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幽けき人は天明にとける  作者: めろん
第一章 鼻輪野郎
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「『スイちゃん』も案外そっけないんだね」

 ぽつり漏らされた声は風に置いて行かれるように、耳から離れて消えた。事実、今雪音は自転車を漕いでいて、言の葉を紡いだのは自転車と並走するように浮遊してついてくる洋子だ。声は向かい風に押し流されて余韻も残さずいなくなった。しかし雪音の耳にはきちんと届いて残っている。

「何でですか?」

「いや、あたしてっきりあの子も来るんだって思ってたから」

 放課後になり、洋子の元カレが住んでいたアパートへ向かっているのは自転車一台、雪音と洋子の二人だ。翠夏はいない。

「スイちゃんは部活もあるし……。それに、そういうんじゃないから」

 翠夏は確かに霊感があり、雪音の事情も深く知っている。でも、それだけだ。何かを手伝ってもらう、というのはないし、彼女もそれがどういうことになるのかをきちんと把握している。互いに、下手に誤魔化さなくていい関係。「仲のいい友達」のほかなんて何もない。たまに話を聞いてもらうことはあるけれど、それも話して終いだ。

「そんなもん?」

「そんなもん、です。それ口癖ですか?」

 翠夏と同じようなやり取りをしていたなと思い出して、くすりと笑った。

 学校から自転車を走らせること三十分ほど。住宅街を抜けて大きな川を渡り、再び入った住宅街の中に元カレが住んでいたというアパートは佇んでいた。

「ここですか?」

「そーそー。ここのねえ、二○四号室」

 木造二階建ての寂れたアパート。築何年だろう、かなり古そうである。自転車を停めてまずは集合ポストを覗いてみるが、名前を明記している住人のほうが少なく二○四も同様に何も書いていなかった。中に郵便物が入っているので、何某かが住んでいるのは間違いないようだ。

敬汰けいたも名前とか貼ってなかったと思うからなー、どうだろうね」

 無骨な階段をローファーを鳴らして上がり、ものが散乱した二○一、観葉植物がたくさん置かれた二○二、子供が使うピンクの縄跳びが放置された二○三と順に通りすぎる。

 二○四の前はほかのところのように、部屋の前に何かが出ていることはなくて片づいて見える。

 手書きでそっけなく書かれた簡素な表札が一つ。明記される名字は田中。洋子の元カレははなわだ。

「……ま、さすがに引っ越しててもおかしくないよね。もう三年も前になるわけだし」

「ですね。でも想定内です」

 雪音はインターホンを押す。ピンポーンとどこか間抜けた音が静かなアパートに響く。

「え、タナカさんに会ってどうすんの」

「前の住人について何か知ってるかもしれない、という希望的観測です。大体は収穫なしですけどね、一応」

 鈍い足音が無言で近づいてくる気配を感じる。玄関の鍵がかちゃかちゃと動く音がして、ドアが押し開けられた。

「はい」

 チェーンをしているのか、わずかに空いた隙間から生真面目そうな顔が覗く。田中は雪音の姿を捉えると、怪訝な表情を浮かべた。

「誰?」

「突然すみません! 私以前ここに住んでた人の知り合いなんですけど、塙さんって知りません?」

「知らないけど」

「そうですかありがとうございます! ちなみにいつからここに住んでるんですか?」

「一年くらい前」

「そうなんですね。突然お邪魔してすみませんでした。ありがとうございました!」

 笑顔でぺこりと頭を下げて、きびきびとその場をあとにする。ユキ、と声をかけられた気がしたがその勢いのまま階段を軽やかに下りて自転車の元に戻り、洋子がついて来ていることを確認するとすぐに走りだした。結んだ髪の毛が風を受けて揺れる。

「ユキ」

「はい。あ、すみませんさっき無視しちゃって」

「いや、それはいいんだけど。そんなに急いでどうしたの?」

「だって、わけ分かんない女子高生が突然訪ねてきた上に部屋の前とかアパートの前でふらふらしてたら絶対気持ち悪いじゃないですか。傍から見たら幽人は見えなくて一人なわけだし。だからああいう時はなるべく早く帰るようにしてるんです」

