後悔と舞踏会と戸惑い
私はなんて事をしてしまったんだろうと、後悔に苛まれたのは泣き疲れて気を失うように眠ってしまった次の日の朝だ。
目が覚めるとフレッドが寝落ちしたアンリの世話をしてくれたのか、きちんとベッドの上で布団を肩まで掛けて眠っていた。それにあれだけ泣いたにも関わらず、目元は腫れずに済んでいる。きっとアンリをベッドまで運んでくれた後、フレッドが濡れたタオルで冷やしてくれたのだろう。
昨日、あんなに声を上げて泣いたからか、胸の中で渦巻いていたモヤモヤはすっかり消えている。
視線を這わせるとフレッドはどこから持ってきたのか、ベッドの側に椅子を置き、椅子に座ったまま布団も掛けずに眠っている。もしかしてアンリが夜中、目を覚ましても一人にしないように、こうして側に居てくれたのだろうか。
一年以上、フレッドと共に過ごしてきたが、フレッドがアンリの前で無防備に眠っている姿を見るのは初めてで新鮮だ。いつもどこか大人びているフレッドも、寝ている時は年相応の表情でなんだか可愛らしい。
風邪を引いてしまわないか心配で、フレッドを起こしてしまわないように注意を払ってアンリが使っていた布団を掛ける。
「んっ、…あれ、寝てた」
しばらく寝顔を眺めていると、フレッドは唸りながら何度か目を擦る。そして目が開いたフレッドと目が合う。
「あれ、起きてたの?」
「うん、ちょっと前に。それより、体痛くない?」
「大丈夫だよ。アンリの方はどう?少しは気持ち、落ち着いた?」
「うん、昨日はごめんね。それから、ありがとう」
「どういたしまして。今日の夕方からは予定通りに行けそう?」
「私は大丈夫だけど…、フレッドは?あまり眠れてないんじゃない?」
「僕は平気だから、気にしなくていいよ」
「そう?それなら良いけど…。今日は一回でもフレッドと一緒に踊れたら良いな」
そう、今日はついにソアラ家で舞踏会が開催される日だ。お父様にフレッドと二人で参加してくれないかと頼まれた日からあっという間に二週間が経っていた。舞踏会の開催は夕暮れだ。ただ、アンリとフレッドは少し早めの時間に来て欲しいとクイニーから言われていた。
「僕となら毎日一緒に踊ってたでしょう?」
「そうだけど、それは練習でしょう?」
「じゃあとりあえず朝食を取って、しばらくゆっくり過ごしたら準備しよっか」
アンリとフレッドは食堂で並んで朝食を食べ終えると、二階の談話室でゆっくりお喋りをしながら有意義な時間を過ごす。
そろそろ準備に移ろうかと談話室を出るとフレッドは自室へ、アンリはドレスルームへ向かう。
フレッドの部屋は元々、三階の使用人達の部屋が並ぶ一角にあったが、爵位を継ぐと決めた数日後にはアンリの部屋の隣に空き部屋としてあった部屋に引っ越してきた。その部屋はオーリン家に引き取られたフレッドのために用意した部屋だったらしいが、フレッドはその部屋を使わずに、三階の使用人専用フロアの一室を使っていたらしい。
だが爵位を継ぐと決めたことでお父様からほとんど強引に部屋を移動させられた。そして今ではフレッドが使っていた三階の部屋はルイの部屋となっている。
ドレスルームにはたくさんのドレスが綺麗に並べられ、奥の化粧台では数え切れない程の化粧品が並べられている。室内では既にメイド達がドレスの手入れやメイク道具の準備をしていて、やって来たアンリを化粧台の前の椅子に座らせる。
「ではメイクとヘアセットから始めますね」
「本日はどのようなイメージになさいますか?」
「えっと…、今回もお任せで」
メイドの一人はメイク、もう一人はヘアセット、そしてもう一人のメイドは二人のサポート役としてアンリをどんどん変身させていく。彼女達には何度か、こうしてヘアメイクをしてもらった事があるが、何度見ても三人は手際がよく、無駄な動きを見せずにテキパキと進めていく。
「出来ましたよ」
「ありがとう」
メイクはメイド曰く瞳のブルーを際立てるメイク、髪型は三つ編みのハーフアップだ。
メイド達はいつでもこうしてアンリに似合うメイク、ヘアセットをしてくれる。だからこそ、いつも彼女達に甘えてお任せしてしまうのだ。
そしてそのままメイド達にドレスを着させてもらう。今日のドレスは足先まで隠れるブルーのカクテルドレス。シンプルなデザインだが、薄らと花の刺繍がされていて上品な雰囲気だ。
「とても素敵です」
「お嬢様はブルーがよくお似合いになりますね」
「どこか、苦しいところはありませんか?」
「平気よ。いつもありがとう」
今日はいつものように屋敷を走り回ることは出来ないと心に言い聞かせる。もし万が一、裾を踏んで転んでしまえば大変だ。
ドレスルームを出ると、準備を終え燕尾服を身に纏ったフレッドとタイミングよく鉢合わせる。しかしお互いの姿を視界に入れると互いに足を止めてしまう。
思い返せばフレッドのこういう姿を見たことが無い。少し前までは執事服であるモーニングコート、最近は学園の制服や寝間着姿ばかり目にしていたから、ヘアセットまでしてピシッと決めた姿のフレッドを見ると不思議な感覚に包まれる。
「とても綺麗…だよ」
「ありがとう。フレッドもすっごく似合ってる」
