絵
もし僕の夢が叶ったら、僕はその時どんなことを考えてるのかなあ。
高校1年生が終わったら高校2年生になるくらい当たり前に達成できたらいいのになって、甘い願い事をしてしまった。
ところで、ある友達はまだ就職か進学かを悩んでて、でもある友達は行きたい大学が決まっていたりするんだけど、それってつまりは100人友達がいてもこういう風に進路が被ることは難しいってことだよね。
目的や目標、夢。全部全部僕らには平等に与えられてるのかなあと、ふと思う時があるんだ。
それとも、与えられるんじゃなく、自分がなるしかないそれに、生きていくためになっていくのかどっちなんだろう。分からない問題をいつまでも探ることが、僕はどうしてもやめられないくらい大好きなんだ。
つまるところ、数学の分からない問題はさ、既に答えが決まり切ってるから、途中で考えんのをやめたくなんのよ。直接的に「悲しい」とか言っても何も面白くないんだ。面白くするためには疑問を与えることが必要不可欠。
相手の感情を揺さぶることとは、どんなことをするより難しい。
とまあちょっとだけ脱線しちゃったけど、
生きていくと妥協を強いられるシーンが発生する。友達がそこに行くからというような理由で、進路決定する人がいないのはそうするような普通が出来上がってないから。
その逆もある。中学校を卒業する年になるとみんな高校に行くための準備を普通にするけどさ、別に高校なんて行きたくなきゃ行かなくたっていいわけだ。行かなきゃ死ぬデスゲームに参加しているわけじゃない。
じゃあなんで、どうして行くのか。それは昔とは違い、今の時代になって高校に行くという選択が普通として出来上がったからだと思う。
中卒の人が認められづらい社会が出来上がり始めたので、僕らは高校に行く。誰もが高校に行かないという選択をしないから、何となく揃えておかないとと僕らは思う。
自由とは常に見え隠れする答えだ。面白い疑問であるし、僕らを苦しめる敵だ。
自由に生きていくというのはそれほど大変なんだ。妥協しないで好きなように生きてれば、誰かに止められてしまうだろう。目的も目標も夢もいつかは必ず作って、自分で生きる場所を作んなきゃならない。
最初の問題は平等に与えられてるとも言えるし、角度を変えれば不平等の極みだ。
さて僕はこれから先、どうやって生きていけばいいのだろう。
たぶん、見え隠れする答えがやっと見つかった時、その時ですら僕はまだ答えを探していることだろう。