江を「自分たちの味方」として見るようになったが、古くから住む保守的な街民や、身なりの良い商人たちは、まだ静江の「ハデさ」と「異物感」を恐れとった。
「見て、あの服……。あんな卑俗な模様、どこの国のものかしら」
「バルトロ様を追い返したって話だよ。……やっぱり、異国の毒でも使ったんじゃないか?」
囁き声が背中を突く。
そんな中、一人の酔っ払いの男がふらふらとうちの前に立ち塞がった。
「へへっ……。あんたが噂の静江か。……役人を追い返すなんて、たいした度胸だな。どうだ、一晩いくらだ? 占いなんかより、そのピチピチの体で稼いだ方が――」
男がデレデレと笑いながら、汚れた金貨の袋をうちの鼻先に突き出した。
アレンが「無礼だぞ!」と前に出ようとしたが、うちはそれを片手で制し、男の顔を覗き込んだ。
「……あんた、ええ加減にしなはれ。……うちは一晩つき合うても、あんたの不摂生な生活習慣への説教しかせえへんで。それでもええんか? 高いつくよぉ」
「な、なんだと……?」
「あんた、酒の飲みすぎで肝臓が悲鳴上げとるわ。それに、その足の浮腫み……最近、まともに歩けてへんやろ? ……そんな状態で女を抱こうなんて、百年早いわ。まずはその汚い舌を磨いて、白湯でも飲んで寝なはれ!」
うちは男の胸元を人差し指でツンと突いた。
それだけの動作なのに、男はまるでものすごい重量をぶつけられたように、尻餅をついた。
「……ひっ! な、なんだ……この女、力が……!」
「力やない、説教や! ほら、その金は明日からの野菜代に使いなはれ!」
男は逃げるように去っていった。
それを見ていた周囲の街民たちが、呆気にとられたように沈黙する。
娼婦のような格好をしているのに、口を開けば「実家のオカン」よりも厳しい小言が飛んでくる。この強烈なギャップが、少しずつ、街の「偏見」という壁にヒビを入れていく。
その時、市場の広場に、侯爵家の紋章が入った早馬が駆け込んできた。
「――通達! ルミナ伯爵邸の運営不備を鑑み、法務局はさらなる調査を決定した!……なお、昨日の占師への通達は一時保留とするが、街への物流は引き続き制限される!」
早馬が去った後、人々の間に不安が広がる。
「……静江さん。侯爵家、まだ諦めてませんね。バルトロが逃げ帰ったことで、向こうも本気になったみたいです」
「……ええねん。向こうが『法』で攻めてくるなら、こっちは『カネ』と『お喋り』で対抗したるわ。……アレン、バネッサさんのところへ行くで。……あのお局様に、飴ちゃん一粒、追加で『契約』してこなあかんからな」
うちはヒョウ柄の襟を立て、シャカシャカと音を立てて歩き出した。
見た目は異物。中身はオカン。
その歪な存在が、侯爵家という巨大な権力が築いた「法」という名の砦を、足元から切り崩しにかかろうとしていた。
「……見てなはれ。おばちゃんの占いは、星の動きよりも、今日の晩御飯の献立に厳しいんやから!」
静江の言葉は、冬の朝の冷気を切り裂くように、力強く市場に響き渡った。
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