なんだか改めて口にすると気恥ずかしい。フレッドも同じなのか、露わになっている耳が真っ赤になっている。
「えっと、とりあえずお父様達の部屋に行こっか」
これからお父様とお母様は揃って別邸の方に向かう。詳しくは聞いていないが、何か特別な用事があるらしく、数日間は屋敷を空けるらしい。
お父様達の部屋の扉をノックし扉を開けると二人は出掛けるための支度をしている最中だったようだが、アンリとフレッドの姿を見ると手を止めて引き入れてくれる。
「とっても素敵よ、アンリ」
「お母様、ありがとう」
「貴方も似合っているわ、フレッド」
「ありがとうございます」
アンリとフレッドを眺めていたお父様は感慨深そうに声を出す。
「二人とも、立派になったな」
「ふふ、本当にそうね。二人とも、つい最近まで小さな子供だった気がするのに」
「子供の成長は早いものだな」
「こんなに立派に育ってくれて、二人は私達の誇りね」
「あぁ」
お父様とお母様は愛おしいものを愛でるような視線をアンリとフレッドに向ける。両親に誇りだと言ってもらえるのは嬉しいが、やっぱり恥ずかしい。フレッドも気恥ずかしいようで、そんな照れを誤魔化すように話を振る。
「あの、お二人はいつ頃、戻られるのですか?」
「ん?そうだな、予定通りに進めば一週間後の夜には戻るよ」
「そうですか」
「それまではフレッド、アンリ、屋敷のことを頼むよ」
「はい」
「うん!」
「さぁ二人とも、そろそろ出発の時間だろう?気をつけて、楽しんでくるんだよ」
「はい、行って参ります」
「行ってきます」
フレッドと共に部屋を出ようとするとお父様は「そうだ、フレッド」と呼びかける。
「アンリのこと、頼んだよ」
そして今度はお母様がアンリを呼ぶと笑いかける。
「フレッドのこと、お願いね」
お父様とお母様は微笑むと再び「行ってらっしゃい」とアンリとフレッドを送り出す。そんな二人にアンリとフレッドももう一度「行ってきます」と答えると部屋を後にした。
お父様達の部屋を出て一階に降りるためには階段を使わなければいけない。ただ初めて着たロングドレスは足下が見えないため、どこに段差があるのか分からない。つま先で段差を探すが、なかなか一段目の段差が見つからない。
そんなアンリの隣を歩いていたフレッドは、アンリが慣れないロングドレスで階段を降りられない事を察すると手を差し出す。
「アンリ、僕の手を掴んで」
フレッドの温かい手にアンリは手を重ねる。するとフレッドは一歩ずつアンリのペースに合わせてゆっくり階段を降りてくれる。
「フレッドは優しいね」
「どうして?」
「だっていつも私が困っていると、気がついてくれるでしょう?」
「うーん、困ってたら気づくのも、手を差し出すのも当たり前の事じゃないかな」
本当にフレッドは優しい。フレッドは当たり前の事だと言うが、実際困っている人が居ても手を差し出せない人が大半だろう。
ホールまで降り、玄関の扉を開けるとルイは屋敷の目の前に馬車を停め、馬車に繋がれた馬と触れ合っていたが、すぐにアンリとフレッドに気がつく。
「わぁ、二人ともお似合いですね」
「ありがとう。ルイ、送迎よろしくね」
「任せてください」
***
馬車の窓には見慣れない風景が流れていく。
ソアラ家はアンリのお父様と共にジャンミリー領を治めているというだけあって、目的地である屋敷が近づくとアンリにもすぐに分かった。周囲に比べて何倍も大きく広い屋敷でオーリン家の屋敷よりも三倍ほどの面積がある。外観もシンプルなオーリン家の屋敷に比べて、かなり豪華だ。
こうしてみると普段は気にしていなかったが、クイニーはすごい人だったんだと改めて思う。
馬車が敷地の門をくぐると噴水を囲むようにタイルの引かれた道を通り、屋敷前に向かう。
フレッドに手を引かれて馬車を降りると、無意識に目の前にそびえ立つ屋敷を見上げてしまう。この屋敷は一体、どれだけの数の部屋があるのだろうか。そしてこれが個人の屋敷だとすると、この国で一番敷地面積の広いと言われている城というのはどれだけのモノなのだろう。
「なに間抜けな顔してるんだよ。馬鹿に見えるぞ」
そんな小馬鹿にしたような声がアンリに突き刺さる。アンリにそんな事を悪気もなく言う人間はこの世界にただ一人しか存在しない。
「クイニー、人を馬鹿呼ばわりしないで」
「大口を開けて間抜けな顔をしてる奴を馬鹿と呼ばないで、なんて言えば良いんだよ」
「もぉ、意地悪」
「意地悪で結構、結構。勝手に言ってろ」
クイニーはニヤリと口角を上げる。やはり燕尾服を着て髪をセットし、格好つけていても、クイニーはクイニーだ。
屋敷の中に通され、クイニーの後ろについて歩いていると舞踏会の準備を進めている慌ただしく働く使用人達とすれ違う。使用人達はどんな作業をしていても、クイニーの姿が見えると姿勢を整え、軽く頭を下げる。
廊下を歩いて行くと外観を見ていた時に想定していたよりも多くの扉が等間隔に並んでいる。
「このお屋敷の部屋っていくつあるの?」
「そんなの数えたことねぇよ」
「ここなら隠れんぼ出来そうだよね」
「お前そんな事言って、ガキの頃に迷子になっただろ」
「え、そうなの?」
「忘れたのかよ。お前も、バノフィーも覚えてるだろ?」
