1
クリスマスは翠夏とささやかなプレゼントを交換し合い、年末年始は市内に一人で住む祖母の家ですごした。短い冬休みはすぐに終わり、三学期が淡々と始まって一週間ほど。流のことがあってから約一か月が経った。
あれからずっと、雪音は彼のことを引きずっている。翠夏はもちろん、何も知らないクラスメイトにまで「元気ないね、大丈夫?」と何度も声をかけられたほどだ。傍目から分かるほど、元気がなく見えるらしい。
雪音はずっと考えている。もっとほかにいいやり方があったんじゃないのか。あったに決まっている。どうして別の選択肢を選べなかったんだろう。ここまで引きずることはあまりないが、それでも自分に非しかないと責め続けた。たぶん、あれから幽人が一度もかかってないことも要因だ。雪音の中で流の区切りがついていない。
翠夏には軽く話をしたが、「あんまり気負いすぎんなよ」とぽんと肩を叩かれた。決して遠いわけじゃないが、あまり踏み込んでこない距離感にひどく安堵する自分がいた。
「あ、君島ー」
「? はい」
ぐるぐると思考を巡らせながら学校の廊下を歩いていると、後ろから担任の渦野がやって来た。
「まだ学校にいたのか。今から帰るのか?」
「はい。委員会がちょっと長引いたので……」
三年生が自由登校となり、二年生が主体となる委員会はその切り替えにばたついていた。ちなみに雪音は美化委員だ。
「そうか。……帰るついでに、ちょっと頼みごとしてもいいか?」
「えーっと……」
内容による。正直言えばもう十八時を迎えようとしているので帰りたい。
「ちょっと体育館に寄ってもらうだけだから。君島は自転車通学だったよな? ほら、駐輪場に行く時に横通るだろ」
「あーまあ、それなら……」
「よし、ありがとう。この書類を奥田先生に渡してもらいたいんだ」
「奥田先生ですか?」
「そうそう。部活中で体育館にいると思うから」
奥田港輔は体育の教師で、確か男子バスケ部の顧問だったはずだ。まだ二十代で明るく愛嬌のある先生なので、こーちゃん先生と愛称をつけられ生徒に馴染んでいる。
「分かりました」
「悪いな、頼んだ」
渦野から茶封筒を受け取り、雪音は外はもう暗くなって蛍光灯の明かりがより眩しく見える廊下をさっさと歩く。そのまま校舎を出て、進路を左に取って体育館へ向かう。窓から中の明かりが漏れ、ボールのバウンドする音や練習に励む声が聞こえてくる。
ローファーを脱ぐと、夜気を含んだ風に靴下に包まれた足がひやりと冷えた。ひたひたと歩いて室内に入ると、まず運動部の熱気に圧倒された。体育館の真ん中を大きな緑のネットで二つに区切り、手前で男子バレー部、そして奥のステージ側でバスケ部が練習をしていた。
ボールがところ構わず飛び交うのに怯えながら、雪音は壁に張りつくようにして奥のバスケ部を目指す。ステージのすぐ下に奥田がいるのは見えていた。何とかバレー部を抜け、緑のネットの隙間を通ってバスケ部の練習面に入る。
と、すぐ目の前をボールが横切り、鈍い音を立てて壁にぶつかって大きく跳ね返っていった。思わずひいと声が漏れ固まっていると、男子生徒がすみませんと駆け寄ってきた。
「すみませ、って君島?」
「……乾くん?」
「何、どうして体育館なんかにいるの?」
首をかしげるのはクラスメイトの湊だった。黒のTシャツに紺のハーフパンツで、外はとても寒いしここもあたたかいとは言えないのに、髪はしっとりと濡れてこめかみに流れる汗を腕のリストバンドで拭っている。
「そっか、乾くんはバスケ部か」
「うん」
「えーっと、私こうちゃん先生に用があって」
「あーそうなのか。……君島」
湊はちらりと背後の部員を気にしながら、ボールのバウンドする音に紛れるくらい声を潜めた。
「最近元気ないけど大丈夫?」
思わず漏れた苦笑は、ここでもかというものだ。そんなに表に出ていたのか。
「大丈夫だよ、ありがとう」
「そっか……」
「うん。じゃ、練習頑張ってね」
ひらりと手を振ると、湊も片手を小さく上げて練習へと戻っていった。
奥田は雪音の存在に気づいたようで、不思議そうにこちらを見ている。またボールが飛んでくる前に、と早足で彼のもとへ向かう。しっかりしないとな、そんなことを頭の中で考えていた。
「奥田先生」
「どしたー? あ、お前らミニゲームやって終わりな。体育館点検の人が来るから早上がりなの忘れんなよー」
うっすと低い返事がまとまって聞こえ、奥田は「ごめん、それでどうしたって?」と雪音に水を向ける。
