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運が良いだけの新人軍師が伝説の名将と勘違いされる件 ――幸運の軍神は、今日も胃が痛い――

作者: 虹村玲
掲載日:2026/02/01

第一章 運が良いだけの書記官、敵将を落とす


 血は、雨に薄まる。

 けれど匂いだけは薄まらない。鉄と土と臓腑の匂いが、冷えた空気に張りついて、喉の奥に居座る。


 アルト・フェルディナンドは、その匂いが苦手だった。

 苦手なのに、ここにいる。


 第三軍団・第二補給隊付き書記官。

 立派な肩書きに見えるだろうか。中身は、伝令の紙束を濡らさないよう抱えて走る係だ。剣も槍も握らない。握れない。握ったら事故が起きる。自分が死ぬ事故が。


 戦場という場所は、善悪ではなく「順番」で人を殺す。

 前にいるやつから死ぬ。声が大きいやつから死ぬ。目立ったやつから死ぬ。


(だから、目立つな。前に出るな。声を出すな)


 アルトは念仏のように唱えながら、泥の中を走っていた。


「伝令――右翼に回せ! 弓隊の矢数と、魔術士の残存魔力! 急げ!」


 怒鳴ったのは副官ガルド・ヴァイツ。獣みたいな顔のくせに目が鋭い。鎧の上からでも分かるほど肩幅があり、雨に濡れたマントが背中に張りついている。


「は、はいっ!」


 返事をした瞬間、アルトは後悔した。

 声が大きかった。死ぬ。今ので死ぬ。


 雨は斜めに降っている。風が強い。視界が悪い。

 弓矢が飛ぶ音が、雨音に紛れて遅れて聞こえる。そういうのが、一番怖い。気づいた時には刺さっている。


 右翼の陣が見えた。

 槍兵が泥に膝まで沈みながら踏ん張っている。弓兵が弦を引き絞り、矢羽の色だけが規則正しく揺れていた。魔術士たちは後列で術式を組み、空気が薄く光っている。


(紙を渡して、戻る。それだけだ)


 アルトは濡れた羊皮紙の束を胸に抱え、息を切らしながら駆け込んだ。


「補給! 矢数の報告、魔力残量――」


 言い終える前に、右翼の隊長が眉間にしわを寄せた。


「書記官? こんな前に来るな!」


「す、すみません!」


 怒られる方が安全だ。目立っていない証拠だ。

 アルトは渡すべきものを渡し、踵を返した――その瞬間。


 右手側の霧が、妙に歪んだ。


(……人?)


 反射で見てしまった。

 見てはいけないものほど、見てしまう。


 黒い鎧。濡れた革。敵軍の色。

 一人、こちらの隙間に滑り込んでくる兵がいた。剣を低く構え、一直線に突っ込んでくる。狙いは旗だ。旗を倒せば、陣は崩れる。


 ――だが、その進路に、いま俺がいる。


(なんで)


 アルトの思考はそれだけで止まった。

 足が動くより先に、心臓が痛いほど跳ねる。


 敵兵の顔が見える距離だった。

 雨に濡れた頬。目の光。殺意。


「どけッ!」


 叫び声が、アルトの耳を刺した。

 どける。もちろんどける。いや、逃げる。逃げるしかない。


 アルトは全力で走った。走って、走って――


 足が、ずぶりと沈んだ。


 泥に足首を取られ、体が前のめりになる。

 視界がぐるりと回転して、天地が逆さになった。


「うわっ――!」


 手に持っていたものがすっぽ抜けた。

 紙束。インク壺。……そして、さっき足元で踏まないよう無意識に拾っていた「石」。


 石は雨の中を、信じられないほど綺麗な弧を描いた。


 アルトは転がりながら、思った。

(あ、当たったらまずい。誰かに当たったら俺が怒られる。怒られるのはいい。でも――)