話を振られたフレッドは過去を振り返り懐かしむような表情を浮かべながら頷く。
「えぇ、あの日は確かオーリン伯爵とソアラ伯爵が領地の話し合いをするためにここ、ソアラ家に集まった時だったかと」
「あぁそうだったな。それで暇になったアンリが隠れんぼをしたいとか言い出して、仕方なく三人で隠れんぼをしたんだったな」
「三人って事はフレッドも一緒に?」
「お前、本当に何も覚えていないんだな。お前が俺と二人で遊んでも退屈だとか言いだして、無理やりバノフィーを誘ったんだろ」
「そしてアンリと僕が最初に隠れることになって、僕はすぐに見つかったけど、アンリはいつまで経っても見つからなかった」
「それで、どうなったの?」
「制限時間を設けて集合場所も決めていたのにお前は戻ってこねぇし、俺ら二人じゃ探せねぇから応接室で話し合いをしていた伯爵達に事情を話して使用人含めて全員で捜索した」
「うわぁ、すごい大変だったんだね」
「なんで他人行儀なんだよ。お前の事だろ」
「だって私…」
小さい頃はこの世界で暮らしていなかったし、と話の流れのまま言いそうになって口を閉じる。フレッドの前でなら素直に答えれば良いが、アンリの事情を知らないクイニーの前でボロを出すわけにいかない。
「なんだよ?」
「いや、その話って小さい頃の話でしょう?だから忘れてたって言うか…。どこか他の人の話を聞いてる気分になっちゃって」
「呑気なやつだな」
パッと思いついた言葉を伝えると、クイニーは疑わない。なにより幼い頃、彼らが接していたアンリと今のアンリが別人だなんて、誰だって想像もしないだろう。
クイニーが通してくれたのは応接室の一室で、アンリとフレッドがソファーに並んで座ると、クイニーはローテーブルを挟んだ向かい側に腰掛ける。するとすぐにメイドがやって来て、紅茶とお茶菓子を置いてくれる。
「ありがとうございます」
アンリとフレッドがメイドに向かってお礼を告げると、メイドは一瞬驚いたように目を見開いた後「いえいえ」と笑みを浮かべ応接室を出ていく。
「お前らって変わってるよな」
「どうして?」
「普通、使用人にありがとうなんて言わないだろ。しかも丁寧にありがとうございます、なんて」
「だって私達のためにお茶を淹れて持ってきてくれたんだし、お礼を言うのが礼儀じゃない?」
「アイツらは仕事としてやっているし、それで金をもらってる」
「仕事とかお金とか関係ないと思うけど」
「まぁ別に止めろとは言わねぇし、お前らの好きな様にすれば良いと思うけどな」
クイニーは相変わらず身分の違いを重要視しているようだが、それでも前までと違い、アンリが身分を気にせずにワーキングクラスの人間と関わったり、彼らを友達だと公言しても大声で否定してくることは無くなった。
「それはそうと、なぜ僕達に早い時間に来るように言ったんですか?」
「別にお前ら二人だけをこの時間に呼んだわけじゃない。アイツらも呼んだんだが、まだ来ていないんだ」
「ミンスくんとザックくん?」
「あぁそうだ」
「でもどうして?」
「他の客が集まってから顔を合わせようとしても大変だろ。それにアンリには一つ、言っておかないといけない事があったんだ」
「私に?なに?」
「今日のファーストダンスは俺が踊る事になっているんだが、その相手をして欲しい」
「え、どうして私?」
「それは…」
クイニーがモゴモゴと何かを言いかけると同時に応接室の扉が開き「来たよ〜」と大きな声が響く。おかげでクイニーが何を言ったのか、上手く聞き取れなかった。
声の主はミンスで、扉の方を見ればミンスの背後にはザックと、ここまで二人を案内してきた使用人が静かに立っている。
ミンスはアンリを見ると瞳を輝かせ、駆け寄ってくる。
「わぁ、アンリちゃん。とっても綺麗だね!」
「えぇ、よく似合っている」
「えへへ、ありがとう。メイドさん達が選んでくれたんだ」
ミンスとザックも燕尾服を身に纏い、髪もセットしていて大人な装いだが、調子は普段と変わらない。
「アンリちゃん、今日は絶対に一人になっちゃダメだよ?」
「え?どうして?」
「アンリ様が一人で居たら、よくない子息達が集まって来るだろうな」
「お前も去年の舞踏会のような経験は懲り懲りだろ」
「あ、そっか」
「それに前の舞踏会の時のアンリちゃんもすっごく可愛かったけど、今日はあの時より大人っぽい雰囲気でしょう?だから余計に迂闊に一人になったら危ないよ」
すっかり忘れていたが初めての舞踏会ではアンリがファーストダンスを終え、コンサバトリーで一人過ごしていると男爵家の子息達に声を掛けられ怖い思いをした。あの時はミンスやクイニー、ザックのおかげで大事になる前にどうにかなったが、フレッドは感情が高ぶった子息の一人に手を上げられ痛い思いをしていた。
せっかくの舞踏会だ。今日は無事に終わりたいし、なによりみんなで楽しみたい。
場所が変わったとしても、アンリ達は普段と変わらずに過ごしていた。ミンスが喋ったことにアンリやクイニーが反応し、ザックは冷静に答える。時々アンリから話を振ったり、クイニーやザックから話を振り、話題を広げる。
