5
その家は知らない家のはずなのに、勲はどこか懐かしくあたたかい気持ちになった。
小さなアパートの二階。掲げられた表札は乾だ。湊が鍵を開け、「ただいま」と中に入る。
「おかえり湊ー」
もう動いていないはずの心臓がきゅっとなった気がした。少しハスキーで、でも角のない丸い声。ひどく耳に心地よく馴染む。何年ぶりに聞いただろうか。
湊は玄関から続く短い廊下の途中にある扉を開けて中に入る。そこが彼の自室のようで、机とベッドと本棚があった。学校や部活の荷物、高校生らしくゲームや漫画などが適度に散らばるが、片付いているほうだろう。
「片づているな」
「そうかな」
湊は本棚に差してある一冊の本を抜き出す。思わず懐かしいと声が漏れた。
「湊が持っているのか」
「そう。父さんが死んでから、母さんが一度父さんの実家に行ったんだけど……あ、俺は風邪引いてたかどうかで行けなかったんだけど」
初耳で驚く。ということは、死んでからすぐ華波の実家に行かず自分の実家に留まっていたら、何年も彷徨うことなく彼女たちに会えたということだったのか。とんだ遠回りを、と思ったが、その時出会わなかったからこそ雪音と出会い今湊とこうしているのだと思うとこれでよかったとも思える。
「その時もらったみたいで、それで本は何冊か俺にくれた」
湊は本棚の本の背をいくつか指でなぞる。それらは確かに、勲が生前読んでいた本たちだ。
彼が手に取った一冊は勲が若い時に手に入れた翻訳小説で、装丁の美しいものだった。年月を経て劣化はしているようだが、それでも記憶とともに勲には輝いて見える。
「これ、もらった時に読もうとしたけど難しくて挫折してそれからずっと置いてたんだけど、昨日久しぶりに開いてみたら父さんの書き込みとかたくさんあって、変な言い方だけどちゃんと父さんはそこにいたんだなって思った」
「いたよ」
今と違い、生きていた。華波と湊の人生と再び線が交わることはなかったが、ちゃんと生きていた。
机の引き出しから昨日買った桔梗のしおりを取り出してその本に挟もうとする湊を、ちょっと待てと押し留めた。
「そっちの本にしてくれないか?」
「こっち?」
本棚からその本を取り出した湊にこくりと頷く。
「そうだ。恐らく、そっちのほうがいい」
「うん、分かった。ああ、この本も難しくて読めなかったんだよなあ」
湊はぱらりとページを開き、しおりを挟んでぱたんと閉じた。小さな風圧で彼の前髪が揺れた。
「――さあ、行こうか」
これが終わると、もう成仏となるのだろう。今度こそ、この世界から去るのだろう。
後ろ髪が引かれる思いはある。けれど悔いはない。
「ああ」
自分がいなくなっても、ただただ愛おしい者たちの幸せを願うだけだ。
湊の部屋を出る。廊下の突き当りのドアを開けるとそこはダイニングキッチンで、その奥がリビングとなっていた。
そして彼女はそこにいた。
「ねえ母さん」
「んー?」
テレビを見ながら洗濯ものをたたむ華波は湊を振り返らない。しかしながら、その後ろ姿だけで勲には感極まるものがあった。
「昨日、父さんの遺品の本を読んでたんだけどさ」
「あー、昔最初のページを見て『こんなの読めないー!』って癇癪起こしてたやつ?」
タイミングよくテレビの中の住人の賑やかな笑い声が弾けた。
「……その覚え方はやめてほしいけど、うん、そのうちの一冊」
「それがどうかした?」
華波が振り返った。思わず目を細める。
最初に思ったのは口が裂けても本人には伝えてはならない、「歳を取ったなあ」だった。目じりや口元に刻まれた皺に歳月を感じる。けれども募るのは出会ったころと変わらない、穏やかな愛しさだ。
「しおり、かな。挟まってたのに気がついて」
母の前で湊はぱらぱらとページを送っていき、やがて件のページが開く。本のあいだに眠る――という体だが――のは、ステンドグラスを小さく薄くしてしおりにしたかのような美しいブックマーカーだ。勲がどうしても華波に贈りたかった桔梗が一輪、凛とした姿を描かれている。