 次の瞬間、戦場の音が一瞬、消えた。


 矢が止まった。怒号が途切れた。

 何か、重いものが落ちる音だけが聞こえた。


 アルトは泥まみれのまま、顔を上げた。


 霧の向こう――敵陣の中心。

 派手な羽飾りのついた兜。金の縁取り。指揮官の証。


 その男が、馬上でぐらりと揺れた。


 額に、石が刺さっていた。


(いや、嘘だろ)


 男の首が傾き、馬の首が嫌な角度でしなる。

 そして、指揮官は落ちた。泥の上に、鎧が沈む。まるで、神が糸を切ったみたいに。


「……敵将が――!」


 誰かの声が裏返った。


「ヴァルガス将が落ちたぞ!!」


 それを合図に、敵の動きが乱れた。

 突っ込んできた敵兵も、足を止めた。目が泳ぎ、背後を振り返る。


 味方の槍兵が叫ぶ。


「敵将討ち取りだ! 押せぇぇぇ!!」


 声が連鎖して、波になる。

 さっきまで押されていた右翼が、嘘みたいに前に出た。

 恐怖が、興奮に置き換わっていく。


 アルトの背中を冷たい汗が流れた。雨で濡れているのに、それだけは分かった。


(違う。俺じゃない。偶然だ。これは事故だ)


 言えない。言った瞬間、誰かが「謙遜」と言う。

 謙遜という言葉は、誤解を正すためのものではなく、誤解を固めるためにある。戦場では特に。


「アルト!」


 副官ガルドの声が飛んだ。


 アルトが振り向いた瞬間、ガルドと目が合った。

 いつも怒鳴っている男が、いまは怒鳴っていない。

 それが、怖かった。


「……お前、いま――」


 続きが言葉にならない。

 ガルドの顔が、理解と困惑と、何か別の感情の混ざった表情になっている。


 その横で、右翼隊長が喉を鳴らした。


「……書記官が……敵将を……?」


「馬鹿な」

「だが、見たぞ」

「転んだだけで……」

「いや、あれは……“狙った”転び方だ」


(転び方に狙いとかあるのか)


 アルトは泥の上で、息を吸う。吸った瞬間、肺に冷気が刺さった。

 戦っていないのに、戦っているみたいに震える。


 そして、最悪のタイミングで、さっきの敵兵が言葉を落とした。


「……幸運の……軍神……」


 誰かがその言葉を拾った。

 拾った言葉は、すぐに旗になった。


「幸運の軍神だ!」

「軍神がいるぞ!」

「この戦は勝った!」


 歓声が上がる。

 アルトは膝の力が抜けて、その場に座り込んだ。


(やめろ。俺は軍神じゃない。俺はただの書記官だ。今日の俺の功績は――転倒)


 しかし戦場の空気は、そういう正解を許さない。

 欲しいのは物語だ。勝利の物語。信じられる偶像。


 アルトはその偶像に、いま勝手に加工されている。


 戦闘は、そのまま決着した。

 指揮官を失った敵は崩れ、右翼が押し切った。

 戦が終わったあとも、アルトへの視線は消えない。むしろ増えた。


 兵たちが離れていくのではなく――

 距離を置いて敬礼していく。


「アルト殿……」

「お疲れさまであります……」


(殿って何)


 アルトは、笑うべきか泣くべきか分からないまま、濡れた手で顔を拭った。泥が伸びる。

 その時、背後から聞こえた小さな声に、背筋が固まった。


「……いまの、見ました」


 振り返ると、女騎士が立っていた。


 黒髪を後ろで束ね、鎧の傷は浅い。だが、目が死んでいない。

 どころか、まっすぐすぎて怖い。


 騎士の名は、リーナ・グレイヴ。

 第三軍団でも「本物」と呼ばれる剣だ。


 彼女はアルトを見下ろし、淡々と言った。


「偶然に見せかけた“最短”。あなたは、怖い人ですね」


 アルトの喉が鳴った。

 否定しようとした。

 だが、声が出ない。


 リーナは続ける。


「……次の戦。あなたのそばに付きます。守るためじゃありません」


 そこで一拍、置いた。

 雨が鎧を叩く音がやけに大きい。


「あなたの“勝ち方”を、学ぶためです」


(学ぶな。勝ち方は知らない。転び方しか知らない)