彼らと一緒に過ごしていると時間はあっという間に過ぎていく。窓の外に見える風景がオレンジ色に染まってきた頃、外からは馬の駆ける音や馬車の車輪がタイルの上を走る音が聞こえ始める。
「そろそろ集まってきたみたいだな」
「あぁ、そうみたいだ」
「じゃあ僕達も行く?」
「あぁ、そうだな」
応接室を揃って出ると長い廊下を歩き、大広間に向かう。
オーリン家で舞踏会を開いた時は玄関を入ってすぐの吹き抜けになったホールが踊る場、コンサバトリーが軽食を食べたり、ゆっくり会話を楽しめるように開放され、舞踏会の会場としていた。オーリン家よりも敷地の広いソアラ家では大広間とテラスが解放されるらしい。
大広間に入ると演奏家達もすでに準備を終え、テラス側のテーブルクロスの引かれた長テーブルの上には豪華な料理やスイーツが並ぶ。招待客も少しずつ集まってきているようだ。
大広間の中でもクイニーのお父様であるソアラ伯爵のことは初対面のアンリでもすぐに見つけることが出来た。クイニーと同じ深紅色の髪や顔の作りがそっくりなのだ。ソアラ伯爵は客人と話しているようだが、怒っているのか雰囲気が硬い。
周りにバレないように隣に立っていたフレッドの肩を叩くとこっそり耳打ちをする。
「あの人がクイニーのお父様だよね?」
「うん、そうだよ」
「何か怒ってるのかな」
「ううん、ソアラ伯爵はいつもあんな感じだよ。それに怒っているように見られやすいけど、実際は怒ってないし、話してみるとけっこく優しいんだよ」
丁度そんな話をしていると、客人と話を終えたソアラ伯爵がアンリ達の元へやって来る。
「やぁみんな、来てくれてありがとう。アンリちゃんは久しぶりだね。ずいぶんとお姉さんになったね」
「ソアラ伯爵、お久しぶりです」
アンリが話を合わせ返事をすると、ソアラ伯爵はミンスとザックにも一言ずつ声を掛ける。その後、フレッドに視線を向けると、笑みを浮かべる。
「フレッドくんは伯爵位を継ぐことを決めたようだね」
「はい、急な事ですが」
「その報告を聞いたときは嬉しかったよ。私も密かに君には爵位を継いで欲しいと望んでいた人間の一人だったからね」
「そうなのですか?」
「これはオーリン伯爵ですら知らない事だが、私は君のご両親と親交があってね。君が赤ん坊だった頃はバノフィー伯爵夫妻に連れられて、君もよくここに来ていたんだよ」
「そうだったんですか」
「これから色々と大変だと思うが、同じ伯爵として何か困ったことがあれば、いつでもおいで」
「はい、ありがとうございます」
「じゃあ私はそろそろ行くよ。クイニー、後は任せたよ」
「あぁ」
ソアラ伯爵は笑みを浮かべると別の客人の元へ赴く。どうやら客人全員に声を掛けて回り、相手に合わせた話を持ちかけているらしい。
客人を見ると、両親世代の夫妻からまだ十歳にも満たない子供までが招待されている。確かフェマリー国の貴族家で生まれた子息や令嬢は五歳程で社交界デビューするのが一般的だ。客人の中にはアンリ達と年齢の変わらないご令嬢も多く招待されているが、学園でクイニー達に強引に迫ってくる令嬢はどうやら招待されていないようだ。
そんな客人の中に一人、見覚えのある姿がある。相手も丁度アンリの存在に気がついたのか、手を振りながら近づいてくる。そんな手を振り近づいてくる人参色の髪をした男に、面識のないフレッドやクイニー達は警戒し始める。
「アンリちゃんも招待されていたんだね」
「先輩こそ、ここで会うとは思いませんでした」
警戒を他所にキューバと喋り出すアンリに、周囲は疑念を表情に浮かべながら会話に入ってくる。
「先輩って?」
「えっとね、演劇の授業を一緒に受けてるの」
アンリがそう説明すると、キューバは一礼し、自己紹介する。
「初めまして、キューバ・オーガスと申します。君たちはアンリちゃんのお友達かな」
「えぇ、そうですけど」
そう答えたのはミンスだ。だが、いつものフワフワとした雰囲気や笑みは消え、冷たい口調で淡々と答える。誰に対しても愛嬌の良いミンスがそういった態度を取る姿を見るのは初めてで、アンリは心配になるが、そんな事を知りもしないキューバは気にする素振りを見せずに話を続ける。
「そっか、仲が良さそうで良いね」
「…どうも」
「それにしてもアンリちゃん、今日のドレスにヘアセット、とても良く似合っているよ」
「ありがとうございます」
「じゃあアンリちゃん、私はそろそろ行くよ。機会があれば一緒に踊ろう」
手を振りながら去って行くキューバの背中をミンスは睨むような視線で追いかける。クイニーやザック、フレッドでさえ、何事もなく済んだことに安堵した表情を浮かべているのに。
「僕、あの先輩あんまり好きじゃないかも」
「どうして?」
男女問わず話し掛けられたら笑顔で答え、初対面の相手でもすぐに仲良くなってしまうミンスが特定の人の事を好きじゃないとハッキリと口にするのは初めてだ。
「うーん、なんでかって聞かれたら分からないけど、嫌な感じがしたの。ザックも感じなかった?」
「いや、私は特に感じなかった」
「にしてもミンスが誰かに対して苦手意識を持つなんて珍しいな」
「まぁミンスは昔から変なところで独占欲が強かったし、自分以外がアンリ様の事をアンリちゃんと呼んでいるのが気に入らなかったんじゃないのか?」