「へー、そんな」

「もんです。……周りからどう見られるかなんて、ちゃんと分かってるから」

 大型のバイクが走り抜けていき、そのエンジン音にかき消されて雪音の言葉は洋子に届かなかったらしい。「何て?」と問われたが、何でもないと受け流す。

「ふーん? ああ、あとさ、ユキの変わりようにあたしびびってたんだけど。何あの超営業スマイル」

「ある意味営業だから。素の自分でなんてやっていけないです」

 嘘で身を塗り固めるのが雪音のやっていることだ。

「それより、やっぱりいなかったですね塙さん。田中さんも何も知らなかったし」

「そうねー。まあしゃーないでしょ」

「ちなみに彼の実家は?」

「県外。こっからじゃ飛行機だよ」

 飛行機。距離やお金や時間、全てが否定する。

「んー、あとは手当たり次第塙さんが行きそうな場所に行ってみますか。思い当たる場所はありますか?」

「そうだねー……」

 ぽつぽつと、複数の塙敬汰にゆかりのあるところが上げられる。いくつか放課後だけでは難しい場所もあったが、大方は何とか回れそうである。

 その日の帰り、そして次の日とそのまた次の日の放課後に駅前のCDショップや彼のバンドが出たこともあるライブハウスなどを見て回ったが、塙敬汰が見つかることはなかった。


 金曜日も、学校が終わってから駅前の店なんかを何軒か回ったが今日も空振りだった。洋子の元カレは見つからない。手当たり次第に聞いてみても、小さな情報ですら得られなかった。

「明日は学校もないので、洋子さんが前に言ってた隣の市の友達のところに行ってみましょう。何か分かることがあるかもしれない」

「……ユキ、もういいよ」

「え?」

 耳に届いた声は今にも消えてしまいそうなほど小さく、雪音は思わず自転車を止めた。幽霊らしくふわふわと浮いている洋子は情けない顔でへらりと笑った。当時の流行だったらしいふんわりと太めに描かれた眉が下がる。

「どうして?」

「本気であいつに謝ってほしいかって聞かれると正直微妙だし、これ以上ユキを振り回すのは悪いし。ほら、学生の本分は勉強って言うじゃん? いやあたしは勉強全然しないアホ学生だったけど!」

 きゃははとわざとらしく声を上げて笑う洋子が痛々しい。そしてそんな彼女を見て雪音の心も痛くなる。

「ダメです」

 自転車を下りて洋子の正面に立つ。

「このまま何もしなくても、もしかしたら成仏するのかもしれない。でもどうせするなら、わずかでも心に引っかかったものがあるならちゃんと清算したほうがいいと思う。成仏がどういう状態なのか正しく私には分からないけど、でも、こっちに残って幽人となったことには意味があると思うから、だから、洋子さんがいなくなるその時まで手伝うから」

 否、洋子が、ではなく自分が心残りにしたくないからだろうか。姿を見た、会話をした、そうなれば捨て置けない、そして何かをしてあげた。その実感がほしいのだろうか。全部、自分勝手で利己的で独りよがりで、本当にもういいって言ってるのだったら……。

 身動きが取れなくなる。頭を振って思考を押しやった。

「今日は帰りましょう」

 再び自転車に乗って走りだす。ゆるやかな下り坂に入ってほどなくして、無言で雪音に向いて伸ばされる手が視界の端に映った。何だ、と横目で見ているとその手は往復するように動かされている。はたり、と気づく。

 もしかして頭を撫でている……?

 少し後ろにいるのか洋子の顔は見えないけれど、しかし手の動きはひたすら繰り返される。幾度も幾度も、やわらかく優しく。ぬくもりはないし感触もない。幽人とは触れ合えない。けれど、心が救われた気がした。

「――っあ、」

「?」

 洋子の短い声のあと、雪音の頭にあった手がたった今すれ違った男性を指差した。

「洋子さん?」

「……敬汰だ、今の」

「えっ!?」

 ブレーキを握りしめると、キュキューと甲高く自転車が鳴き声を上げた。振り返る。暗い上に下り坂でスピードが出ていたのもあって、件の男性の姿はもう見えなかった。

「本当に……?」

「うん。髪型とか雰囲気とか全然違ってたけど、間違いない」

 言葉を聞いて、雪音は弾かれるように自転車の向きを変えた。立ったまま自転車を漕いでぐいぐい坂道を上ると、ちょうど街灯に照らされて男性の後ろ姿を捉えることができた。

「あの! ……あの、そこの人っ!」

 声を張り上げると、何事と思ったのか男性が振り返る。黒い髪は短く刈られ、カットソーにパーカーにジーンズと素朴な格好をしている。金髪や鼻輪のようなピアス、なんて目立つものは一切ない。

