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「乾くん、えっと何でここに……?」
スイッチを静かに切り替える。正真正銘、ただの普通の女子高生君島雪音にチャンネルを合わせる。
「何って、ジョギング中。俺、家近所だから」
半袖のTシャツを着た湊はからりと笑う。突っ立ったままで体が冷えた雪音からすると、彼の姿は見ているだけで寒さを覚える。
「半袖寒くないの?」
「走ってたから全然」
「そっか……」
高ぶっていた感情が徐々に収まってくる。ふうと息を吐いて気持ちを整える。
「君島こそ、こんなとこで何してるの? さっき話し声も聞こえた気がするけど」
「ああ、電話かかってきてちょっと話してたから。学校終わって色々寄り道してて、今から帰るとこだよ」
「そうか、だからまだ制服なんだ。……もう暗いし、送ろうか?」
「ううん、平気。自転車だし。じゃあ、また学校でね」
ひらりと手を振って自転車に乗り、再びゆるやかな坂を下る。余計な詮索をされる前に立ち去りたかった。
「ねえねえ、さっきの彼氏?」
「違います、同じクラスの隣の席の人です」
少し走り隣から飛んできた問いに間髪入れずに答えると、ちぇーっと尖った声が上がった。
「何でえ、つまんないの。かっこよかったのに」
「うーん、よく分かんないです」
「ユキ恋愛に興味なさそー」
「限りなくそれですね」
それどころではない、というのが一番近い。
けらけら楽しそうだった笑い声が急にやみ、すーっと後ろに下がっていく。どうしたのかなと思いつつちらりと振り向いても、洋子の表情は分からなかった。
「ユキ」
しばし言の葉のない空間が続き、やがてぽつりと漏らされた。
「ありがとね、敬汰のこと」
こういう時、雪音はいつも返事に困る。はいなのかいいえなのか、それとももっとちゃんとした言葉を返したほうがいいのか。
答えあぐねていると、それ以上彼女は何も言わなかった。だから雪音も無言のままでいた。
けれどやっぱり、ありがとうと言われるのは嬉しいのだ。大事に大事に、静かに噛み締めた。
そして家に帰り、母の遅かったねという言葉に平然と「スイちゃんとしゃべってた」と返し、ご飯や風呂をすませる。自室に戻り課題をこなしていると、気づけば今日は昨日になり明日が今日になっていた。
「零時超えたけど寝なくていいの? あ、金曜日だったから明日は学校休みか」
「それもあるけど、たぶん洋子さん最後だと思うから」
ローテーブルに広げた教科書とノートを閉じ、散らばった文房具をペンケースに戻る。視線を上げると、向かい側に座った洋子が「あ、そうか」と納得のいった顔をした。
「これで未練もなくなったわけだもんね、たぶん」
「はい。だから、その瞬間まで見届けます」
幽人は夕方にドリームキャッチャーに引っかかり、その日の零時をすぎると雪音の前に姿を現す。そして未練がなくなると、その翌日の朝方に消える。それを何回も何回も、繰り返してきた。
それからは話をした。洋子の高校時代の話、大学時代の話。こんなことがあった、あんなことをした。青春を謳歌して恋愛を謳歌した。無邪気に、一生懸命に生きていた。大学の授業の話も聞いた。洋子は保育士になりたかったそうだ。
洋子は話しながら泣いた。目から溢れる涙は、こぼれ落ちると消えてしまった。もっと生きたかった、とこぼれた言葉も、溶けるように消えていった。
生きたかった。その決着はもうついてしまっている。命を落としてもこちらに留まったが、それでも、死んだ事実は覆らない。もう、戻れない。幽世と現世、引かれた境界線は絶対だ。
進んだ部屋の時計の長針が何回転もした。窓から見える外はまた暗い闇だが、何となくその兆候を感じた。それは洋子も同じだったようで、赤くなった目元を優しくゆるめる。
「ユキ、付き合ってくれてありがとうね」
「いえ、洋子さんが思い残すことがないなら、それでいいです」
瞬きで視界に一瞬の黒が差す。
その瞬間で、洋子はもういなかった。
「……さようなら」
雪音は体の力を抜いた。はあ、と長く息を吐く。こういうものだ。現れる時も突然だが、いなくなる時もあっけなく姿を消すのだ。愛おしく、薄情な友人。わけの分かっていない小学生のころは、仲よく話していた人が朝起きたらいなくなっていて何度も悲しく寂しくなったことを思い出す。
ふらりと立ち上がり、ばふりとベッドに倒れ込む。緊張がほどけ、急激な睡魔が雪音を襲ってきた。
見送る時は、いつも寝不足だ。明日――もう今日か、休みでよかった。
瞼が落ちる、視界がかすむ。
一時の友人が、どうか、心穏やかでありますように。
微かな祈りを願いつつ、雪音は吸い込まれるように眠りの世界に落ちた。




