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あれから少しあの場に佇み、何とか自転車に乗って家に帰った。帰り道で冷たい夜風に吹かれてだいぶ落ち着いたのか、母や父に体調を心配されるようなことは何も言われなかった。ライには相変わらず仇のように吠えられたけれど。
早々に自室に戻った雪音は課題をしたり本を読んだりで時間を潰したが、結局ぐるぐると考え込んでしまい何も頭に入ってこなかった。部屋の壁かけ時計が頂点で針を重ね合わせ、徐々にばらけていくのをじっと眺める。秒針がぐるりと回り長針が一を指す直前で、雪音は目を閉じ深く息を吐いた。
カチ、と長い針が動く音を聞いた気がした。目を開ける。
「こんばんは」
「……こんばんは?」
戸惑い気味に挨拶を返してくれた幽人は父と同じくらいに見える男性だった。黒い髪にはちらりと白いものが混じり、ほんの少し猫背気味だ。しかし垂れた目とまなじりに刻まれた笑い皺が顔立ちを柔和そうに見せる。困惑しつつ返された声もあたたかみのある深い声だった。
「初めまして、私は君島雪音といいます」
「氷室勲です」
「勲さん。私は幽人たちの未練をなくすように動いて彼らを見送ることをしています」
座るように促し、ローテーブルを挟んで向き合いかいつまんで説明すると、ふむと勲は頷く。
「それが今回は私、ということか」
「はい。なので、勲さんご自身のことをお聞きしたいんですけど……」
「分かった、何から話そうか」
「いつ、どこで、どうして亡くなったのかをまず」
口の中がやけに渇いて唾を飲み込む。飲みものを持ってくればよかった。
「あれは風の強い冬の日だった。もう四年かそこら前になるのかな。私は一人でマンションに暮らしていたのだが、すぐ近くに実家と弟夫婦の家があった。出勤途中にちょうど弟の家の前を通るんだが、その日の朝もいつものように会社に向かっていた。けれどね、朝の静かな空気を壊すように、住宅街の中から黒煙が上りけたたましいサイレンの音が鳴り響いていた。何かあったのかと思いつつ車を運転して弟の家の前にさしかかると、火が上がっていたのはそこだったんだ。消防車がたくさん停まって、そこから白いホースが幾筋も伸びて、防火服に身を包んだ隊員たちが声を上げながら動いていた。私は車から降りて、野次馬に埋もれながら呆然と立ち尽くしたよ」
勲が遠くの何かを見上げるように視線を虚空に向ける。彼の目にはその時の光景が浮かんでいるのだろうか。
「呆然とする中、周囲の誰かがぽつりの漏らした。家の中にまだ人がいるらしい、と。それを拾い聞いた私は人をかき分け、消防隊員の制止を振り切って火の中に飛び込んだ。ただただ弟夫婦を救いたい一心だった。弟の奥さんはその時妊娠していてね。弟一家にはちゃんと幸せになってほしくて、必死だったんだ。結局は二人とも消防隊員に無事に救出されて、私一人が火に焼かれて死んだのだけれど。……悪いね、楽しくもない話を長々と」
「いえ、ありがとうございます」
一線を引いて受け止め、息を吐いて感情を逃がす。
「あの、ちなみになんですけど、弟さんのお子さんは無事に……?」
「ああ、元気な男の子だった。弟にそっくりだったよ」
「そうですか、よかった」
勲がかかった時の衝撃の残滓が、まだ心の底に渦巻いている気がしてどこか落ち着けない。柔和そうな顔立ちと声音からはそんな強いものを抱えているようには見えないけれど、人は誰にだって見せない何かを秘めていることもあるだろう。
ある種の恐怖と興味が綯い交ぜになる。
「……勲さん」
声が強張った。一線は引く、けれど心には少し踏み込む。その踏み込みは雪音と幽人、双方どこまでが大丈夫なのだろう。流のことがよぎって一瞬言葉を躊躇った。
「――あなたは、何をそんなに切望しているんですか?」
「……」
「ドリームキャッチャーに幽人がかかる時、私には反動なのか衝撃がきます。それは小さなものだったり強いものだったりとまちまちですが、今日の夕方はすごく苦しかった。何かを欲して、求めて、願う。それから強い後悔。ふらつくことは今までもあったけど、しゃがんで動けなくなるのは初めてでした。それほど切に何かを望んでいると私は思ってるんですが……」
言の葉が消える。勲の顔が無表情になる。伏せられた目に、今度は何が映っているのか。
