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「じゃあ、おやすみ」
「はーいおやすみー」
二十三時前、雪音はリビングにいる両親にひらりと手を振り自室に戻った。明日の準備や制服の用意をすませ、あとは読みかけの文庫本を読みふける。
コチコチコチコチ、スヌーピーの壁かけ時計が時を刻む。実は五分ほど進んでいるのだが、何となくそのまま放っている。父と母が結婚した時に、そのお祝いとしてもらったらしい年代ものだ。
コチコチコチコチ、コチコチコチコチ……。
長針と短針が十二で重なり、少しずつあいだが開き始める。雪音は本にしおりを挟んで机の上に置き、ベッドの縁に腰かけた。秒針が頂点に近づき、やがて通りすぎる。長針がぴくりと動いて、一を指す。
「誰、あんた?」
「――こんばんは」
時計から視線を下げると、部屋の扉の前に見たことのない女性がいる。金色に近い明るい茶髪に丁寧に施された化粧は華やかで、大学生くらいだろうか。きつくつり上がったまなじりは、訝しげに雪音を見ている。
「初めまして、君島雪音といいます。あなたは?」
「……洋子。矢内洋子」
「洋子さん。あなたは今、自分の状況を分かっていますか? あ、座ってください」
部屋の中央に置いたローテーブルを指し示し、雪音もそれの前に座る。洋子は首をひねりつつ雪音の向かいに腰を下ろした。
「状況? 何、自分が死んでることくらい分かってるけど」
幽人はこうして音もなく雪音の前に現れる。ただの人間と同じように、ごく普通に目の前にいる。体が透けているなんてことはなく、生前と何ら変わりなく存在しているのだ。けれども彼女たちは、確かにもう生きていない人間なのである。
「何か、いきなりすごい力に引き寄せられて動けなくなってわけ分かんなくなったんだけどさあ。もしかしてここが天国ってやつだったりするの? あんたは天使? 天国って案外地味だね」
「ごめんなさい、洋子さんはまだ成仏してないんです。私は天使じゃなくて、お見送りをしてます」
「天国じゃないの、ざんねーん。いやあたしが成仏したとこで天国に行けるかなんて分かんないんだけどさ」
きゃはは、と楽しそうに手を叩いて洋子は幼子のようにはしゃぐ。しかしすぐにそれを引っ込め、真剣な眼差しを雪音に向けた。
「あたし、たぶんあんた――えっとゆき……ユキでいっか。ユキのこと聞いたことあると思うよ。成仏させてくれる人で合ってる? 死んでもさ、同じように死んだ人としゃべったりしてたんだけど、そういう噂みたいなのあったんだよねー」
「えっと、お手伝いはするんですけど。絶対に未練を解決して成仏させてあげられるとは言えません」
「そうなの?」
「はい、私もちゃんと分かってないんですけど、その抱える未練を解決する前に成仏――ううん、私の目の前からいなくなってしまうことがたまにあります。その人の意思なのか、それとも何か時間制限があるのか。そしてただ私の前からいなくなるだけなのかはたまた成仏をするのか、私には分からないんですけど……」
「まあよく分からん、と」
「はい……」
すみません、と続ける声を「いやまあ別にいいんだけどね」と洋子はあっけらかんと跳ね飛ばす。
「えーそういうことなので、洋子さんのことを教えてほしいんですが」
「オッケー、何から話す?」
「まずはいつ、どこで、何で亡くなったのかを」
「いきなりくるねえ」
洋子はにやりと口角を上げて笑い、頭の中の記憶を辿るように空中を睨む。
「そうだねえっと、今って何年? ああ、もうそんなに経つんだ。じゃあ三年前だ。三年前の夏に、交差点で車に轢かれて死んだよ」
「事故死ですか?」
「そ、交通事故。でもねえ、あたしが包丁なんかをバッグに入れてたばっかりに、他殺の可能性だとか自殺がどうだとか報道で騒がれてたんだよねー。幽霊になってるよりもそっちのがびびったわ」
――死亡した矢内さんの鞄の中には刃物が入っており、警察は何らかの事件の可能性も視野に入れて捜査を続けています。
当時のニュースアナウンサーの堅苦しい口調を真似た洋子がおかしいよねと同意を求めてくるのに、雪音は素直に頷いた。どうしてそんな報道がされたのだろう。
「レシートとか持ってなかったんですか?」
「え、レシート?」
「はい。包丁を買った帰りとかだったんじゃないんですか?」
「あー違う違う。自分の家の包丁を持ってたんだよ」
「? どうして?」
「どうしてって、」
洋子は軽薄に微笑む。
「彼氏を殺しに行く途中だったからに決まってんじゃん」
「……すごい理由、ですね」
「あっは、ユキ引いてんね。だいじょぶ、おねーさん怖い人じゃないよー。でも当時はね、そうせざるを得なかったというか、止まらなかったというか。だから死んだのかもしんないけど」