 アルトは口を開いた。やっと開けた。


「……俺は……」


 言葉は、そこで途切れた。


 遠く、戦場の端。

 敵陣が退いた方向に、黒い旗がひとつ残っているのが見えた。


 ただの旗じゃない。

 狼の紋章。帝国の第二軍団――蛇将メルキオールの配下が使う印。


 アルトは、なぜか寒気がした。

 “見られた”気がした。


 この誤解は、もう戦場で終わらない。


 そう思った瞬間、背後で副官ガルドが低く言った。


「……アルト。軍議室に来い」


 アルトの胃が、きゅうっと縮んだ。


(終わった)


 雨の中、勝者の歓声が続いている。

 その中心にいるのが自分だという事実だけが、やけに現実味を帯びていた。


 ――運が良いだけで、人生が狂い始めた。


第二章 退却しただけなのに「神策」扱いされる


 軍議室は、思ったより静かだった。


 怒号も、罵声も、剣呑な空気もない。

 あるのは、異様なほどの期待だけだった。


 アルトは入口付近に立ったまま、椅子に座らない。

 座ったら何かが確定してしまう気がした。


 長机の奥には、第三軍団長アーベル・ローディス将軍。

 白髪混じりの壮年で、戦場では「鉄壁」と呼ばれる人物だ。

 その左右に副官、参謀、騎士団長クラスがずらりと並ぶ。


 全員が――

 アルトを見ている。


(……帰りたい)


 アルトの内心などお構いなしに、将軍が口を開いた。


「書記官アルト・フェルディナンド」


 名前をフルで呼ばれると、だいたい碌なことがない。


「……はい」


 声が裏返らなかっただけ、自分を褒めたい。


「本日の戦果、確認した」


 将軍は淡々としている。

 だが、その目は獲物を見る目だった。


「敵将ヴァルガス、戦死。

 右翼の崩壊寸前からの逆転。

 損害、想定の六割減」


 参謀が資料をめくる音がする。


「正直に言おう。

 我々の作戦では、こうはならなかった」


(ですよね)


 アルトは深く頷きたい衝動を必死で抑えた。


 将軍は続ける。


「だが、結果は出た。

 そして――原因は、お前だ」


 アルトの胃が締め付けられる。


「敵将を討ち、士気を反転させ、戦局を変えた。

 偶然だと言うか?」


 アルトは、息を吸った。


 ここだ。

 ここで否定しないと、終わる。


「い、いえ、その……完全に偶然で――」


「なるほど」


 将軍は頷いた。


「偶然を戦果に変える判断力、というわけだな」


(違う! 話を聞いてくれ!)


 だが、将軍は聞く気がない。

 むしろ、納得した顔をしている。


「敵将の動線を読み、

 あえて前に出て誘い、

 退路を泥地に限定し、

 “事故”を装って排除」


 参謀たちが、静かに息を呑む。


「……大胆だが、理にかなっている」


(全部後付けだ!)


 アルトの脳内で、全力のツッコミが走る。


 そのとき。


「補足、よろしいでしょうか」


 声を上げたのは、リーナだった。


 鎧姿のまま、背筋を伸ばして一歩前に出る。


「私は現場を見ました。

 アルト殿は、敵将を“見てから”動いています」


 アルトは、ゆっくり振り向いた。


(見てない。見たくなかった)


「普通なら逃げます。

 しかし彼は、あえて前に出た」


 将軍が興味深そうに顎を撫でる。


「……つまり?」


「退却路を“餌”にしたのだと」


 軍議室が、ざわついた。


「書記官の身で、あの距離感。

 あれは――戦場慣れしている者の動きです」


(慣れてない! 人生で一番怖かった!)