言葉を待っていると、ローテーブルの上に置いた雪音の携帯がぶぶと震えメッセージを受信した。タップして見るといとこの鳴花からだったが、急を要するものでもないのでまた携帯をローテーブルに戻した。
「……会いたい人がいるんです」
彼の声は静かに落とされた。広がる波紋の余韻が消えるのをゆっくりと待つ。
「会いたい人」
「ええ。別れた妻と息子に、一目会いたい」
「離婚、ですか?」
「そう、もう十年は前になるんだけどね、妻に別れを切り出されて、それで。あ、お互い納得して別れたから、泥沼の離婚裁判だとかそんなのは一切ないからね。正直なところ、私はずっと彼女を愛しているんだ、今も」
「離婚の原因は……」
諦めたような寂しげな笑みを浮かべて、勲は話してくれた。
もともと仕事熱心な人間ではあったらしい。結婚し子ができると、家族を守っていかないとと責任感が強く生まれより一層仕事に打ち込んだそうだ。けれども、その時妻が臨んでいたものは異なった。妻は、仕事も大事だが、それよりも家庭を大切にしてほしかったそうだ。幼い子を抱え、彼女もまた働いていた。妻は一度ノイローゼで体調を崩したが、やはり勲は家庭を守るためには仕事をしなければいけないとさらに仕事をこなし、いつしかそれは家庭を顧みない夫となってしまった。結婚生活が七年、子供が五歳になった時に淡々と切り出されたそうだ。別れましょう、と。
「妻は、いつか私が変わると思っていたらしい。ノイローゼで別れたあとも妻のフォローや息子のことなどに構わない私を見て、悟ったそうだ。この人とはもうだめだと。たくさん話し合ったけれど結局は別れることになって、彼女は息子を連れて実家に戻った。お互い幸せな人生を歩みましょう、それが夫婦としての最後の言葉だった」
「……ありがとうございます。じゃあ、奥さんと息子さんは今ご実家に?」
ふうと息を吐いた勲は、切ない笑みを湛えて首を横に振る。
「死んでから一目会いたくて行ってみたんだが、彼女と息子は引っ越したようで実家に両親しかいなかった」
「そうなんですか……」
「離婚後も連絡は取って何回か会ってはいたんだけどね、ここ数年は連絡すら取ってなくて。実家にいないと分かってからはふらふらと全国を探し歩き、そして今あなたと出会っています」
背筋を伸ばす。冷静に確認する。
「勲さん」
「はい」
「あなたの最期の最後の願いは、元奥さんと息子さんに会うことでよろしいですか?」
「ああ。会って、叶うことなら一言声をかけたい」
「分かりました。私にできることは精一杯やります。よろしくお願いします」
浅く頭を下げると、勲も「いえこちらこそ」とぺこりとお辞儀をした。流のことはとりあえず払拭し、目の前のことに集中する。まずは二人を見つけることだ。
「それで勲さん。二人の居場所に検討はついてるんでしょうか? 小さな手がかりでもいいんですけど」
「ああ、それなら。私は何か情報を得られないだろうかとたびたび彼女の実家に寄っていたんだが、先日そこで『津科高校』という言葉を聞いたんだ。それを頼りに探し歩いて、そして松海市に同じ名前の高校があるということが分かって今日着いたところだったんだ」
だから学校でかかったのかと、雪音は一人納得する。
「ということは、息子さんは私と同じ学校に通っている、という可能性が高いんですかね……?」
「私もそう思ってここまで来たんだ」
「なら探す目処もつきそうなのでよかったです。元奥さんと息子さんの名前を聞いてもいいですか?」
とりあえず明日、雪音よりも顔が広い翠夏にでも軽く聞いてみたら何か情報が出てきそうだ。仮に彼女が知らなくても、先生に聞いてみるだとか方法はいくらでもある。
探す、という一番の難題を突破できそうで安堵する。
「再婚していなければ姓は乾、妻は華波で息子は湊だ」
「――え?」
脳裏に、今日見たバスケ部の練習の光景が浮かぶ。
探し人は、こうしてあっけなく見つかってしまった。
翌日、雪音はいつもより少し早めに登校した。自分の席に座り、次々とクラスメイトが教室に入ってくるのをじっと見る。勲も横に並んで、心なしか緊張した面持ちだ。
「おー湊おはよー」
「はよー」
待ち人来たり。胸元のドリームキャッチャーを服の上から握り、勲に呼びかける。
――勲さん、あなたの息子さんは、彼で間違いないですか?
