軍服少女の独白
早朝、暗く冷たい空気の中を走る。
足元は凹凸の激しい未舗装路。フェンスの外に目を向ければ眠りについた街並み。
自分の他にはだれもいない、心地いい世界。
満足感に浸れるのも今だけだ。十分後には息切れして死にかけている。
終わったら休憩するまもなく点呼がある。2時間後には着替えて仕事だ。
もっとも、通勤は住んでる隊舎から隣の隊舎に行くだけ。通勤の労がないのはここの数少ない利点のひとつだ。
なんて考えている間にも苦しくなってきた。
速度を上げる。転びそうになりながら崖を駆け下り、窪地にかけられたロープに寝そべった。
足で蹴ると同時に両手で引き寄せ、体を前に滑らせる。
セーラー渡過。敬遠されがちだが、私は苦手ではない。反動で体を浮かせ、摩擦を減らして進む。
端までくればロープを降り、今度は崖を上る。
足が重い。心臓が強く脈打つ。
登りきったらしばらくは平坦。ジョグをしながら息を整える。
体への負担が軽くなった瞬間、思考が再開される。
メリットの少ない職場だが、デメリットは多い。
まず、制約が多い。住む場所は駐屯地の中。家賃がかからないが柵に囲まれた空間は刑務所のように息苦しい。実際、軍人は駐屯地の外をシャバと呼ぶ。
部屋は六人(幸運にも八人部屋は免れた。次の部屋替えではどうなるかわからないが)。軍人はたいていバカでうるさいので落ち着いて本も読めない。外出もいちいち許可がいる。
そして何より、死ぬ。広報はやたら日本軍の有能さをアピールするが、内実を知っている人間にとっては失笑ものでしかない。
全員がどんな任務にも対応できる。
人が少ないからオールラウンダーたらざるを得ないだけ。個々の分野では何一つとして強みがない、器用貧乏の半端者。
迫撃砲の精度が高い。
弾がないからピンポイントで当てなければならないだけ。他国は地域一帯を面で攻撃してくる。実戦では圧倒的な物量で押しつぶされて終わり。
世界に冠たる水陸両用部隊。
同盟国の海兵隊との共同訓練ではボロ負け。
ボロ負けどころか、同じ土俵にすら立てない。
私たちの使う武器は数十年前のものだ。
どれだけ腕がいいベテラン射手も、八倍スコープをつけた新兵にあっけなく撃ち殺される。
プレイヤースキルで装備の差を覆すなんてロマンでしかない。
だから、もし戦場に立てば私は死ぬ。私たちは三個旅団で、仮想敵国の海兵隊は5個師団。
日本陸軍第二海兵旅団は、戦争が起これば全滅する。
私にできることは、戦争が起きないよう祈ることだけ。
訓練も体力錬成も、なんの意味もない。明日戦争が起これば死に、起きなければ寿命が一日延びる。辞めたくても万年人不足の軍は人を手放そうとしない。
目の前に現れた崖を、四つん這いになってよじ登る。
俯いた瞬間、胃の中が暴れ出す。肺が限界を告げる。今すぐ足を止めろと叫ぶ。
それでも私は走る。意味なんてないのに。
自分でもわけがわからない。それでも、想像してしまう。敵の弾丸に当たって死ぬ自分の姿、痛くて怖くてしょうがない。もっと強ければ生き延びれたかもしれないと後悔する自分の姿。
それは幻想でしかないのに。
最後の直線で全力を出し切り、ゴールを越るや息を吐き出した。
「っは……!!! くそ、……キッツ」
びしゃびしゃになったシャツで額を拭う。前髪が目にかかってうっとうしい。入隊してすぐバリカンで刈ってやろうと思ったのだが、同期が羽交い締めにして止めてきた。
邪魔なだけの髪をまとめ、重たい半長靴を引きずりながら点呼場所へと向った。
点呼を済ませると朝食。
食堂に入り、列に並ぶ。
プラスチックのトレーにおかずをよそい、米と味噌汁、お茶も取って空いている席に座った。
冷えた麦茶を飲み干す。味噌汁をすすると、塩分が体に染みて疲労が薄れた。