 ようやっと追いつき、自転車を停めて真正面に立つ。

「俺?」

「はい、そうです。――塙敬汰さん、ですよね?」

「……そうだけど。誰?」

 不審そうに顔をしかめられる。けれどそんなこと関係ない。雪音の知るところではない。

 息を吸う、吐く。色を変えるように、場面を変えるように。明確にスイッチを入れる。

「突然すみません、初めまして。私、君島といいます」

 にっこりと笑って、ぺこりと頭を下げる。顔を上げて、口角を上げたままで問う。隣に洋子が並ぶのを横目で見た。

「矢内洋子さん」

「え?」

「付き合ってたんですよね?」

「……何、洋子の知り合い?」

 不機嫌そうで、面倒くさそうな声。思い出すのも嫌そうな、と全くの他人である雪音ですらそう思えるのだから、当事者である洋子にその機微が伝わらないはずがない。

「はい、ユージンです」

「友達、ね」

 今度はこんな女子高生が、とでも言いたげな怪しそうな顔。どうも感情が表に出やすいタイプのようで、顔面が雄弁に語る。

 十月も夜となれば空気が冷える。制服のスカートから伸びる足は靴下を履いているといえど、防寒機能は微々たるものだ。背中が丸まらないように意図的に背筋を伸ばす。

「で、その洋子のお友達が今更俺に何の用?」

「謝ってください」

「は?」

「洋子さんに謝ってください」

「……洋子が死んだのは事故だ」

 傷ついたような痛みを覚えるような顔も嘘ではなく、本当の感情なのだろう。しかしふるりと頭を振る。

「そっちじゃない。洋子さんは事故死、それは聞いてます。私が言ってるのは、あなたが洋子さんの友達と浮気したほうです」

「な、何で知って……」

「本人に聞いたので」

 隣に立つ洋子は先ほどから微動だにしない。俯き加減で、髪の毛が顔にかかっていて表情は見えない。

 ひゅ、っと風が吹き抜けていき足元から震えが上がってくる。ブレザーの上から腕をさすった。

「い、今更そんなの意味ないだろう。洋子はもういないんだから」

 踵を返す塙の前に素早く回り込み、押し留めるように彼の腕を掴む。苛立たしげに鋭く睨まれるが、真正面から視線を受け止める。

「意味なくない、謝って」

「っち、何なんだよこのガキ――」

「敬汰」

「!?」

 洋子が囁くように名前を呼んだ途端、彼の表情が固まり段々と塗り替えられる。じわりじわりと染み込むよう忍び込むよう、姿の見えない声の主を考え推測しそして断定して、思い立った可能性が恐怖と怯えを彼に呼び込む。

 掴んだ腕が嫌がるように暴れる。塙が離せと叫ぶ。

 雪音は普通の女子高生だ。気を抜いてはすぐに振りほどかれるので、ありったけの力でぎりと腕を握りしめる。

 雪音は普通の女子高生だ。地の声はどうしたって高いので、精いっぱい低く落としてドスの利いた声でねめ上げる。

 雪音は普通の女子高生だ。しかし今この瞬間だけは、普通の女子高生の皮を剥ぎ取る。

「逃げんな! ちゃんと聞いたげて」

「……あたしさー」

 洋子の声が響くと塙の抵抗がゆるむ。雪音が体に触れると、幽人の声がその人にも聞こえるようになる。姿は見えず声だけが消える状況に激しく感情が綯い交ぜになりながら、それでも話を聞く気はあるようだ。

「死んだあと、何かさー、やったらニュースで取り上げられてたじゃん。包丁持ってたから。あれね、あたしあの日あんたのことを殺しに行こうとしてたんだよねー」

 塙の全身がぎくりと強張る。

「ああ、今どうこうする気はないから安心してね。つーかできないし? あはは。あたしもうすぐ成仏? できるみたいなんだよね、たぶん。だからまあ、一言くらい謝ってもらってもいいんじゃないと思うわけよ。あの時一回も謝ってくんなかったの、あたしちゃんと覚えてんのよー?」

 はあ、と一つため息の音。それまでからかい調子だった洋子の声音が変わる。

「あたし、敬汰のこと好きだった。すごく好きだった。今思うとあたしも悪いとこばっかだって分かるけど、でも何も分かんないくらい、当時のあたしは、敬汰のことが好きだった」

「……うん」

 微かな相槌が消える前に、彼は虚空に向けて言葉を落とした。

「ごめん」

「……ん、ありがと。じゃーね」

 満足したのか、洋子は一人頷くとステップを踏むように後ろに下がった。雪音が腕を放し道を開けると、塙は何か言いたそうに見ていたが、小さく頭を振ると重たい体を引きずるように暗い夜道に消えていった。

 街灯の下が静けさに包まれる。蛍光灯の息づく音が、ジジと微かに耳朶に触れる。

「……洋子さ」

「君島?」

 聞き覚えのある声にぎくりと振り返ると、同じクラスの乾湊が不思議そうにこちらを見ていた。

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