「んー、そうなのかなぁ…」
ザックとクイニーは軽く笑い流すが、ミンスはピンときていないのか唸る。だがそんなミンスも、しばらくすると元通りの様子に戻る。
「アンリ、そろそろ時間だ。行くぞ」
「え?あ、うん」
アンリはクイニーの半歩後ろを歩いて、すっかり人の多くなった大広間の正面に向かう。どんなに人が集まった空間でも、クイニーが背筋を伸ばし堂々と歩いて行けば、それまで談笑していた男女は自然と道を開ける。
アンリとクイニーが定位置に立った事を目視で確認したソアラ伯爵は招待客に向かって形式的な挨拶を始める。
そう言えばオーリン家で開かれた舞踏会の時もクイニーとファーストダンスを踊った。あの日は初めての社交界への出席という事もあり、アンリは緊張でガチガチになっていた。そして不安でいっぱいになっていたアンリに「堂々と踊れ。俺がアンリに合わせる」とクイニーが笑いかけてくれた。今思い返しても、あの言葉のおかげで緊張が和らぎ、無事に踊り終えることが出来た。
「なんか、懐かしいね」
「あぁ、そうだな」
ソアラ伯爵の挨拶が終わると、アンリとクイニーは互いの片手を取り合い、もう片方の手を互いの腰に当てる。するとあの日と同じ音楽の演奏が始まりアンリ達も息を合わせ踊り始める。この曲は一番踊り慣れた曲という事もあり、大勢の客人に見られていても気にせずにアンリとクイニーは踊りながら会話をする。
「まさかこうして二度もクイニーと踊る事になるなんて、思わなかった」
「まぁアンリは滅多に社交界にも参加しないからな」
「でもどうしてソアラ伯爵はファーストダンスの相手として私を選んだんだろう」
舞踏会のファーストダンスは女主人と招待客の中で一番位の高い男が踊るのが一般的と言われているが、実際は主催する家ごとに決められる。オーリン家でも、アンリの社交界デビューを兼ねた舞踏会ということで、お母様ではなくアンリが踊った。
今回の舞踏会、アンリは伯爵家の令嬢だが、他にも伯爵家の令嬢は居るだろう。そして彼女達の方がアンリよりこういう場には慣れている。それなのにソアラ伯爵はなぜアンリを選んだのだろうか。
「それは俺が選んだからだ」
疑問を投げかけたアンリの瞳を真っ直ぐに見つめると、クイニーは堂々と答える。
「今日俺と踊る相手を決めたのは父上じゃない。父上はアンリの他にもご令嬢の候補を挙げていたんだが、俺がアンリにしてくれと、無理やり頼み込んだ。アンリ以外が相手ならファーストダンスはパスすると断言してまで」
「どうして?他のご令嬢が苦手だから?」
クイニーは学園で令嬢に迫られることが多く、彼女達を忌み嫌っているのはアンリもよく知っているが、周囲を見渡しても普段クイニーに声を掛けてくるような令嬢達はやはり見当たらない。
「まぁそれも少なからずある」
クイニーは繋いでいたアンリの右手を強く握りしめ深く息を吸うと、改めてアンリのブルーの瞳を真っ直ぐに見つめるとゆっくり口を開く。
「俺がアンリ以外と踊りたくないのは…、俺がお前、アンリの事が好きだからだ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。だが揺らぐことのない瞳に見つめられていると、大広間に響く演奏も周囲の話し声すらもアンリの耳には聞こえなくなる。そしてクイニーに告げられた言葉が脳内で繰り返される。
それまで堂々と踊れていたというのに、不思議と足がプルプルと震えだし、頭も真っ白になって体が動かなくなりそうだ。だがそれはこの空間、そして共に踊っているクイニーが許さない。アンリは次の動きも分からないまま、ひたすら足を動かし続ける。
クイニーが私を好き?学園で共に時間を過ごしていても、そんな気配を感じたことはない。それにアンリとクイニーは少し前まで言い合いばかりしていた。
「本当に…?」
「嘘ついてどうするんだよ」
「まぁ確かに…。でもどうして?」
「どうしてって言われると、分かんねぇ」
「分からないの?じゃあ別に…」
恋愛モノの小説や漫画を読んだり、そういった物語の中に推しを見つける事があっても、現実世界で好きな人が出来たことのないアンリには特定の異性を好きになると言う感情がよく分からない。だが、人を好きになった理由を聞かれれば普通、答えられるモノじゃないのだろうか。
「アンリには良い所がたくさんある。だからどうしてって聞かれても一つに絞ることは出来ねぇ」
そこまで堂々と言われてしまうとアンリは何も答えられないまま黙り込んでしまう。そしてその会話を最後にダンスも演奏の終了と共に終わりを迎えた。
周囲からは拍手が送られるが、アンリはぎこちない笑みを返すことしか出来ない。ソアラ伯爵がダンスを終えたアンリとクイニーの元に笑みを浮かべてやって来ると感想と礼を告げられるが、それすらほとんど脳内に入ってきていない。
次第に拍手が止むと、これからは誰でも自由に踊れる時間となる。アンリとクイニーは離れた位置でアンリ達を見守っていたフレッド達の場所に戻ろうと人並みを避けて歩くが、クイニーは踊り終えてからずっとアンリの手を握ったままだ。クイニーはいつもと変わらない様子だが、一体今どんな事を考えているのだろうか。