「さやかちゃんおはよう!」
隣の椅子が引かれ、乱雑にトレーが置かれる。
見上げると、明朗なショートカットの少女。
「うん」
「今朝も走ったの?」
「……5時に目さめたから」
「すご! やっぱ強いね、さやかちゃん」
宇佐田奏。同期だが階級はひとつ上。何もかも優秀な彼女はなぜか私のことを買ってくれている。
「宇佐田伍長ほどじゃないよ」
階級を強調すると、宇佐田は「やめてよー」と笑う。
「さやかちゃんもさっさと伍長なったら? 試験なんて余裕でしょ?」
「仕事と責任は増えるのに給料は増えない、昇任なんてしたくないよ。それに私は戦争が始まる前にやめる」
「やめさせないよー。さやかちゃんやめたらやる気なくす」
屈託のない笑みに当てられ、言葉を失う。
この子はこれだから……苦手なんだ。
最後のひとくちを口に入れ、席を立った。宇佐田も「あつっあつっ」と涙目になって味噌汁を飲み干してついてくる。
入隊してから早三年。
私は何一つとして、宇佐田に勝てていない。
本日のお仕事は倉庫整理だ。
軍人の仕事というと訓練面がクローズアップされるが、それは一部でしかない。
大半の軍人は倉庫整理、草刈り、昼寝を主な業務内容としている。うちの部隊は訓練の比重が多いほうだが、それでも週の半分は雑務だ。
倉庫を管轄する軍曹のもと、右側にあったものを左側に移し、昼休憩を挟んで動かしたものをすべてもとに戻す。なにこの作業。賽の河原?
このクソみたいな仕事内容が我が国の軍隊の実情を物語っている。国民の皆さん税金泥棒はこちらです。
さっさと退職したい。
終礼が終わると宇佐田が「アイシングしよ」と走り寄ってきた。
朝は障害走コースでトレイルラン、仕事終わりはプール。トライアスロンでもやってる気分だ。
急いで夕食を済ませ、水着をとってプールへ向かう。
腐っても海兵隊、駐屯地にはプールが2つある。
飛び込みや水陸両用戦車の水没などに使われる屋外の巨大プールと、屋内にある25メートルプール。
水泳に使うのは後者。
更衣室で水着に着替え、シャワーを浴びてプールに浸かった。
ぬるい。
水は薄汚く濁り、飲んだら腹を壊すこと請け合い。椅子に座ったまま逆さにされたりするので、隊員の汗と涙と唾液で水質はサイアク。
最初は触れるのすら嫌だったが、何度も沈められているうちに慣れた。水は汚いが飲んでも死ぬことはない。
クロール、平泳ぎで準備運動。それからひたすら横泳ぎ。
宇佐田は端のレーンで立ち泳ぎをしている。
立ち泳ぎ中は浮力を得るために胸をすぼめるが、それでも宇佐田の背中は迫力がある。
大円筋が逆三角形の裾屋を分厚く広げ、広背筋がそれを支える。脊柱起立筋が鎧のように背骨を守り、僧帽筋が首元をがっしりと固める。
あまりにいい体すぎて浮力が足りず、昔は金槌だった。克服のため、泳ぐ練習につき合わされたものだ。
タイマーが鳴ると、宇佐田はプールサイドで休憩。インターバルが終わると二セット目がはじまる。
私はいうと、そろそろ飽きてきた。泳ぐのは苦手ではないが好きでもない。筋トレと違っていろんなバリエーションを知っているわけでもない。30分もすれば飽きる。
一旦あがり、ベンチに座って携帯を手に取る。本でも読もうと思ったが集中できない。
仕方ないので30分泳でもしよう。
タイマーをセットし、水に入った。
無の心で泳いでいると、宇佐田の立ち泳ぎが終わっていた。プールサイドに座って休んでいる。
私もクロールをやめ、立ち泳ぎになって宇佐田のほうを向いた。
「帰る?」
「いいよ、泳いでて」
「私も疲れたわ」
プールサイドに上がると、宇佐田が歩いてきた。二人でシャワーに向かう。
「ねー、さやかちゃん」
「なに?」