「父さんってこういうの持ってそうな感じ全然しないから、何か不思議でびっくりした」
「……」
華波は言葉をこぼすことなく桔梗のしおりを指先でつまんだ。しげしげと見つめ、電気に翳してガラスのような世界を覗く。
「綺麗ねえ」
「うん」
「……桔梗、ね」
ふふと少女のような笑みを浮かべて、彼女は慈しむようにしおりの表面を指先で撫ぜる。荒れてかさついたその手にも時間を感じる。
「この本、別れる前から父さんが『将来湊にあげるんだ』って言ってたって話、したことあったよね?」
「あれ、この本のことだっけ?」
「そうよ。じゃ、別に嫌いあって離婚したんじゃないっていうのは?」
「それは何となく」
「そっか」
彼女は何を話すのだろう。目を伏せて淡く笑む姿はとても綺麗で、どこか儚い。
「別れてからずっと再婚する気なんてさらさらないし、今でももう一度結婚するとしたら私は父さんを選ぶ、っていうくらいには想っているのよ。湊には迷惑かけてきちゃったわけだけど」
「いや俺は……」
「この本に、桔梗。ねえ湊、私自惚れてもいいのかな」
「……」
答えに窮した湊が、華波に気づかれないように勲を見る。勲は頷いた。
「もう大丈夫だよ、湊」
もう大丈夫。もう伝わった。……この時間は、もうおしまい。
雪音から少し聞いた、ドリームキャッチャーの特徴のようなもの。ドリームキャッチャー自体に触れると、幽人が見えるようになる。そしてドリームキャッチャーを身に着けて相手に触れると、幽人の声がその相手にも聞こえるようになる。
湊は視線で返事をした。
「あ、母さん肩にごみが」
古典的とも言える文句。それは勲にとって、さよならの始まりの言葉となる。
湊の手が華波の肩に触れる。
本当に声が聞こえるのか、という心配はほんの少しだけ。
「自惚れじゃないよ、華波」
「――え?」
声は少し震えた。華波の双眸が虚空に投じられる。勲は確かにそこに在るが、彼女の目は勲を捉えない。
「二人のこと、ずっと見守っているから」
湊の手が離れるのを見て、ふうと息を吐く。これで、終い。
「み、みーくん、今勲さんの声が……」
「え? 俺は何も聞こえなかったよ?」
湊の空とぼける声が白々しいが、彼女はそんなことは気にならないようで「でも!」と必死に訴える。
「本当に聞こえた! あれは絶対勲さんの声だよ間違えるはずがない」
「ふーん……不思議なこともあるもんだね?」
「勲さん……」
手中の桔梗に目を落とし、両手で包み込むように握り締める。握りこぶしに額をつけ静かに涙をこぼす華波の姿を、勲は記憶に焼きつけるようにじっと見た。
*
外は真っ暗闇。けれども時は近づいてきているのだろう。清明な空気が室内を満たし始める。
「――という感じだったよ」
「そうなんですね」
勲から、夕方の乾家でのことを詳細に教えてもらった。湊はうまくやったようで、役目を押しつけてしまった雪音は改めて安堵の息をつく。
「うまくいってよかったです」
「ああ。ありがとう、雪音ちゃん。君のおかげで全ての想いを昇華できたよ」
「私は何も……乾くんが頑張ってくれたからですよ」
今回雪音は何もしていない。ただ待っていただけだ。
勲が浮かべる穏やかな笑みは最初と変わらない。けれど雰囲気が、何かを吹っ切って憑きものが落ちたような、どこかすっきりしたものになっている気がした。
「それでも、君と出会わなければ私は湊と直接会話をし、華波に声をかけて桔梗を渡すこともできなかっただろう。君と会えたことこそが最大の奇跡だ」
「……」
セリフがかったような大げさな言い回しは気恥ずかしく、けれどもじわじわと深淵に染み込むようだ。
目を伏せる。
「……そう言っていただけると、救われます」
追いやっていても、前回のことはまだ燻っている。だから、それはなおのこと。
「本当にありがとう。湊にも一言そう伝えてくれ」
「分かりました」
顔を上げると、そこにもう勲の姿はなかった。首にかけたドリームキャッチャーに触れる。
明け烏が声を上げた。




