途川邸
「た、煙草を吸いたいんですけど……あの電子なんで、火事とか大丈夫だと思うんですけど……あの電子ならいいんですよね?」
「電子?」
「電子タバコですこれ、火を使わないんです。電気の熱で吸えるので、火事になったりはしないっす」
橋本ヒロキは電子タバコの端末を老婆に見せる。老婆は「はぁ」と至極どうでも良さそうな相槌をうった。
「お部屋で吸っていただいても構いませんが。灰皿を用意しましょうか」
「あ―ダメなんですよ。ハヤトが駄目で」
「ハヤト?」
「柄シャツの男です。あいつ煙草嫌がるんすよ。監督志望で煙草吸うって、それっぽすぎるって変なこだわりあって……ってか福爲も吸えないんで、男は俺だけなんですよね吸うの。平野……あの髪がこんな感じの女いるでしょ?」
橋本ヒロキは、自分の首のあたりを切るような動作をし、平野マナの髪の長さを示す。老婆は「ああ」と相槌をうった。
「あれは煙草くさい煙草くさいってうるさいし。電子なのに。堀ユリだけ、あいつは吸ってるんで、肩身狭い者同士……あ」
そこまで話をして、橋本ヒロキは堀井ユリが喫煙者であることをサークルの人間に隠していることを思い出した。勢いとノリで言ってしまったが、村の習わしで女は吸うなとあった。言ってはダメだったかもしれない……と橋本ヒロキは老婆の反応をうかがう。
しかし老婆は黙ったままだ。怒り出しもしない。
「電子っすよ。堀井ユリ。あと、なんか、堂々と煙草吸うみたいなことはしないんで、めっちゃ隠してるんです。周りに。イメージみたいなの気にしてて、ハヤトも知らないんで、多分大丈夫だと思います。あと堀井ユリも電子なんで、本当に、火事の心配は無いと思いますんで」
何が大丈夫かは自分でも分からないが、一応付け足す。すると老婆は、「いえ、ありがとうございます」と歯茎を見せながら笑った。
「色々と、教えて頂き、助かります」
「そっすか?」
電子タバコの仕組みが分からないほど田舎なのだろうか。それとも、年寄りとして最近の知識に疎いのか。どちらにせよ、どうでもいい。仏壇の部屋に入ったことがバレず、いや、最悪バレてもいいが怒られたりややこしいことにならなければ。
「じゃあ、煙草吸ってきまーす」
橋本ヒロキは玄関を目指し進む。
老婆が橋本ヒロキと喋った時の笑顔のまま、その背中を見つめ続けていることに気付かずに。
「あぁ……」
玄関で靴を履き替え、出てすぐのところで電子タバコを吸い始めた橋本ヒロキは、ぼんやり空を眺めていた。空いている片手で、『三戸』と記された玄関扉の横の表札をつつく。名前は炭で描かれているのではなく、彫刻刀か何かで刻まれ、中に墨を流している造りだ。その削った跡を、何となくなぞる。
「きたねー」
こすっていると埃がついた。手入れしてないらしい。指先が汚れたので、表札になすりつける。すると、ガタンッと、表札が外れた。
「やっべ」
橋本ヒロキは慌てて三戸の表札を拾う。元あったところに戻そうとして、手を止めた。
「え」
そこには三戸と記された表札で隠れていたらしい表札があった。そこには、途川と記されている。
「と、とがわ……とかわ? 分かんねー、まぁいいや」
橋本ヒロキは表札を元に戻す。試行錯誤するうち、きちんとはまった気がした。
「吸った気がしねえや」
さっきも怖い目にあったし、と橋本ヒロキは大きく息を吐く。
「あ」
そういえばあの仏壇のある部屋で、なにか拾った。滑った感じからしてレシートを想像したが、手にするとやけに大きかったので、ぐしゃぐしゃにしてポケットに詰めていた。
煙草の吸殻と一緒に捨てるかとポケットから出せば、それは古び、変色した二枚の和紙だった。
雨が降らない。
雨が降らない。
雨が降らない。
皆、嘆いている。
月が見えない。母に知られるわけにはいかない。
知られたら母は私を責めるだろう。
血を分けた女中に何をするか分からない。母は苛烈な人。
この先、どうしたって行くすべがない。
ならばこの身を捨てよう。
「歌詞? ダッサ」
橋本ヒロキは、眉間にしわを寄せながらももう一枚、和紙をめくる。
この身をもって雨を降らすことが出来たなら。何も成せず、何者にもなれぬ私にも、生きた意味があったというもの。
ならばこの身を捨てましょう。
私はこの途川の自然を愛し、この土地が豊かになり、子供が笑って生きられることを望みます。
幸せであれ。
幸せであれ。
皆の幸せを祈ります。
三戸志保
「みと……しほ? この屋敷の人? やば、超大事な奴じゃん」
橋本ヒロキは慌てて古びた和紙で煙草の吸殻を包み、ぐしゃぐしゃにしてポケットに入れた。これはゴミだ。ゴミにする。この紙はあの仏壇の部屋で拾ったもの、屋敷は三戸家と表札がかけられているので、おそらく三戸家にとって大事なものだ。しかし、またあの仏壇の部屋に行ってこの紙を戻そうにも、そもそもどこにあったか分からないし、畳に落ちていたが、自分が入って落としたのかもしれない。
今はまだ仏壇の部屋に入ったことがバレてない。
わざわざ戻したら仏壇の部屋に入ったことがバレる。
バレたら面倒くさそう。今のところなんともなってないのなら、わざわざことを荒立てるのは自白するようなものだ。捨ててしまえばなかったことになる。
「あ~タバコやんなきゃよかったな」
吸い殻が邪魔だったので、そのまま包んでしまったが、下手に見つかれば自分の仕業だとバレてしまう。老婆に煙草について言ったばっかりだ。
「くそすぎ……ってかマジで酒飲みたい。この怠さは完全に酒だわ」
橋本ヒロキは丸めた和紙を強引にポケットに押し込む。老婆の元へ行って酒について尋ねつつ、なにか適当な手伝いをしてその過程でゴミとしてこれを捨てよう。そうすればいい人感が出る。ゴミも捨てられて、酒も手に入るし、最悪、物が亡くなったことがバレても、疑いは外れるだろう。堀井ユリが吸ってることは老婆に共有済みなので、疑うとしたらそっちになる。
安全策が整ってから、橋本ヒロキは屋敷に戻る。
カタン、と、『三戸』の表札が落ちた。




