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「ナギ?」
喫茶室の扉を開けて顔を覗かせた男性を見て、凪早はぱっと華やぐような笑顔を浮かべた。逆に雪音の表情は凍りつく。
「敬汰くん! ……今の彼なの」
雪音に顔を寄せて囁き、周囲の空気をも幸せに染めるようにふふと笑む。けれど雪音はそれどころではなかった。
塙敬汰だ。十月に引っかかった幽人洋子の元カレの人。実は殺されそうになっていた人。浮気をした人。変なバンドマンだったらしい人。こんなところで会うなんて、否もう一度出会うなんて想像もしていなかった。
全身の血が、急激に重力に引っ張られたように足元に落ちていく。まずい。
凪早が女子高生といることに塙は怪訝そうな表情を浮かべたが、それは雪音だと気づいたのか目を丸くして動きが止まった。彼の不審な動きに凪早は首をかしげた。
もう雪音は願うしかない。どうか、どうか頼むから余計なことを言ってくれるな。
「敬汰くん?」
「え、あ、ああ……」
彼女の声でフリーズが解け、凪早と向かい合って座っている雪音を半ば睨みつけながら塙はこちらに近づいてくる。
「彼との待ち合わせで図書館に来てて、さっきここに来た時に喫茶室にいるって連絡してたの。今日は仕事の終わる時間が珍しく合ったからこのまま出かけるのよ」
「そう、なんですね……」
「ナギ。そいつ何? 何話してたの?」
刺々しく冷たい声音が、言外に雪音を攻撃する。凪早は鈍いのか、楽しそうにころころと笑っている。
「通りすがりの女子高生さん。世間話に付き合ってもらってたの」
「……ふーん。早く行こう、店予約してるから」
「うん。あ、ちょっとお手洗いに行ってくるから、ここで待ってて。君島さん、お話聞いてくれてありがとう。あなたならきっと大丈夫よ」
じゃあね、と手を振り、凪早は喫茶室を出て行った。
花を失った喫茶室は、どんより重厚な空気が立ち込める。敬汰が凪早に何か余計なことを話す危機を脱して、雪音は深く息を吐いた。幽人の関係で知り合った関わりを、第三者に知られていいことなどない。雪音はもちろんその人にも、双方メリットはないのだ。
塙の口が重たそうに言葉を吐き出す。
「ナギと何を話していた? 変なこと言ってないだろうな。まさか、まだ洋子がいるのか……?」
「知り合いの話を聞いていただけです。あなたに関することは何も言ってません。あと、洋子さんはもういませんよ。あなたと会った翌朝に、もう」
「そう、か……」
沈黙。空気が重い。流の話を聞くということは達成された。もう帰ってもいいだろう。
席を立つと、塙がぴくりと身じろいだ。
「どうか、同じ間違いをしないでくださいね」
「言われるまでもねえよ。オレは今幸せだから」
「……そうですか。凪早さんに、ありがとうと言っていたと伝えてください」
「分かった」
「では、失礼します」
荷物を持ってその場をあとにする。喫茶室を出ようとして、そういえばと部屋の隅にいた流に視線を向けた。
雪音は思わず息を飲んだ。
彼は、喫茶室に一人残され手持無沙汰にそわそわしている塙を、心の底から憎むように鋭く睨んでいた。その形相は恐ろしく、整った顔立ちもあって人形のように冷たく無機質で、けれど炎が燃え盛るように激しい感情がこもっていた。
つと、流の視線が雪音に向いた。全身が粟立つ。痛覚が騒ぐ。覚えた痛みはじわじわと蝕んでいき雪音を腐らせるようだ。
物理的に刺さりそうなその強い眼差しに、雪音はたじろいだ。
家に帰っても流はずっとぴりぴりとした雰囲気をまとっていて、雪音は声をかけられなかった。