「……ああ、湊だ。最後に会った時から変わらない。大きくなったなあ」
感慨深げな声は少し揺れていた。
湊は自分の席まで来ると、隣の雪音の顔を心配そうに、そしてどこか不安げに見た。
「君島、おはよう」
「――スイちゃん!」
ちょうど翠夏が教室に入ってきたのを目ざとく捉えて駆け寄り、その勢いのまま廊下に押しだした。
「は? ちょっと雪音、どうしたの」
「ちょっと話が……」
「ん、分かった。屋上の前行こう」
何かを察したらしい翠夏は身軽く踵を返し、登校してきた生徒で賑わう廊下を抜けて階段を二階分上がる。
朝でも屋上の前の空間は静寂に包まれていた。階下の喧騒が遮断されたかのように一切聞こえてこない。
「で、何があったの?」
今日はくもりで日が差していないのもあり、足から寒さが這い上がってくる。
「あのね、乾くんが息子さんだった」
「……雪音、落ち着け。まず紹介して」
気が急きすぎて言葉がすっぽ抜けてしまった。呼吸を一つ意識的にして気分を落ち着かせる。
「うん、ごめん。こちら氷室勲さん。勲さん、友達の翠夏です。霊感があるのであなたの姿も見えるし、話すこともできます」
「おお、そうなのか。氷室です」
「和泉です、どうも」
双方紹介し、勲に了承を得て翠夏に彼のことを簡単に話した。離婚していること、元奥さんと息子に一目会いたいと思っていること。
聞き終えると、翠夏は「はーなるほどねー」と声を漏らす。
「というか、乾って母子家庭だったんだね」
「うん、私も昨日まで知らなかった」
「で、どうするの?」
それはこのあとの展開についての「どうするの?」だ。幽人関係のことは知らない、けれど雪音自身が知っている人が関わってくるのは初めてのことだった。いっそ全くの他人のほうがはるかにやりやすいのだけれど、それについては昨晩からずっと思考を巡らせていた。
「知ってる人だし、高校卒業するまでは間違いなく学校という大きな関わりがある。だから、下手に嘘はつけないから、ちゃんと話そうと思う」
「そっか。まあ、乾なら話しても大丈夫だと思うよ。悪いようにはしない人でしょ、たぶん」
「うん」
仮にもクラスメイトとして二年は一緒なのだ。それなりの人となりを鑑みての信頼もある。たぶんきっと、彼なら大丈夫だろうと思う。思いたい。
「二人は、湊と仲がいいのかい?」
「あー仲がいいってほどではないけど、クラスメイトとして話したりはしますよ」
「私は去年も同じクラスでした。乾くん人当たりもいいし穏やかだから話しやすいです」
「そうかあ……。息子の世界をこっそり垣間見ている感じで、何だか不思議な気分になるよ」
湊や元奥さんについて話す時、勲の周りの空気がゆるりとやわらぐ。本当に二人のことが大好きなんだなと感じると同時に、その雰囲気はどこか湊を思い出し彼は父親似なのだろうかとあたたかく思う。
「で、乾にはもう話すの?」
「うん、早いほうがいいから」
腹はもう決めた。
教室に戻ると、大体の生徒が登校してきていて話し声や笑い声がさんざめく。湊はその中で席に座って本を読んでいた。どこか所在なさげに見えるのは気のせいだろうか。
「乾くん」
「……君島」
「今日の昼休み、ご飯食べてからでいいから屋上の入り口の前に来てもらってもいい? 話したいことがあるの」
何を考えているのか、湊はぼんやりと雪音を双眸に映す。
そして彼は間を置いて首肯した。
「分かった」
ほっと眉を開く。
「ありがとう」
同時に、知らなくていいことを話すことをごめんなさいとも心の片隅で思った。
四限目が終わると同時に、雪音と翠夏はそそくさと教室を出た。湊が来るまでにお弁当を食べてしまおうと頬張り、そしてその最中にひたひたと階段を上ってくる足音が聞こえ始めた。
「え、もう来た?」
話は、長いものとなるだろう。昼休みのあいだに話し切れるかどうかも怪しい。だから昼を食べるタイミングは今を逃せばこのあとはないだろう、急いで残りのおかずを流し込む。
雪音が最後のおにぎりを口に入れたところで、彼は目の前に現れた。
「君島、話って」
「いふいふん、ひょっとまっへへ」
「雪音落ち着いてって。ほら水筒」
「ん……うん。ありがとうスイちゃん」
お茶で口の中のものを飲み込んでほっと息を吐く。状況を把握できないからか、湊が戸惑ったように「えーっと。それで話って……」と再度声を出す。
「というか、和泉もいたんだね」
「やほ。もしほんのわずかでももしかしてと思ってたならご期待に添えない展開でごめんね?」
「いや別に俺は」
「じょーだん。結構真面目な話だから。ね」
「うん。……乾くん、とりあえず座ってもらって大丈夫だよ」
「あーうん」