そしてクイニーはポツリとアンリの名を呼ぶ。
「アンリ、俺がさっき言ったことは忘れてくれ」
「え?どうして?」
「俺は五人で過ごすあの時間が大切なんだ。それにアイツらにとっても五人で過ごす日々は他には変えられない大切な時間だろう。だから俺の告白のせいで、その空間を壊すような事はしたくない」
そう告げるクイニーはいつもと変わらない表情で、何を考えその言葉を口にしたのか思考は読めない。でもだからといって、もし今すぐにでも告白の返事を求められていたら…。
もちろんクイニーの事は好きだ。フレッドやミンス、ザックのことも好きだ。だがアンリが好きだと思っている気持ちがクイニーの言う好きと同じモノなのかと聞かれると、今まで考えたこともないし、いまいち分からない。
だからこそクイニーに忘れてくれと言われ、安堵してしまったのも事実だ。
その後、クイニーは踊る男女を避け、壁側に移動していたフレッド達の元へ着く前にアンリの手を静かに離した。
アンリとクイニーが戻ると三人はそれぞれダンスの感想を言ってくれる。おそらく頭が真っ白になってもなんとか踊っていたんだろうが、残念ながらアンリには途中から踊っていた感覚がないため、笑顔でありがとうと答えるしか出来ない。
そしてアンリの隣に立つクイニーは、まるで何事もなかったかのように、いつもと変わらない声で答える。
***
「じゃあさ、今度は僕と踊ろうよ!」
ミンスに腕を引かれ、アンリはダンスエリアへ移動する。そして丁度演奏の始まった曲は他に比べたらテンポが速く明るい曲だ。スローテンポの曲が多い中でこういう曲は珍しく、練習でアンリが一番苦戦した楽曲でもある。
ミンスのダンスを見るのは初めてだが音楽に乗り、誰よりも楽しそうに踊る。そんなミンスを見ていると、混乱し様々な感情で荒れていた心も徐々に落ち着きを取り戻し、冷静になってきた。
「ミンスくん、上手だね」
「えへへ、他の曲は苦手なんだけど、この曲だけは得意なんだ~」
「そうなの?私なんて練習の時この曲が一番難しかったのに、ミンスくんはすごいね」
アンリが褒めるとミンスは浮かべていた笑みをより一層深くする。アンリとミンスは一曲踊り終えるまで、互いに笑顔が消えることはなかった。
そしてミンスとのダンスを終え再びフレッド達の元へ戻る。
「今度は僕、ザックに踊って欲しいな」
「別に私は…」
「アンリちゃんが舞踏会に参加する事って滅多に無いし、二人が一緒に踊ってるところを目に焼き付けておきたいの。ね、お願い」
初めは渋っていたザックもミンスのキラキラとした瞳に見つめられると弱いようで観念し了承する。そしてアンリは休憩する暇もなくザックに連れられダンスエリアに移動すると、手を取り踊り出す。
ザックのダンスはミンスに比べれば控えめだが、メリハリがある。そして渋っていた理由が分からないほど上手だ。普段ザックは何よりも本を読む時間を好み、こうして体を動かしているイメージはなかった。だからこそ、そんなザックの特別な一面を見ているようだ。
「ザックくんも踊れるんだね」
「私をなんだと思っているんだ?これでもレジス家の子息として幼い頃から叩き込まれている」
「ザックくんって頭脳派のイメージって言うか、あまり体を動かしているイメージって無かったんだもん」
「まぁ確かにそうだな。おまけにミンスと一緒に居ると私は余計に落ち着いて見えるからな」
アンリとザックは互いにクスリと微笑み合う。やはり、友人となって一年以上が経ってもまだまだ知らない事があるらしい。
そしてザックとのダンスは音楽の終わりと共に終えた。
ザックと共に壁際でアンリとザックのダンスを眺めていた三人の元へ向かう。三人が立っている位置はダンスエリアから一定の距離を取っており、人気が少ない。そのため無理やり近づいてくるご令嬢がいなくても、ダンスを踊っていたり、軽食を取ったり、談笑しているご令嬢から遠目にも注目を集めている。
確かに彼らはそれぞれ性格や雰囲気、系統は違うが、クイニーは高身長で顔だけを見れば男前だし、ミンスは愛嬌が良く可愛らしい見た目の好青年、フレッドは誰よりも落ち着いていて端整な顔立ちだ。そして今アンリの隣を歩くザックはフレッドとはまた違った落ち着いた雰囲気を纏ったインテリだ。おそらく彼らはそれぞれ別の部類に存在するイケメンなのだろう。
アンリはそんな彼らと共に過ごしダンスを踊るだけでなく、そのうちの一人には想いを寄せられていたなんて…。確かにアンリを恨む人が出てきても、何も言い返せない。
無意識のうちにコロコロと表情を変えるアンリを不信に思ったザックはアンリの顔を覗き込む。
「どうかしたのか?」
「ううん、なんでもないよ」
フレッドやクイニー、ミンスの元に辿り着くと、いち早く声を掛けてくるのは瞳をより一層輝かせたミンスだ。
「えへへ、久しぶりにザックの踊ってるところ見られた!」
「ミンスが強引に踊らせたんだろう?」
「だって僕、ザックのダンスを見るのが好きなんだもん。シュシュッとしててカッコいいし」
「はいはい、分かったから落ち着け」