「渦野先生から書類を渡してくれと頼まれたので、持ってきました」
「書類?」
茶封筒を渡すと、奥田は糊づけされていないそれから紙を取り出し検め始めた。けれどすぐに眉を下げ、申し訳なさそうな顔で雪音を見た。どこか哀れむような視線ですらある。
「渦野先生朝の会議聞いてなかったな。……せっかく持ってきてくれて悪いんだけど、これ、オレの担当の書類じゃないんだよね」
「あー、はい?」
「ごめんね。これ、渦野先生に返してあげてくれる?」
「……はい」
顔が引きつる。無駄骨骨折り損。こぼれそうになったため息は何とか噛み殺す。
再び返ってきた封筒を携え、また体育館の壁に沿って歩きだす。コートを見ると、バスケ部員たちは赤と緑のビブスをそれぞれ身に着け、本当の試合のように一つのボールを取って取られて追っていた。その中に湊の姿を見つけたが、教室にいる時の穏やかな雰囲気は消えていた。好戦的で、けれど楽しそうな表情。前に一度翠夏のテニスの試合を見たことがあるのだが、あの時の彼女も今の湊のような顔をしていたことを思い出した。
試合の行方を追い足が止まりかけたが、ボールが飛んでこないうちにと小走りで体育館をあとにした。部活の熱気に充てられたのか、外に出るとさっきよりも寒さをきつく感じて背筋に震えが走った。早く帰りたいが、渦野に会うためにとりあえず職員室に足を向ける。
しかし、職員室に渦野はいなかった。ほかの教師に聞いてみても返ってくる答えは分からないばかり。渦野の机に置いてきてもよかったのだが、もし大事な書類だったらいけないと思い封筒を持ったまま職員室を出た。彼の担当は日本史で、いるんだったら社会科準備室だろうと目星をつけて雪音はしんと耳を圧迫するほど静かな廊下を一人歩いた。
結論から言うと、渦野は準備室にもいなかった。校内のどこかにいるだろうと探し回ったが担任は見つからず、もう仕方がないので書類を置いて帰ろうと職員室に戻ると、何とそこに渦野はいた。湯気の立ち上るマグカップを片手に、「何だ君島、まだ帰ってなかったのか」とのんきそうな声をかけられ思わずいらっとした。誰のせいで校内を駆け回るはめになったんだ。
「先生、書類違うって」
「ん、え?」
「奥田先生に持ってったら、オレの担当じゃないって」
「あれ、渦野先生。今朝の会議で書類は教頭先生に提出に変わったでしょう、しかも提出は来週で」
「え、あれ、そうでしたっけ?」
隣のクラスの先生にははと空笑いを向けている。奥田がぼそりと呟いていた、話を聞いてなかったというのは事実のようだ。今度のため息は我慢せずに吐いた。
「はは、悪かったな君島ー」
「……帰ります」
「おう、気をつけてな!」
浅く頭を下げて踵を返す。校舎を出るとどっと疲れが押し寄せてきた気がした。息を吐いて見上げた空はくもっていて、星も月も姿を隠しただただ闇が広がっている。
もう帰れる早く帰ろう。視線を進路に向けて雪音が一歩足を踏みだした時、棒で胸を思い切り疲れたように呼吸が止まった。
「――っ!」
服の上から、首から下げたドリームキャッチャーをすがるように握り込む。背後から悔いに襲われ波に飲み込まれ、高い波は白花を散らして激しく何かを訴える。体の底から、強く、強く、切に願うもので胸が張り裂けそうになる。
あまりに苦しくて雪音はしゃがみ込んだ。頭がくらくらとし、心臓は叫ぶように脈打つ。
何、これ……。
「――君島!?」
聞き覚えのある声が遠くて聞こえて、その気配は雪音に駆け寄ってきた。手が背中に触れてさすられる。
「君島、大丈夫か!?」
ゆっくり頭を上げると、制服姿の湊が間近から心配そうに雪音を見ていた。貧血の時のように、見えるものにノイズが走って、ざらざらと耳鳴りに圧迫される。
「乾くん……」
「大丈夫? 先生呼ぶ?」
ゆるりと顔を横に振る。小さく深呼吸を繰り返すと、心臓の動きは穏やかになり頭の眩む感じはすぐに落ち着いた。しかし立ちあがるとふらつき、湊に腕を掴まれて支えられた。
「ごめん、ありがとう」
「体調不良?」
「大丈夫、もう帰る」
「え、それで帰れる?」
「大丈夫だから」
「君島……」
雪音は目を伏せて淡く笑み、足早に湊の前を去る。彼には悪いが、構っているほどの余裕は雪音にはなかった。
まだ明かりがついている体育館の横を抜け裏の駐輪場まで来ると、雪音は立ち止まって再びしゃがんだ。まだ足が震えている。こんなことは初めてだ。まだ感情の残滓が燻っている。あとを引くほどの衝撃は今まで受けたことがない。
今夜は、一か月ぶりの出会いとなる。