冬はさすがに寒すぎて直に床には座れず、雪音たちはブランケットを持ち込んでリノリウムの床に敷いている。その一端に湊は腰を下ろし、膝を抱えて雪音を見る。その視線はやはりまだまごついていて、わずかな緊張感を孕んでいた。
「あのね、今から話すことは信じられないかもしれないけど、事実として受け入れてほしいの。そこを経て、私はあなたに伝えたいことがある」
「分かった」
「まず、私は幽霊が見えます」
「……うん」
湊の戸惑いが深くなるのを肌で感じた。雪音は一つ一つ、端折れるところは端折ってけれども分かりやすいように言葉を尽くした。雪音の今までの経験をなるたけ丁寧に語っていく。湊はあからさまには出さないが不審というか不信というか、最初こそそんな風に捉えているように見えたが、だんだんと体勢が前のめりになってきて雪音の話をきちんと受けいれているのが伝わってきた。
「前、秋ごろだったかな。夜にジョギング中の乾くんと会ったことがあったんだけど覚えてる?」
「うん、覚えてる」
「あの時乾くんに誰かと話してたのかって聞かれて電話してたって答えたんだけど、本当はあの時幽人としゃべってたの」
「あー、そうだったのか……」
「ここまで大丈夫?」
「うん、何とか」
ちらりと横目を向けると、勲が緊張した面持ちで佇んでいる。目が合って、一度頷いてから湊に視線を向けた。
「で、ここからが本題で乾くんに話したいことなんだけど」
「うん」
「今一人の幽人がかかってるんだけど、その人は乾くんのお父さんだった」
「え、俺の父さん?」
くるりと目を丸くする湊に、今朝翠夏にも話した勲のことを話す。湊は終始驚いていたが、父の未練が自分たちに会いたいことだと知ると口を真一文字に固く結んでいた。それは感情がこぼれないようにしているように見えた。
「……じゃあ、今ここに父さんがいるってこと?」
「うん。……乾くん、これ持って」
いつも首にかけているドリームキャッチャーを外し、湊に手渡す。網と羽根を模した銀色のペンダントトップが鈍く光る。
「で、あっち見て」
「――! 父さん……?」
ドリームキャッチャーを外すと、雪音には幽人の姿は見えなくなるし声も聞こえなくなる。雪音と湊、見えると見えないが完全に入れ替わった状態だ。
勲が何か言ったのか。驚いていた湊の顔がゆるりと笑む。
「父さんは変わらない、ね」
「……乾くん、ごめんね。背中触るよ」
「え?」
湊のブレザーの背に手のひらを添える。
「勲さん?」
「うん?」
懐かしさと慈愛の音色に染まったやわらかな声が聞こえた。姿は相変わらず見えないけれど、声と微かな気配が感じられれば問題はない。
「ドリームキャッチャーを外すと、私も幽人の姿が見えなくなるし声も聞こえなくなるんです。だから乾くんには悪いけど、こうやって触らせてもらうね。ドリームキャッチャーをしている人に触れると声は聞こえるようになるから」
「え、じゃあ君島が持ってたほうが……」
「ううん、少しでも姿が見れるなら、そのほうがいいと思うから」
一目でも会いたい。可能ならば、それは何度でもあってほしいと雪音も願う。
「……ありがとう、雪音ちゃん」
「いえ」
微笑む声は、次の言葉で少し固く強張った。
「……湊、母さんは元気か?
「あ、うん、元気。相変わらず朝が弱いから俺が起こしてる」
「そうか。……苦労をかけて悪かったな」
「ううん……」
言葉がやむ。けれどそれは気まずい沈黙ではなく無言で存在を確かめ合うような、ぬくもりのある空間だ。雪音と翠夏は目配せし、親子の邪魔にならないようそっと無言を保っていたが、残念ながらここで昼休み終了を告げるチャイムが鳴った。
「あ、鳴った」
「次移動教室だから早く戻らないと」
湊からドリームキャッチャーを受け取り、再び首にかけて服の中に入れる。雪音には見えるようになった勲の姿が見えなくなったからか、湊は勲のいる場所を探るように目線をあちこちに巡らせていた。
わたわたと弁当やブランケットをまとめ、階段を下りる。
「あ、乾くん」
「ん?」
雪音よりも数段下にいある翠夏と湊が振り返って視線を上げる。
「今後のことを色々話したいんだけど、近いうちに時間ある?」
「あーっと、今度の土曜日……もう明日か。明日の午後からなら大丈夫。部活午前練だから」
「んじゃ、十三時にあたしの家に集合でどう?」
「いいの?」
「いよいよ。あたし場所提供するくらいしかできることないし」
「ありがとうスイちゃん。じゃあ乾くん、それで。二人ともよろしく」
礼をする雪音の隣で、勲も「お世話になります」と頭を下げた。湊も翠夏もにっかり歯を見せて笑っていた。