「私空挺行くわ」
「いいんじゃない?」
「軽くない!?」
宇佐田が驚いて見つめてくる。私は肩をすくめた。
「行きたいならいけばいいじゃん?」
あんたがいなくなると張り合いはなくなるけど。
それを言うか悩み、やめた。なんか気持ち悪い。
「今年のレンジャー行って来年空挺素養?」
「ううん、今年」
「じゃあ空挺レンジャー? ……って、宇佐田なら余裕か」
「余裕ではないと思うけど。普通のレンジャーだって絶対死にかけるし」
「大丈夫、あんたが死にかける教育なら他の人間はほんとに死ぬから」
言うと、宇佐田はぽりぽりと頰をかいた。
「いや、さやかちゃんこそレンジャー向きだと思うけど。メンタル強いし」
「別に強くないでしょ。普通に働くだけでもしんどいのに」
これが本当にしんどい。射撃で朝三時起きの日とか、うっかり退職代行に電話しそうになる。
「まあ、がんばりなよ」
私には絶対、行けない場所だけど。
空挺団に移動するためには素養試験に合格する必要がある。
見られるのは体つき、特に背骨だ。背骨が歪んでいると降下した際の受け身で衝撃がうまく逃がせず大怪我に繋がる。
本来背骨の判定はシビアなのだが、裏ルートが存在する。
陸軍の編成は総司令部の下に陸上総隊と各方面隊がある。
三個旅団からなる海兵隊は陸上総隊直轄。
空挺とSF(特殊部隊)もまた、陸上総隊直轄。
ようするに身内での移動。医官も心得ている。
宇佐田はあっさりと合格し、基本降下課程へと旅立った。
基本降下課程は一ヶ月の教育。これを卒業すれば、来年度から晴れて移動となる。
宇佐田がいなくなると、やはり張り合いがなくなった。
走ってもペースがあがらない。筋トレも最後まで追い込めない。ほぼ毎日やっていた体力錬成は週に3回になり、二回になり、やがて気が向いたときにしかやらなくなった。
日に日に体は弱くなる。
けど、強くなったところで戦争が起きれば死ぬのは変わらない。
意味のないことをやめただけ。
なら、これでいいじゃん。
宇佐田が教育に行っている間、伍長の昇任試験があった。
試験は穴埋め。問題用紙には、軍にいれば一度は聞いたことのある文言が並んでいる。
こんなの、受かりたいと思って落ちる人間がいるのだろうか。
兵長までの階級なら退職のハードルも低い。だから、みんな受かりたがらない。
私も去年は白紙で出した。
名前を書いて、シャーペンを置く。周囲にはかりかりとペンを動かす音。
前ではいかめしい試験管が腕組みしている。
本当にくだらない。昇進なんて、百害あって一利なし。
宇佐田の顔が脳裏に浮かんだ。
ペンを取る。
本当に、馬鹿なことをしている。
ーーーーーーーーーー
宇佐田が教育から帰ってきてすぐ、障害走検定が行われた。
歩兵科で年に一度行われる、体力を測定する試験だ。
コースは一周二キロ。三分の一は山地。棒綱や崖など、いくつかの障害が設置されている。
三周して45分以内なら合格。
去年の私の記録は35分。宇佐田は、28分。
出走は二人ずつ。最初の組が出発し、1分後に次の組。そして、私たちの番。
スタート地点、宇佐田と二人並ぶ。
鉄帽とチェストリグをつけ、小銃を持つ。防弾チョッキ以外はすべてつけた状態。
「さやかちゃん」
「なに?」
「25分切る」
宇佐田はにぃっと笑う。
時間を見ていた勤務員が顔を上げた。
「出走!」
私たちは走り出す。
最初はたいしたことない。低鉄条網を匍匐でくぐり、うんていを渡り、ちょっとした坂道を越えていく。
山に登る直前、前の組を抜かした。すでに宇佐田との距離は開き始めている。
走り出すまで楽しげにしていた宇佐田は無言で前を見ている。
距離は5メートル。
山道を登り、降りてくる頃には10メートルに開いていた。