 だが、アルトの声は届かない。


 将軍は、ゆっくりと立ち上がった。


「よろしい」


 重い一言。


「では、次の戦も――

 アルトを前線参謀として運用する」


 世界が、止まった。


「……は?」


 口から、素の声が出た。


 しまった、と思ったが遅い。


 将軍は気にも留めず続ける。


「敵は帝国第二軍団。

 指揮官は“蛇将”メルキオール」


 その名に、軍議室の空気が一段冷えた。


「策を読まず、退かず、罠を疑う男だ。

 だが――」


 将軍の視線が、アルトに刺さる。


「運を疑う人間ではない」


(やめろ。その情報を俺に投げるな)


「アルト。

 次は、どう動く?」


 完全に詰んだ。


 逃げる?

 無理。

 正直に言う?

 信じられない。


 アルトは、必死に考えた。


(……どうせ、何を言っても勘違いされる)


 なら――

 被害を減らす方向に誘導するしかない。


「……撤退、です」


 絞り出すように言った。


 室内が、凍る。


「撤退?」


「はい。

 正面衝突は……損害が大きすぎます」


 それは、本音だった。

 誰も死んでほしくない。

 それだけ。


 だが。


 将軍は、ゆっくりと笑った。


「……なるほど」


 参謀が、はっとした顔をする。


「退却を選ぶことで、

 蛇将に“勝ったと思わせる”……?」


「補給線を伸ばさせ、

 地形で削るつもりか……!」


 リーナが、小さく息を吸った。


「……深い」


(深くない。怖いだけだ)


 将軍は、満足そうに頷いた。


「よし。

 撤退案、採用だ」


 アルトは、頭が真っ白になった。


 その瞬間、誰かが言った。


「……運が良いだけでは、ここまで読めん」


 その言葉が、決定打だった。


 アルト・フェルディナンド。

 書記官。


 この日を境に、

 **“幸運の軍神”**として名前が走り始める。


 ――本人が、一番それを望んでいないという事実を、

 誰も知らないまま。


 そしてその頃。


 帝国側陣営。


 蛇将メルキオールは、地図を前に微笑んでいた。


「……撤いた、か」


 黒衣の参謀が言う。


「罠でしょうか」


 メルキオールは、首を振った。


「いいや。

 勝ちを確信した者の余裕だ」


 指先が、ある地点をなぞる。


「運だけで敵将を落とした?

 ……違うな」


 蛇のような瞳が、細くなる。


「面白い。

 この“軍神”……

 どこまで転がるか、見てやろう」


 盤面は、もう動き始めていた



第三章 撤退しただけなのに敵軍が勝手に滅びた件


 撤退は、混乱なく行われた。


 ――正確には、「混乱が起きないように」全力で逃げただけだった。


(頼むから追ってくるな……)


 アルトは馬上で祈っていた。

 戦術でも策でもない。純粋な祈りだ。


 だが。


「敵、追撃してきます!」


 伝令の声が響いた瞬間、胃が裏返った。


(来た! 最悪だ!)


 振り返れば、帝国軍の軍旗。

 整然とした隊列。士気も高い。


 蛇将メルキオール。

 撤退を「勝利」と判断し、容赦なく追撃をかけてきた。


「……来ましたね」


 リーナが低く呟く。


 その声色には、緊張と――奇妙な信頼が混じっていた。


「想定通り、ですね」


(想定してない! 想定してない!)


 アルトは、必死に表情を動かさない。


「……ええ」


 嘘を重ねるしかない。


「ここから、どうします?」


 どうするも何も、何も考えていない。


 だが、考えていないと言えば死ぬ。


 アルトは、遠くの地形を見た。


 ――丘。

 ――川。

 ――ぬかるんだ低地。


(……あ)