三年前。大学生だった洋子は、同じ大学に通う同い年の彼氏がいた。バンドを組んでいた彼は脱色して痛んだ金髪と、鼻にした牛の鼻輪のようなピアスがトレードマークだった。がなるようにかき鳴らされる彼のギターを洋子はこれっぽっちも好きじゃなかったが、彼のことはちゃんと好きだった。
しかし、ある日彼は言ったそうだ。ほかにも付き合っている子がいる、と。お前のことも好きだが、そいつのことも好きだ、と。その相手は洋子の友達だった。激しい怒りは起こらなかった。けれど静かにぷつんと、洋子の中で何かが切れた。
「で、包丁持ってさあ殺そうと思ってたら事故に遭って死んだわけよ。あたしが殺しに行くとこだったのに他殺がどうのこうのってどう考えてもおかしいでしょ」
「……洋子さんの未練は、彼氏さんを殺すことですか?」
話を聞いて無視できない可能性を淡々と問うと、「いや別に?」と案外軽い反応が返ってくる。
「死んだ直後はやっぱり妙な悔しさとかそういうのがあって呪い殺してやるって思ったんだけど、死んでそばにいても何もできないんだって気づいたら虚しくなったから今はそこどうでもいい」
自分の髪の毛先を弄んでいた洋子は「あ、枝毛」と髪の毛を抜いた。一本の茶色く光る髪の毛は彼女が手を放すとその存在は速やかに消滅した。幽世と現世、世界はあちらとこちらで異なるのだ。
「幽人はこっちに干渉できないから。もちろん、私たちもそっちには立ち入れません」
「そうみたいだね。それ知ってからはふらふらお気楽幽霊生活。案外悪くはなかったよ。別に楽しくもなかったけどね」
「――洋子さん、問います」
雪音は背筋を伸ばして居住まいを正し、真摯に問う。
「あなたの最期の最後の願いは何ですか?」
「願い、ねえ……」
んーと唸り、洋子の目が無意識に部屋を彷徨う。虚空を追う彼女の目線がやがて雪音と重なり、素直に穏やかに、やわらかに笑んだ。
「強いて言うなら、あいつに謝ってもらうこと、かな。たぶんそれ」
「分かりました」
雪音は小さく頭を下げる。さらりと肩から流れ落ちた髪の毛から、嗅ぎ慣れたシャンプーの香りがした。
「よろしくお願いします」
翌朝学校に行くと、昨日とは違い翠夏がすでに登校していた。
「スイちゃんおはよう。今日は信号大丈夫だったんだね」
「おはー。さすがに二日連続赤信号地獄はつらすぎるって。今日は占い七位だったしね」
「七位……」
「微妙とか言わないでね?」
「七位って。びっみょー」
「はいそこの人。聞こえないとか思ってるのかもだけど、ちゃんと聞こえてるからねー」
雪音の背後から半笑いで漏らした洋子に、翠夏は自然に視線を向けて指を差す。笑っていた洋子が虚を突かれたようにきょとんとした。
「え、何? 見えてるの?」
「ばっちり見えてますよー。おねーさん美人ですね、派手だけど」
「あらありがと、褒め言葉として受け取っとくね。というか何、最近の女子高生はみんな幽霊が見えるわけ?」
「まさか。あたしは普段は姿までは見えずに気配を感じるくらいだし」
「私もこの状況にならなきゃ見えない何も感じないです」
全ては祖父のドリームキャッチャーのおかげと言うべきなのか。せいと言うべきなのか。善し悪しの判断はまだ雪音にはつけられない。けれどもこれが、気配を感じられる程度の翠夏に何かしらの影響を及ぼしていることは確かだ。
「ふーん、そんなもんなんだ」
「そんなもんそんなもん」
予鈴が鳴り、雪音は翠夏にひらりと片手を振って自分の席へと戻る。廊下側から数えて五列目の前から四番目。翠夏は二列目二番目で、雪音のあとをついて来ていると思った洋子はその翠夏の席に留まったままだった。周りに訝しげに見られないようにこっそり会話をしているようだ。翠夏と楽しそうに話している洋子は、確かにそこにいるのだけれど、しかし本当に正しくそこに在るように見える。
そういえば、雪音と幽人は一定以上の距離は離れられないようになっているらしいことを思い出す。やっぱりはっきりしたことは分からないが、雪音から見える範囲内、なのだろうか。それ以上離れようとすると、引っかかった時と似たような強固な力で引き戻されるとかつて幽人は語っていた。正確には雪音自身ではなく、ドリームキャッチャーからなのだろう。
担任がやって来て短いホームルームはすぐに終わり、一限目までのわずかな準備の時間を得る。鞄から教科書なんかを出していると、洋子を連れた翠夏がこちらに向かってきた。
「やー粗方聞いたんだけどさ、洋子さんやるね。怖い女だわ」
「うっせー黙れ?」
翠夏のなせる業なのかそれとも洋子なのか。短い時間でもすっかり打ち解けたらしい二人は既知の友人のように軽い言葉を投げ合う。
「で、雪音。洋子さんのこと、今日から早速するの?」
「うん。時間があるかどうか分からないから、できるだけ早く動きたい。放課後元カレさんが住んでたところに行くことになってる」
「ふーん、そっか。まー無理のない程度に、ぼちぼちね」
「うん、ありがとう」