宇佐田についていけるわけはない。いずれちぎられる。けど、さすがにまだ早すぎる。
窪地に差し掛かった。水平に二十メートルのロープが貼られている。
セーラー。ここでなら離されない。
私がロープにまたがると、宇佐田は半ばまで進んでいた。
必死になってロープを蹴る。乱雑な動きになったせいで体力の消耗が早い。息はあがり、気道が燃えるように熱い。
対岸に渡り、ロープから降りた。
宇佐田を見る。
ああ、くそ、開いてるじゃん。
坂道に足をかけた。ふくらはぎの筋肉が硬い。もう乳酸が溜まってる。大腿部に力を込め、体を前に押し出す。
山を走り抜け、崖を滑り降り、最後の平坦。
遠くに宇佐田の背中が見える。届かない。絶対に。気づいた瞬間体が重くなる。
それでも足を回す。肺が痛い。心臓が悲鳴をあげる。
うるさい、黙れ、動け。
なんでこんなに必死になってるんだろう、意味なんてないのに、苦しいだけなのに、体が壊れそうなのに。
理性が諭すたび、激情がかき消す。
うるさい、走れ。役立たずの内臓なんて壊れればいい。その程度で音を上げる心臓なんて破裂すればいい。いくら鍛えても弱いままの肺なんてなくなればいい。
意味なんて知らない。考えるな、酸素の無駄だ。走れ。
もっと走れ、腕を振れ、前を見ろ、そして走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走!!!!!!!!!!
ゴールを切った。胃袋が暴れまわる。意識が明滅する。
もうちょっと、耐えろ。私は職業軍人なんだから。
銃の状態を確かめる。すべての部品がある。作動も問題ない。他の装備も異常ない。
側溝のそばにしゃがみ、槓桿が傷まない向きで銃を寝かせる。
よし、オーケー。
側溝に胃の中身をぶちまけた。
すっきりした。体が軽い。あれだけ苦しかったのに、もう動けそうだ。
ようやく周りの声も聞こえるようになってきた。
「おつかれー」「いいぞー、夏芽」「追い込みすぎんなよー」
笑い声、若さを羨む声、まばらな拍手。
銃を持って立ち上がる。空を向いて歩き出した。
背中をとんと叩かれる。
「ナイスラン」
宇佐田の笑顔を見て、ずきりと胸が痛む。
そんなことを言ってもらう資格、私にはない。
宇佐田がいない間、私はサボってた。今だけだ。雰囲気に呑まれて、頑張ってる演技をしてるだけ。本当は怠惰で弱い人間だ。
あさましく見栄を張ってるだけ。
あんたと対等だって思いたいから。
強いあんたの隣にいると劣等感に押しつぶされそうになるから。自分に言い訳するために、やってるだけ。
だから、勝てなくって当然だ。
障害走が終わってすぐ、伍長教育がはじまる。
文字通り伍長へ昇任するための教育で、期間は半年。
県外の駐屯地で行われるので、ちょっとした転勤気分だ。
宇佐田を空挺に送り出すつもりが、私が先に送り出されることになった。
荷物をまとめ、駐屯地を出る。出発は日曜なので私服姿の宇佐田も駅までついてきた。
改札の前で向かい合う。
「じゃあね」
言うと、宇佐田は何やら思案顔。
「ねえ、覚えてる?」
「なにを?」
「新兵訓練の最後にアンケートあったじゃん。一緒に戦場へ行ける同期はだれかって。あれ、なんて書いた?」
「そういえばあったね。私は……2人くらい書いたかな。宇佐田と、もうひとりは忘れた」
言うと、宇佐田は「マジで!?」っと喜色を浮かべる。
「私は夏芽さやかって書いたよ」
こいつは本当に。
「……そりゃどうも。じゃあね」
「うん、ばいばい」
気の利いたセリフが思いつかず、淡白な別れになった。
改札を抜け、ホームに立つ。
強風が吹き抜けた。髪が舞い上がってうっとうしい。
やっぱり切ってしまおうかな、ばっさりと。