 偶然、記憶が繋がる。


 補給隊時代に聞いた話。

 この一帯は、雨が降ると一気に地盤が緩む。


 昨日、雨が降った。


「……進路を、南へ」


 アルトは、静かに言った。


「丘を越えます」


 参謀が目を見開く。


「丘を? 敵に背を向ける形になりますが……!」


「問題ありません」


 問題しかない。

 だが、口には出さない。


「追わせてください」


 リーナが、息を呑んだ。


「……追わせる」


 その言葉が、すでに策の一部として解釈されている。


 隊は丘を越えた。


 そして――


「……あれ?」


 最初に異変に気づいたのは、後方の兵だった。


 地面が、沈む。


 馬の脚が取られる。


 車輪が、止まる。


 帝国軍の隊列が、乱れ始めた。


「ぬかるみだ!」

「引き返せ!」


 だが、遅い。


 重装歩兵が足を取られ、

 後続が詰まり、

 指揮が通らなくなる。


 その瞬間。


「……弓隊、後方支援」


 アルトは、反射で言った。


 攻撃ではない。威嚇だ。


 矢が飛ぶ。

 当たらない。

 だが、十分だった。


 敵は「包囲される」と誤認した。


 蛇将メルキオールは、地図を見ていた。


「……地形を、読まれたか」


 その声に、焦りはない。


「だが、運だけでは説明がつかん」


 彼は、撤退を命じた。


 だが――


 撤退は、進軍より難しい。


 ぬかるんだ地形。

 混乱した隊列。

 士気の揺らぎ。


 帝国軍は、自壊した。


 戦闘は、ほぼなかった。


 だが、結果は――


「敵軍、大混乱!」

「撤退を開始しました!」

「追撃……いえ、必要ありません!」


 歓声が上がる。


 兵士たちが叫ぶ。


「勝ったぞ!」

「軍神だ!」

「アルト様のおかげだ!」


(違う……本当に違う……)


 アルトは、馬上で項垂れそうになる。


 リーナが、隣で静かに言った。


「……敵将は優秀です」


「……え?」


「それでも勝てなかった。

 だから――」


 彼女は、まっすぐアルトを見る。


「あなたは、もっと恐ろしい」


(評価が重い……)


 この日。


 アルト・フェルディナンドの名は、

 前線だけでなく、王都にまで届いた。


 「退却で勝つ男」

 「戦わずして敵を滅ぼす軍神」


 本人は、夜営で毛布に包まりながら震えていた。


(お願いだから、次は何も起きるな……)


 だが、起きる。


 必ず。


 そして王都では――


「……面白いですね」


 王女が、書簡を閉じた。


「戦わずして勝つ。

 しかも、本人はそれを誇らない」


 微笑みが浮かぶ。


「ぜひ、一度会ってみたい」


 その一言で。


 アルトの「平穏」は、完全に消えた。



第四章 王女が来たのは視察であって、処刑ではない(はず)


 王女が来る。


 その報せを聞いた瞬間、アルトは膝から崩れ落ちた。


「……は?」


 情けない声が、自分の口から出たのが分かった。


「王女殿下が、前線を視察なさるそうです」


 伝令は、誇らしげに言った。


「そして――アルト様に、直接お会いになりたいと」


(終わった)


 心の中で、完結した。


 これはもう、どう足掻いても処刑イベントだ。


(やりすぎた……!

 撤退が綺麗すぎた……!

 ぬかるみが完璧すぎた……!)


 自分の運を、初めて恨んだ。


 リーナが、落ち着いた声で言う。


「光栄なことですね」


「……そう見えますか?」


「見えます」


 即答だった。


「王女殿下は、無能な将には興味を示しません」


(それが怖いんだよ……)


 アルトは、胃を押さえた。


 ***


 王女一行が到着したのは、翌日の昼だった。


 白銀の装飾を施した馬車。

 精鋭の近衛。

 空気が、変わる。


 アルトは、無駄に背筋を伸ばしていた。


(失礼があったら終わる……

 言葉を間違えたら終わる……

 呼吸を間違えても終わる……)