ご飯や風呂をすませて、自室に戻る。流は部屋の隅に佇み、虚空を睨んでいる。その迫力に身がすくむが、それでもと雪音は彼の話を聞きたいと思った。
今日の行動の何が、彼の心にどう触れたのか。間違いなく凪早と会って話したことは要因だろう。ではどの部分か。過去の話を聞いたことか、凪早の存在自体か。流は何に対して苛烈とも言える激しい感情を抱えているのだろう。凪早に話を聞こうと動いた雪音を叫んで止めようとしたその真意は。
そこを把握できれば、流のために立ち回れる。雪音はそう信じている。信じていた。――否、そう思い込みたかったのかもしれない。
「あの、流さ――」
「俺に話しかけるなっ!」
出会ってから聞いたことのない、図書館で聞いた叫び声とは比にならない荒らげられた声。鋭い眼光にこもった殺意に殺されそうだ。険しい、塙を見ていた時の恐ろしさを抱く形相が雪音を圧倒する。
声が出ない。体が動かない。一定に刻まれる時計の音を、ぽたんぽたんと体内の血が外部に滴り落ちる音色に錯覚する。血の気が薄れていく。末端が寒い。
ゆらりと幽鬼のように、流が雪音に近寄ってくる。
「――っ!」
そのまま、食い殺されるかと思った。
けれど流は雪音の目の前で糸が切れたように床にしゃがみ込み、三角座りをして膝に頭を埋めた。立ちすくむ雪音からは彼のうなじが見える。
「流、さん……?」
彼の突然の変化についていけず戸惑う。流の前にしゃがんでも、彼の顔は見えない。反応もない。けれどその代わりにぶつぶつ、呪詛のような言葉が聞こえた。
「……お前のせいだ。凪早が俺が死んであとを追わないわけがない。ましてや俺以外のやつと付き合うなんてありえない。何で凪早は一人で生きている。なぜ俺だけが死んでいる。俺は凪早を愛している。凪早も一生俺だけだと言った。家族はいないも同然だけど、じゃあ私たちが新しく家族になろうって。家族はいつも一緒にいるものだろう。俺は死んでからもたくさんの家族を観察してきた。何で家族の凪早が今一緒にいない? お前のせいだお前のせいだ、何で凪早は死んでないんだ」
私たちは狂っていたわ。
凪早の言葉を思い出す。彼と彼女は狂っていた。彼女は彼の死後、塙によって救われた。では、彼は。凪早の言葉を借りれば、流は生前の狂った時のまま今なお狂っている。凪早は前を向いて去った地で、流は取り残されてひとりきりだ。
何度か恐る恐る声をかけてみたが、流は一人で言葉を垂れ流すだけで雪音のことなど認識していないかのようだ。仕方がないので初日のように一声かけてから部屋の電気を消し、雪音はベッドに横になった。
暗闇の中、彼の低く濁った声がひたすら唸り続ける。かけ布団を頭から被って耳を塞いでも、それはずっと雪音を苛む。
ぶつぶつぶつぶつ……。
彼の心はまだ生きているのだろうか。そう考えているあいだにも、彼の声はずっと続いていた。
鳴り止まなかった声が、ふと気づくと聞こえなくなっていた。被ったままの布団から顔を出すと、冷たい空気がひやりと肌を覆った。清涼な朝の空気。カーテンの向こうが仄かに明るい。考え込んでいるうちに眠っていたようだ。
「……?」
身を起こして首をかしげた。
声はもうなくなっている。そして、流の姿も部屋からなくなっていた。
「流さん……?」
寝起きの頭が、すっと冷静に冷えていく。
タイムリミットなのか、それとも未練がなくなったのか。彼はもうここを去ったのだ。
思い残すことがなくなったのだとしたら、何だったのだろう。凪早に会うことか、声を聞くことだったのだろうか。
分からない。何にしろ雪音にはもうそれを知る術はない。
ただ一つ、確実に分かっているのは。
雪音が精神的にも物理的にも、流を見送れなかったということだ。




