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『……次のニュースです。松海市で起こった通り魔事件から、今日で一年が経ちました。死傷者五名のこの事件は――』
紅茶とコーヒーの綯い交ぜになった香りが雪音の鼻に届く。とろけるチーズがいい塩梅に焼けたチーズトーストを一口かじり、もそもそと咀嚼して飲み込む。母が台所で作業をする音、向かいに座った父がコーヒーをすする音、ニュース番組で話すアナウンサーの声がそれぞれ通りすぎていく。
いつもと何ら変わらない、普通の朝だ。寝起きでまだ頭がぼんやりとしている中、雪音は緩慢な動作で紅茶を飲みトーストを食べる。
だから、父の発言に対する反応が遅れた。
「これ、もう一年経つんだな」
「……え?」
目を向けると、父はテレビに視線を注いでいた。
「ほら、そこの駅の近くであった事件だよ。全国ニュースとかでも大々的に取り上げられてたけど、覚えてないか?」
「あの小学生の男の子が亡くなった事件でしょ?」
台所の用事が終わったらしい母がコーヒーを片手にやって来て、痛ましそうに眉をひそめる。駅の近くという単語に、ぼやりと働かない雪音の頭にもうっすらと事件に対する記憶が浮かんできた。
「ああ、そういえばあったかも……」
テレビに映った花束の置かれた電柱は、言われてみれば周りの景色に見覚えがあるかもしれない。立てつけの悪い戸をガタガタと開けるかのように思い出そうとする雪音に対しての援護か、アナウンサーが事件の概要を語りだした。
ちょうど一年前、十七時ごろ。JR潮崎駅近くの住宅街に、刃物を持った男が現れた。男はすれ違った若い女性二名、壮年の男性一名、高齢の女性一名を切りつけ、そして最後に出会った当時小学四年生だった少年を殺害した。友人宅に行こうとしていた彼は頸動脈を切られたのが致命傷となったのだが、そのほかにも腕や背中など十数か所を切りつけられ被害者の中で唯一の死者となった。そして犯人は少年を切りつけた直後、その場で自らの首をナイフを突き刺し死亡した。被害者たちと犯人のあいだにトラブルはなく通り魔的犯行とされたこの事件は、犯人の自殺という何とも後味の悪い結果で終わりを告げた。
「でも、本当にこの時はびっくりしたな」
「そうね、こんなことが身近で起こるなんて考えたこともなかった。ユキも、気をつけなさいよ?」
「うん。……ごちそうさま」
空になった食器を流しに持って行ってから、登校時間が迫っていたため雪音はリビングをあとにする。玄関まで見送りに来てくれた愛犬ライの頭を一撫でしてから、雪音は「行ってきます」と家を出た。
――死というものは、思いのほか近くに存在するものだ。
十月初旬の朝、まだ涼しいと思える気温の中を自転車で走りながら雪音は思う。
今こうしているあいだにも世界中のどこかで誰かが死んでいて、たった今信号ですれ違った老婆が一分先、一時間先、生きているかなんて誰にも分からない。今猛スピードで道路を走り去っていったトラックが突っ込んでいたかもしれない。突然の病で倒れてしまうかもしれない。そんなことは誰にも分からない。
そうしてそれは自分や身近な人間に対しても等しく言えることで、誰がいつ死のうと何もおかしなことはない。死は自然の摂理。人は、この世に生まれ落ちた途端死に向かって歩きだすのだ。
自分はいつ死ぬのか。家族は、友達は。もし死んだら、その時自分はどうなるのだろう。――分からない疑問は尽きない。
そんなとりとめのないことをうつらうつらと考えていると、自転車で片道二十分ほどかかる学校にはすぐに着いた。津科高校、通称ツカ高。創立四十一年の公立高校だ。
自転車を置き、第二教棟三階にある二年三組の教室へ行く。すでに半数ほどのクラスメイトが登校している教室内は賑やかで、雪音は人と机のあいだをすり抜けて自分の席へと向かう。
「あ、おはよう君島」
「乾くん、おはよう」
隣の席の乾湊に挨拶を返し荷物を置いていると、また別のところから声がかかった。
「ユキ」
振り向くと、中学も同じ学校だったクラスメイトが手招きをしている。少し浮かない顔に見えるのは雪音の気のせいだろうか。
「おはよう、どうしたの?」
「ああうん、おはよ。あのさ……」
彼女のもとに行くと、彼女は言いづらそうに言葉を止める。口を開けたり閉じたり何度かの躊躇いを見せたあと、彼女は深呼吸をしあのね、と力なく話しだした。
「ユキさ、霧生さんって覚えてる?」
「霧生さん? 覚えてるよ」
脳裏に穏やかな笑顔が浮かぶ。霧生眞子は中学二年生の時にクラスが一緒になり、幾度か話したことがあった。三年生でクラスが離れてからは話す機会もなくなったが、温和で気のよい性格に雪音は好印象を抱いていた。
「霧生さんがどうしたの?」
「うん。……霧生さん、亡くなったんだって」
「え?」
「夏休みに手首を切ったらしくて……。あたしも昨日知って、すごいびっくりしたんだけど――」
ほら。
死は思いがけず、近いところに在るのだ。
「おはよー、雪音」
「スイちゃん。おはよう、遅刻寸前だったね」
「来る途中の信号、全部ぎりぎりで渡れなくてさー。今朝の占い最下位だったんだけど、やっぱりあのテレビの占いって当たるんだねー」
あはは、と朗らかに笑う翠夏は二年から同じクラスになった友人だ。明るく優しい彼女はまなじりの上がった瞳で猫のような印象がある。長い髪を今日は高い位置で一つに結っていて、肩甲骨あたりまでしか長さのない雪音にはその綺麗に伸ばされた髪の毛が羨ましい。
「あー、朝から全速力で自転車漕いだわ。暑い」
「お疲れさま」
手で顔を扇ぎながらからりと笑っていた翠夏は、しかし雪音を見てその表情を引っ込めた。
「雪音、何かあった?」
「へ?」
「顔色悪い」
思わず苦笑いがこぼれた。
聡いな、と思う。頭の回転が早く、そしてやわらかいのだ。彼女は人のことをよく見ている。
「さっき、中学の同級生が亡くなってたって話を聞いたから」
「ああ、そうなんだ」
「うん。……さすがに、知ってる人だとね」
いくら、そういうのに近いと言っても。
「感覚が違うよ」
その呟きを正しく理解したであろう翠夏は、雪音の頭にぽんと手を置いた。