 そんなことを考えている間に、扉が開いた。


 現れたのは――


 年若い女性だった。


 淡い金髪。

 知性を宿した瞳。

 柔らかな微笑。


 だが、その存在感は、戦場の空気を一変させる。


「初めまして」


 澄んだ声。


「私は、王女セレナ・ルミナール」


 アルトは、反射で膝をついた。


「お、お目にかかれて光栄です……!」


 声が裏返らなかっただけ、奇跡だった。


「顔を上げてください」


 優しい口調。


 それが、余計に怖い。


「あなたが――

 “戦わずして敵軍を崩壊させた軍師”ですね」


(違います違います違います)


 アルトは、必死に否定の言葉を探す。


「い、いえ……偶然で……」


 だが、その一言が。


「……偶然」


 セレナ王女の目が、きらりと光った。


「ご謙遜を」


 にこり。


「戦場で“偶然”を操れる者を、天才と呼ぶのです」


(操ってない!!)


 周囲の近衛たちが、静かに頷いている。


 アルトは、完全に包囲されていた。


「お話を伺っても?」


「……はい……」


 拒否権など、存在しない。


 ***


 簡素なテント。


 向かい合う、王女とアルト。


 リーナと数名の側近が、距離を取って控えている。


「まず、あの撤退戦について」


 来た。


 核心。


「敵将メルキオールは、王国でも名の知れた将です」


 王女は言う。


「その彼が、“追撃したこと自体が敗因だった”と語っています」


(本人が一番勘違いしてる……)


「どうやって、彼の心理を読んだのですか?」


 アルトは、沈黙した。


 ――言えない。


「逃げたかっただけです」とは、死んでも言えない。


 だが、沈黙は――


「……なるほど」


 勝手に解釈される。


「“相手に考えさせる余白”を残した、ということですね」


(違う)


「追えば罠、追わねば士気低下」


(そんな高度なことしてない)


「完璧な二択」


(二択すら考えてない)


 王女は、深く頷いた。


「素晴らしい……」


 その言葉が、アルトの心を削る。


「あなたは、“勝つために戦わない”」


 視線が、まっすぐ向けられる。


「……それは、王国が今、最も必要としている才能です」


 アルトの脳裏に、警報が鳴った。


(必要とされたら終わりだ……)


「もし」


 王女は、少し間を置いて言った。


「あなたが王都に戻ることになれば――

 多くの人間が、あなたを頼るでしょう」


 ――それだけは、避けたい。


 アルトは、勇気を振り絞った。


「……恐れながら」


「はい」


「私は……その……」


 言葉を選ぶ。


「……臆病です」


 一瞬、静寂。


「戦いは怖いですし、

 責任も、重すぎます」


 正直な、本音だった。


 だが。


 王女は、微笑んだ。


「それが、いいのです」


(え?)


「臆病だからこそ、命を軽んじない」


「怖いからこそ、無駄な戦を避ける」


 柔らかい声。


「……あなたは、とても優しい軍師ですね」


(優しさでやってない……)


 だが、もう遅い。


「私、決めました」


 王女は、はっきりと言った。


「あなたを、王都に招きます」


 アルトの視界が、白くなる。


「拒否は……」


「ありません」


 即答だった。


 リーナが、横で小さく笑った。


「……覚悟、ですね」


(覚悟って何……)


 この日。


 アルト・フェルディナンドは――


 **王女公認の“天才軍師”**になった。


 本人の意思とは、無関係に。


 そして王都では、すでに噂が広がり始めていた。


 ――幸運の軍神。

 ――戦わぬ名将。

 ――王女が目をかけた男。


 アルトは、知らない。


 この勘違いが、

 やがて戦争そのものを終わらせてしまうことを。


 本人が、一番望んでいない形で。



第五章 王都は敵地より怖い


 王都が見えた瞬間、アルトは本気で逃げようとした。


「……でかすぎない?」


 思わず零れた声は、馬車の中で虚しく消えた。


 白い城壁。

 高く掲げられた王国旗。

 行き交う人々の数は、前線とは桁が違う。


(戦場より人が多いの、無理なんだけど……)


 アルトは、外套の中で胃を押さえた。


 向かいに座る王女セレナは、穏やかに微笑んでいる。


「緊張していますか?」


「……少し」


 嘘だった。

 かなり、だった。


「大丈夫ですよ」


 励ましのつもりなのだろうが、言葉が重い。


「皆、あなたに会えるのを楽しみにしていますから」


(それが一番怖い……)


 ***


 城門が開かれた瞬間、歓声が上がった。


「おおおおお!!」

「来たぞ……!」

「幸運の軍神だ!」


(なんで!?)