幼い頃から幼馴染で誰より長い時間を共にしているという二人の微笑ましい光景を眺めながら改めてミンスはザックを慕っているんだろうなと思う。それと同時に、表情は変えずとも、口角を上げるザックも弟気質のミンスが可愛くて仕方ないのだろう。
ひとまずこれでクイニー、ミンス、ザックとそれぞれ一回ずつ踊る事が出来た。後はフレッドと踊る事が出来ればアンリの今日の目標は達成だ。
三人と踊っているとき、誰よりも熱心にアンリのダンスを見てくれていたフレッドに近寄る。
「フレッド、一緒に踊ろ」
「僕?僕はいいよ」
「今日こそは一緒に踊ろうって言ったでしょう?」
周囲を気にしてフレッドは遠慮しようとする。が、いつの間にかザックとのじゃれ合いを終えていたミンスがフレッドの背中を押す。
「フレッドくん!行っておいでよ」
ミンスは誰よりも早くフレッドの事を気に入り、受け入れてくれただけの事あって、時々こんな風にフレッドが自分の気持ちを我慢しようとしたり、遠慮しようとするとフレッドの味方となって背中を押してくれるのだ。
おかげでフレッドは迷いながらも遠慮がちに頷いてくれる。
「じゃあアンリ、行こっか」
「うん!」
アンリとフレッドがダンスエリアに移るとタイミング良く音楽が変わり、アンリがクイニーと共にファーストダンスで踊った曲の演奏が始まる。なによりこの曲はフレッドに一番始めに教えて貰った、アンリにとっては思い出深い曲だ。
アンリとフレッドは練習の時の様に自然と互いの手を取り合い踊り出す。フレッドとは何度も踊ってきたからこそ、タイミングを合わせようと考えなくても自然と踊り出すことが出来る。
相手をリードしながらも力強く踊るクイニー、誰よりも楽しそうに踊るミンス、一つ一つの動作にメリハリをつけて踊るザック。そんな彼らと違い、フレッドは一つ一つの動きを丁寧に流れるように踊るのだ。
もちろんクイニーやミンス、ザックと踊っている時も楽しい時間だったが、フレッドと踊っている時間は楽しさはもちろんあるがそれ以上に気持ちが落ち着くのだ。
「アンリ?どうしたの?」
「フレッドと踊っていると落ち着くなって思って」
「踊っているのに落ち着くの?」
「一番一緒に踊ってきたから慣れてるって言うのもあるんだけど、それ以上にフレッドのダンスは優しくて落ち着くの」
「確か前にも言ってくれたよね、僕のダンスは優しいって」
なぜそう思うのかと聞かれれば説明するのは難しい。だが、流れるように踊るフレッドは独りよがりなダンスは絶対にしない。一緒に踊るアンリが少しでも踊りやすいように、手の位置や足の動き、アンリの癖や苦手を把握してくれているフレッドは常に考えてくれている。だからこそフレッドと踊っていると安心して身を任せられるし、そんな優しく流れるように踊る事の出来るフレッドがアンリの憧れでもある。
「でもどうしてそんなに僕と踊りたかったの?踊ろうと思えば屋敷でいつでも踊れるのに」
「だってフレッドの踊りはとても素敵なのに、誰にも知られていないなんて寂しいでしょう?」
今日どうしてもフレッドと踊りたかったのは、純粋に思い出を作りたかったという気持ちも大きいが、これだけの才能を持っているフレッドのダンスをたくさんの人に見て貰いたかったのだ。
「僕はアンリが知ってくれているだけで十分だよ」
自分の事を過小評価するフレッドは自らがすごい事をしているという自覚は全くないようで、そう答える。だがどちらにせよ、こうして踊ってくれた。それだけで十分だ。
「私の我儘に付き合って、一緒に踊ってくれてありがとう」
アンリが真っ直ぐに瞳を見つめてお礼を告げれば、フレッドは観念したように首を振る。
「…実は遠慮していただけで僕もアンリと踊りたかったんだ。今までアンリがどれだけ頑張ってきたのか、その姿を一番近くで見てきたのは僕だから。本番の今日も一番近く、出来る事なら一緒に踊りたいと思ってたの。だから誘ってくれてありがとう」
礼を告げるとフレッドは年相応の満面の笑みを浮かべる。そう言えば今日ここに来てからフレッドはずっと大人びた表情を浮かべていた。周囲には悟られないようにしながらも、伯爵として参加する初めての舞踏会にずっと緊張していたのかもしれない。
「あれ、でも踊りたいと思っててくれたのに、さっき私の誘い断ったよね」
「だって僕はアンリ達より年下だし、図々しいかなって」
「もぉ、年齢なんて関係ないよ。それに今のフレッドは爵位も継いだ。もうフレッドが遠慮しないといけない理由なんて無いよ」
「うん、そうだね。ありがとう、アンリ」
フレッドは再び笑みを浮かべると、フレッドとのダンスの時間も終了を迎えた。
フレッドと並び、クイニー達の元へ戻るとアンリやフレッドが口を開く前に三人はフレッドに対し言葉を掛けていく。
「フレッドくんってダンス、すっごい上手なんだね!前にアンリちゃんのダンスを教えてたって聞いたけど、こんなにも素敵なダンスをするフレッドくんに教わったからアンリちゃんのダンスもとっても素敵なんだね!」
「バノフィーくんが踊っているのは初めて見たが、二人とも息が合っていて素敵だった」
「使用人として働いていたくせに、案外うまいのな」
怒濤の褒め言葉に驚きと照れを隠しきれないフレッドは頬をピンク色に染めながら「ありがとうございます」と答えている。