 アルトは、完全に思考停止した。


 道の両脇に並ぶ市民。

 花びら。

 なぜか掲げられる旗。


「……歓迎、されてますね」


 リーナが淡々と言う。


「いや、これ絶対、何か誤解してますよね?」


「今さらです」


 冷静すぎる。


 馬車が進むたび、声が飛ぶ。


「敵を一人も殺さず勝った将!」

「戦争を終わらせる男だ!」


(そんなこと一言も言ってない……!)


 アルトは、心の中で全力で否定していた。


 だが、王女は小さく息を吸い、言った。


「――アルト様」


 様、が付いた。


「ここからは、あなたの振る舞い一つで

 国の空気が変わります」


 真剣な声だった。


「どうか……あなたらしく」


(俺らしさって何……)


 ***


 王城・謁見の間。


 ずらりと並ぶ貴族たち。

 刺さる視線。

 値踏みと恐怖が、混ざっている。


 玉座に座る国王は、年老いているが、眼光は鋭い。


「……よく来たな」


 低い声。


「アルト・フェルディナンド」


 名前を呼ばれただけで、背筋が凍る。


「前線の報告は、すべて聞いている」


(誇張されてるやつだ……)


「正直に言おう」


 国王は、少し身を乗り出した。


「お前が何者なのか、まだ分からん」


 アルトは、頷きかけた。


(分からなくて正解です)


「だが――」


 続く言葉が、重かった。


「結果だけは、事実だ」


 ざわ、と空気が動く。


「戦力劣勢を覆し、

 敵将の判断を狂わせ、

 戦場を制圧した」


(制圧してない……撤退しただけ……)


「それを“偶然”と言うなら」


 国王は、口角を上げた。


「この国は、偶然に救われたことになる」


 沈黙。


 そして。


「……面白い」


 国王は、笑った。


「お前を、王国軍特別参謀に任命する」


(来たーーーーー!!)


 アルトの内心が、悲鳴を上げる。


「地位も、権限も、最低限だ」


 最低限(絶対最低限じゃない)


「だが」


 国王の視線が鋭くなる。


「お前の意見は、必ず議論の俎上に載せる」


(それが一番困る……!)


 王女セレナが、一歩前に出た。


「父上」


「何だ」


「彼は、無理に前へ出るタイプではありません」


 アルトは、心の中で全力で頷いた。


「だからこそ」


 王女は、微笑む。


「周囲が、彼の“沈黙”を読み取る必要があります」


(沈黙=考えてないだけです)


 貴族たちが、ざわつく。


「沈黙の軍師……」

「なるほど……」


(なるほどじゃない)


 こうして。


 アルトは――


 「多くを語らず、すべてを見通す男」

 として、王都に定着した。


 本人は、何も考えていないのに。


 ***


 その夜。


 与えられた私室で、アルトはベッドに突っ伏していた。


「……帰りたい……」


 リーナが、紅茶を置く。


「無理ですね」


「即答!?」


「今日一日で、

 “王女派の象徴”になりました」


(派閥できてるの!?)


「敵対派閥は、

 あなたをどう扱うか迷っています」


「迷うくらいなら放置してほしい……」


 リーナは、少しだけ笑った。


「でも」


「?」


「あなたが何もしていないからこそ、

 皆が勝手に“深読み”している」


 アルトは、天井を見つめた。


「……それ、止められませんか」


「止まりません」


 断言。


「むしろ、これからです」


 その言葉の意味を。


 アルトは、まだ知らない。


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