***
それぞれと一回ずつ踊ったアンリはテラスに移動し料理やスイーツを食べながら、ひとときも離れることなく過ごした。時々、誰かが令嬢にダンスの相手を誘われることがあっても、彼らは何かと理由をつけて踊る事は一度も無かった。そして舞踏会が始まる前、アンリに声を掛けてきたキューバと再び顔を合わせることはなかった。
馬車に乗りフレッドと向かい合って座っていると、さっきまでの喧騒が幻のように二人の規則的な呼吸音だけが響く。
「楽しかったね」
「うん、そうだね。それに今回は何事も無く済んで良かった」
その一言にすっかり忘れかけていたクイニーからの告白を思い出す。忘れてくれと言われたし、アンリとフレッドが馬車に乗り込むのを見送るときも、クイニーはいつもと変わらない対応だった。だからといって本当にこのまま何の返事もせずに過ごして良いのだろうか。
楽しかったと言ったにも関わらず途端に黙り込み、思い悩むアンリは表情を硬くする。そんな異変に気がついたフレッドは一際優しい声を出す。
「アンリ、どうかした?」
「え?」
「眉間に皺が出来てる」
「あはは…、私ってポーカーフェイスの練習した方が良いよね。すぐに顔に出ちゃう」
「ううん、むしろ顔に出て分かりやすい方が有り難いよ。それに僕も実は一つだけ、引っかかってる事があるんだ」
「引っかかってる事?なに?」
「最初にソアラさんとファーストダンスを踊っていたでしょう?でも途中からアンリの様子がおかしくなった。周りの人は気づいていない様だったけど、僕はアンリのダンスを毎日見てきたから分かる。あの時、ソアラさんに何か言われたの?」
フレッドはアンリとクイニーのファーストダンスを思い返すように視線を上げる。だがまさか、ファーストダンスの時のちょっとした異変まで気づかれているとは思わなかった。
それに詳しく言わなくても、そこまで気づいてしまう勘の鋭いフレッドにクイニーの事を相談したくなってしまう。
本来、こういう事は勝手にペラペラ人に話すべきでは無いとアンリでも分かっている。だが恋愛とは無縁で生きてきたアンリには知識不足で、これ以上一人で思考を働かせても結論を出すことは不可能だ。だからこそ、フレッドにだけは相談させて欲しい。
「実は踊ってる最中、クイニーから好きだって言われたの」
「…!…それで?どうしたの?」
「それが、クイニーが忘れてくれって言うの」
「ソアラさんは自分の気持ちを優先して、みんなで過ごす大切な空間を壊したくないって事?」
「うん、そうみたい。でも本当にこのまま何も無かったかのように過ごして良いのかなとも思うし、だからって今まで恋愛経験の無い私にはどうするべきなのか分からなくて…」
「うーん、僕も特に恋愛経験があるわけじゃないからなぁ」
「ごめんね、いきなりこんな相談されても困るよね」
フレッドは視線を彷徨わせ頭を悩ませた後、「これは僕の考えだけど…」と前置きをした上で話し始める。
「ソアラさんが忘れてくれって言ったのなら、変に気を遣わずに今まで通り接すれば良いんじゃないかな。ソアラさんはアンリに自分の気持ちを知っていて欲しいと思ったから告白したんだろうけど、その告白と同時にアンリやミンスさん、レジスさんとこの一年で作り上げた関係、居心地の良い関係を壊すのが嫌だった。だからこそ、告白をしておきながら、アンリに忘れてって言ったんだと思うんだ。だからアンリが変に気を遣ったり、よそよそしく接すれば彼の気遣いの意味も無くなっちゃうんじゃないかな」
「そっか、そうだよね」
確かにフレッドの言う通りかもしれない。クイニーは自分の気持ちをアンリに伝えながらも、みんなで過ごす時間が自分にとっても大切だと言っていたし、普段アンリ達と過ごすクイニーを見ていれば五人で共に過ごす時間に居心地の良さを感じているのも分かる。
本当に何も答えないままで良いのかなんてアンリには分からないし、正解も分からない。いや、恋愛にはきっと正解が無いのだろう。
なによりクイニーが「忘れてくれ」と言った決意や意志も尊重するべきだと思う。
それにクイニーの事だ。不満を感じれば直接アンリに言ってくるだろう。
一人で頭を悩ませていた事をフレッドに相談した事で気持ちが軽くなったのか、一気に気が抜ける。それと同時に激しい睡魔に襲われる。慣れないロングドレスで踊った反動。もしくは舞踏会という未だに慣れることのないキラキラした空間に無意識のうちに気を張っていたのだろうか。
「眠たくなっちゃった?」
「うん、なんか急に眠気が…」
「アンリも気を張っていたんだろうし、その反動かな。屋敷に到着するまで時間も掛かるし、少し眠ったら?」
「うん…、そうしようかな」
眠って良いとフレッドに言われると、押さえようとしていた眠気に全身が包まれる。アンリが目をつぶれば余計な事を考える前に、一瞬のうちに夢の世界に旅立つ。
アンリが眠りについてしばらく経った後、向かい側に座るフレッドは窓の外に見えるぼんやりとした風景を横目に奥歯を噛みしめ俯く。そしてそんなフレッドの浮かない表情を、すっかり夢の世界に旅立っていたアンリが気づく事は無かった。




